2.疑惑

「ひゃっ?」

 思わず小さな声が漏れた。

 手にかけていた本が床にバサリと落ちる。しかしそれを拾い上げることもできないまま、私はしばし身を硬直させて、辺りの気配に耳を傾けた。

 ……静かだ。何も聞こえない。

 だが今の音は――出所は、ではないのか。

「……瑪瑙めのうさん?」

 まだ下の名前で呼ぶ勇気のない相手に、私は小声で囁きかけた。が、やはりそれ以上の物音はしない。

 しかしあれは、りんが鳴らしたもので間違いないはずだ。高校の図書室に銃が何丁もあって堪るか。

 私はいまだ強張りたがる体をどうにか叱咤しったすると、ぎこちない忍び足で、恐る恐る本棚の間を進み始めた。

 凜を探さねば、と思った。彼女の身に何かが起きたのは間違いない。心配だし、何よりこの得体の知れない異様な空気の中、一人でいるのがとにかく不安だった。

 暑さとは違う汗に首筋を濡らしながら、本棚の列の間を一つ一つ確認していく。

 ……凛は、奥から四番目で見つかった。右手に拳銃を握り締めたまま、仰向けに倒れた姿で。

「瑪瑙さん!」

 小声で呼びかけたが、反応はない。

 ほこり臭い図書室の中で、今この一角にだけ、硝煙しょうえんの臭いが立ち込めている。

 撃ったのか。それとも――撃たれたのか。

 私は目を凝らし、凛の様子を確かめた。わずかだが胸が上下している。息はあるらしい。ひとまず安堵する。

 それから身を屈めて怖々と右手を伸ばし、指先で銃に触れてみる。熱い。ということは、やはり発砲されたのはこの銃で間違いない。

 でも……これはどういうことだろう。

 ――瑪瑙凜。記号的に一言で表すなら、「殺し屋」。

 その「殺し屋」が、なのに銃声の直後に倒れている――。

 いったい何が起きたのか。いやそもそも、それを悠長に考えていられる状況なのか。

 銃に触れる指先が、細かな震えを帯びる。嫌な予感がする。私は今、この上なく危険な状況にあるのではないか――。

 そう思った時である。不意に本棚の向こうで、カツン、と靴音がした。


「――何かしら、今の音。うるさくて目が覚めてしまったわ」

 不機嫌そうな少女の声が響いた。帷子かたびらミリルだ。こちらに来る。

 私はとっさに立ち上がろうとして――そこで一瞬迷った。

 凛の手の中には、彼女の大きな「秘密」が残されたままである。それを他人であるミリルに見られることが、何を意味するか。

 ――銃を隠さなければ。

 とっさにそう考えた。いや、凜をかばうというよりは、単に面倒事を増やしたくないという、私なりの本能ゆえに。

 私が凜の手から銃をもぎ取り自分のポケットに捻じ込むのと、ミリルの蒼白顔が本棚の陰からこちらを覗き込むのと、ほぼ同時だった。

「あら高浪たかなみ、何があったの?」

 肩にかかる髪を揺らし、不自然なまでに赤く光る瞳を私に向け、ミリルはくすりと微笑んだ。

 ……そう、微笑んでいる。倒れた凜の姿が見えているはずなのに。

 しかしこういう時、ミリルはまったく動じない。悪意に満ちた魔性なればこそ、彼女は日頃から、この手の異様な情景に悦びを見出す。

 ――帷子ミリル。記号的に一言で表すなら、「吸血鬼」。

「ええと……見てのとおり。瑪瑙さんが倒れていたんです」

 とりあえず、私はミリルにそう答えた。本当に見てのとおりだ。

「ふうん、そう」

 ミリルが楽しげに相槌を打つ。それから彼女は軽く首を傾げて黒髪を揺らし、倒れているメガネの図書委員を観察し出した。

 一方その傍らで、私は懸命に思考を巡らせる。

 ――そうだ、考えなければならない。私が見ていない間に、ここで何が起きたのか。

 ――この図書室に潜む得体の知れない危険から、私の身を守るためにも。


 まず、さっきの音が銃声なのは間違いない。撃ったのは凛だ。銃は彼女が握っていた。

 では、なぜ撃ったのか。……例えば、この図書室に殺しのターゲットがいた、という線は薄いだろう。凛以外でこの図書室にいるのは私とミリルだけだし、私達二人は今のところ、彼女の標的にはなり得ない。それは、以前の事件で知った凜の「あるポリシー」から分かっている。

 つまり、他に発砲する理由があったわけだ。それはおそらく、今ここで凜が倒れているという事実から推理するに――。

 ……何者かに襲われた。

 そう、これしかない。

 凛はこの図書室で何者かに襲われた。襲われて、抵抗しようととっさに発砲した。しかしその甲斐虚しく、彼女は相手の魔手にかかり、こうして気を失ってしまった――。


「血は出てないのね」

 ふとミリルが呟き、私の意識を引き戻した。

 彼女は軽く鼻をひくつかせ、どこか不満げな表情を浮かべている。慣れ親しんだ香りの存在がないからか。あるいは、もっと大惨事を期待していたのか。

 だが――その時だ。不意に彼女の顔が、一転して引き締まった。何か不審なことに気づいた、とでも言うかのように。

「ピストル……ね」

 音と硝煙の臭いで、それはすぐに判ったはずだ。今さらどこが不審なのか。

「なぜピストルが、あなたのポケットにあるのかしら、高浪」

「って私ですか!」

 しまった。不審がられているのは私だった。ていうか、なぜバレてる。

「わ、私は何もべつに!」

「嘘おっしゃい。この硝煙の臭い、あなたから香ってくる。高浪、あなたのそのスカートのポケットよ」

 ミリルの赤い瞳が、私の腰の辺りにしっかりと向けられる。吸血鬼の嗅覚、恐るべしだ。

「どういうことかしら。銃声が聞こえて目を覚ましてみたら、瑪瑙が倒れていて、あなたがピストルを持っていて……。ふん、なるほど」

 面白いじゃないの、とミリルの顔に笑みが戻った。まるで、玩具代わりの鼠を与えられた猫のような、残忍な笑みが。

 この場合、鼠は私だろうか。少なくとも、このマントの娘が何を想像したかは、明らかなのだ。

「……違います!」

 私は慌てて否定した。

「これは私が射殺したとか、そういう物騒なアレじゃありません!」

「まあ、殺してはいないみたいね。でもこの状況を見れば、誰が襲ったかは考えるまでもないわ」

「で、でもほら、瑪瑙さんはちゃんと生きてますよ? もし私が撃ったなら、瑪瑙さんが生きてるわけないじゃないですか。だって銃ですよ? 撃たれたら死んじゃってるはずですよ?」

「それはあなたの腕が悪かっただけよ、高浪」

 ……そうだ。普通はそう考える。私がどんなに取り繕ったところで無駄なのだ。

「どうせ弾は外れたのでしょう? ただその音で瑪瑙が気を失っただけのこと。……いえ、もしかしたら、あなたが瑪瑙を銃身で殴って気絶させた拍子に、ピストルが暴発したのかもしれないけど――。どのみち何の取り柄もない本の虫を襲うなんて、高浪、あなた意外と物騒なのね」

「いや、何の取り柄もないって……」

 それは凜に対してだいぶ失礼だ。もっとも、もし本当のことを明かしたら、私が後で凜に撃たれるだけだろうから、絶対に言わないけど。

 まあ、彼女の取り柄の話はどうでもいい。今はただ、我が身の潔白を訴えるのみ。

「ちょっと待ってくださいよ。本当にどうして私がそんな物騒なことをしなきゃならないんですか。だって私には瑪瑙さんを襲う理由がないし、銃を……その、使う必要だって」

「あら、そうでもないわよ。だって高浪、あなたなら何だってやらかしかねないもの」

「どういう意味ですか!」

 根拠が失敬すぎるだろう。いったい私は何だと思われているんだ。

 ……いや確かに、私がここに転校してきて以来、悪目立ちしているのは間違いない。何しろ一部から「受難マキゾエ」と称されるほど、ありとあらゆるゴタゴタに関わってしまっている。

 ある時は他人が画策した陰謀に巻き込まれ、またある時は世界の命運をかけた他人の戦いに巻き込まれ、またある時は他人のラブコメに巻き込まれ――。そりゃもう毎日が大忙しだ。しかし好きでそうなったわけではない。悪いのは一年おつ組という、うちのクラスそのものだ。

 だいたい、どこの世界に殺し屋と吸血鬼と、その他各種非現実的な高校生の共存している教室があるというのだ。あって堪るか。あるから腹立たしい。

 そしてそんなクラスにいれば、たとえ私のようなごく普通の平凡な一般女子高生だって、厄介事に巻き込まれて当然なのだ。

 つまり私は白だ。誰がどう言おうと、間違いなく真っ白だ。

「……私は、瑪瑙さんには何もしていません!」

 阿鼻叫喚じみた学園ライフのフラッシュバックで弾けそうになった頭を押さえ、私はただそれだけを、強くミリルに訴えた。


 しかし――私が犯人でないのは間違いないとして、だ。

 じゃあ本当の犯人は誰なのか、という問題がここに出てくる。

 私の耳に誤りがなければ、発砲後、ドアの開閉を告げる鐘はまったく鳴っていない。つまり、この図書室から出た者はいないということだ。

 ちなみに、犯人が窓から逃げ失せた、という可能性もないだろう。ここは四階だし、何よりこの奥まった位置から窓までは距離がありすぎる。走れば足音で気づくし、犯人が悠長に歩いて立ち去るとも思えない。

 だとしたら――もう答えは一つしかない。そもそもこの図書室には、ずっと私達しかいないのだから。

「……帷子さんじゃないんですか?」

 ポケット越しに凛の残した武器の感触を確かめながら、私はできる限りの冷静さを装って、ミリルに訊ねた。

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