11.真相、そして終幕

 吸血鬼――。そう、帷子かたびらミリルは吸血鬼である。

 したがって彼女は、

 だから、ここにいるミリルが鏡の妖怪の化けた虚像であるという可能性は、絶対にない。

 いや、そのはずなのに……。

「帷子さん、僕は何も、君自身がその妖怪だとは一言も言ってないよ」

 なだが首を横に振る。正面にミリルを見据えながら。

「あくまでと言っているんだ」

「だ、だからそれはあり得ないのよ。私の姿は、鏡の中には存在しないのだから!」

「……存在ならするさ」

 狼狽ろうばいする吸血鬼に向かって、灘は静かに、彼女のネガティブな発言を否定した。

「確かに君の姿は、鏡には映らないだろう。しかしね、鏡というのは、何も一人だけを映し出すものじゃない。鏡が映すのは、世界そのものだよ。したがって――帷子さんの周囲で帷子さんの存在を示すすべてのものが、鏡面には表れる。例えば、君が光を遮ることで床に生まれる影。あるいは、君の周りを漂う細かなほこり。またあるいは、君の後ろを通り抜けていく生徒達――。そのすべてが、帷子さんの存在をこの世界に認め、間接的に鏡に映し出すことになる。……帷子さん、君が現実の中にたたずんでいる限り、君の存在はどうあっても消えたりはしないんだよ」


 灘のその言葉は――もしかしたら、この私にも向けられていたのかもしれない。

 一年乙組というクラスの中で浮き気味な私に、君はどうあってもクラスの一員なのだ、と言っている――。

 何だか、そんな気がした。

 あくまで錯覚なのだろうけど。

 いやそもそも、灘がそんなことを言うはずがないのだ。

 一年乙組における最大の孤立分子であり、自ら意図的にその立場を貫いている灘ひでが、言っていいはずがないのだ。

 ……たとえ、今の言葉が彼の本音であったとしても。


「つ、つまり――」

 ミリルの言葉が、私の思考を現実に引き戻す。

 ああそうだ。今考えるべきは、事件のことだ。

「委員長、あなたはこう言うの? 鏡の妖怪が私の虚像になりすまして、今もこの図書室のどこかにいる、と」

「そういうことさ。考えてもみたまえ、帷子さん。妖怪が人間を襲う上で外見を選択するのに、君の虚像ほど恰好の姿はなかったはずなんだよ。何しろ、のだからね」

 ――鏡に映らない吸血鬼。その映し身を、妖怪はそのまま借りた。

 ――そして最初からこの図書室に潜み、今もずっとここにいる。

 ――完全に透明な姿で堂々と、私達を嘲笑っている。

 すべての謎が、今ここに解けた。


 ……その時だ。不意に私の背後で、バサリ、と何かの翻る音がした。

 薄手の布地。ミリルのマントの音によく似ている。しかし当のミリルはそのマントを羽織ったまま、私の目の前で灘と対峙している。

 ……となれば、他に誰がいるのか。

 とっさに振り返ろうとした私のポケットに、突然何者かの手が強引に差し込まれた。そして中の銃をつかみ、虚空へと引きずり出す。

「――そこかっ!」

 焔邑ほのむらが私を、いや私の背後を睨み、叫んだ。そして再び鬼を召喚しようとした刹那。

 銃声が響き、彼女の右肩から鮮血が迸った。

 うめき声とともに、焔邑が肩を押さえて崩れ落ちる。鬼はもう出てこない。激痛が彼女の霊力を否応なしに封じたか。

 私は身を返し、巫女みこを撃った相手を見ようとした。しかし見えない。ただ、新たな熱を帯びて宙に浮かぶ拳銃と、すぐ近くの空間に留まる一発分の弾丸だけが、そこにいる「何か」の存在をはっきりと示している。

 この弾丸は――おそらくヤツがりんを襲った時に、彼女に撃ち込まれたものだろう。

 殺し屋・瑪瑙めのう凜の腕は確かだった。ただ不幸なことに、この妖怪にダメージを与えることは叶わなかったのだ。

 この妖怪を倒す方法は、ただ一つのみ。それは――いや、今は考えている場合ではない。

 逃げよう、と私はあと退ずさった。

 そんな私に、容赦なく銃口が向けられた。

 妖怪がピストルを使うなんておかしいんじゃなかったのか。いや、でも、あれば使うか。便利だし。

 そう思った刹那、宙に浮かんだ銃の引き金が、ゆっくりと動いた。

 銃声がとどろいた。


「――っ!」

 声にならない悲鳴とともに、私は思わず目を瞑った。

 ……だが、痛みはない。硝煙しょうえんの臭いに混じって立ち込めるはずの血臭も、一切漂わない。

 いったい何が起きたのか――。

 恐る恐る目を開けると、私のすぐ正面で、漆黒を伴う何かが揺れていた。

 マント。いや……ミリルの背中だ。

 私はようやく理解した。本物のミリルがとっさに私の前に立ち、盾になってくれたことを。

「……か、帷子さん?」

 私の声に、彼女は何の反応も見せなかった。ただ凶弾に身を穿うがたれた衝撃で、私の方に倒れてきただけだった。

 ゆっくりと、無言で。

 慌ててミリルの体を抱き止める。見ればシャツの腹の部分が破れ、その奥に血の気のない青白い肌が覗いている。弾は、彼女の腹を的確に射ていた。

「そんな……」

 ……その時だ。私達の正面の空間が、ゆらゆらと揺れ始めたのは。

 まるで陽炎かげろうのように、あるいは時空のひずみのように空気が躍り、微かに人の形を取る。それは、右手に私から奪った拳銃を持ち、左胸に凜から撃ち込まれた銃弾を留め――。

 しかし今、その腹部には真っ白な亀裂が、あたかも鏡のひび割れのように走っていた。

 ……そう、虚像を倒すには、本物を攻撃するしかないのだ。

 私がそれを思い出すと同時に、鏡の妖怪は、目の前で瞬く間に砕け散った。

 まるでガラスの破片のように、キラキラと輝き、光となって消えていく。

 ゴトリ、と銃が床に落ちた。

 終わったのだ。ああ、でも。

「帷子さん……」

 私はこの腕の中に崩れ落ちている、命の恩人の名を呼んだ。

 いったいなぜ、帷子ミリルは私を助けたのだろう。あれほど私を殺そうと、ナイフまで構えていたのに。

 最後の最後でクラスメイトを救おうとしたのか。それとも、妖怪を葬るたった一つの方法に、ためらわず従っただけなのか。

 しかしその答えを訊くことは、もうできない――。私はミリルの冷たい体を、力の限り、ギュッと抱き締めた。


「……高浪、きついのだけど?」

「って生きてたんですかっ!」

 突然聞こえた声に、私は思わず叫んだ。見ればミリルがこちらを振り返り、軽く睨んでいる。

 口元が笑っている。どうやらジョークだったようだ。もし彼女に血の気があるなら、その頬も赤らんでいただろうか。

 ミリルは固まった私の体を手で押しやり、平然とそこに立った。

 そして、つい今まで鏡の妖怪がいた場所を見やり、フッとあざけりの吐息を漏らした。

「所詮虚像ね。実像の吸血鬼は、ピストル如きでは死ねないのよ」

 その嘲りはもしかしたら、彼女自身の呪われた体に向けられていた……のかもしれない。

「やれやれ、ようやく片づいたようだ」

 灘が一言呟き、今回の事件をさっさと手帳にまとめた。


 ――九月三十日午後四時二分、図書室にて吸血鬼が妖怪を退治。


 わずか一行。余計なものを削ぎ落せば、事件の全容など、これだけに過ぎないのだ。少なくとも、灘にとっては。

 彼は常に物事を記号的に見ている。事件も、そしてクラスメイト達のことも。

 そのやり方は、どこまでが正解なのだろう。私には分からない。

 ともあれ――これで今回の事件は、すべて解決したわけだ。

「さあ、いつまでもここにいることもないだろう。帷子さん、焔邑さんを――ああ、ついでに濃紫こむらさきくんのことも、保健室へ連れていってくれたまえ」

「私も一応怪我けが人なのだけど」

 ミリルは灘に不満げに言い返すと、まずは落ちていた銃を拾い、私に返してきた。

「まあ、そこそこ楽しめたわ、高浪たかなみ

 そしてそう言い残し、焔邑と濃紫を引っ張って、ドアの方へと歩いていく。

 カラン、と鐘が音を立てて、彼女達の退散を告げた。


 張り詰めていた空気がようやく流れ出したように思い、私はフウと大きく息をついた。まったく、この放課後だけで、寿命がうるうどし一巡分も縮んだ気がする。

「ああもう散々……。あ、そうだ、本の整理しないと」

 すっかり忘れていた。もううんざりだ。

 よほどすっぽかして帰ってしまおうか――と思いながら灘の方を見ると、向こうもこちらをじっと見つめている。

 なぜか憐れむような視線で。毎度失敬な男だ。

「灘くんも、さっさと引き上げたらどうですか? 作業の邪魔ですから」

 激しく鬱陶うっとうしい男に、私は一言嫌味をぶつけてやる。灘はそれを聞いて軽く肩を竦めると、私に言った。

「そうかい? なら僕も帰らせてもらうよ。どうやらフォローは一切いらないようだからね」

「え、フォロー?」

 いったい何のことか。だが私が訊き返す前に、灘は手帳をポケットにしまい、さっさとドアの方へ歩いていく。

 その時だ。すぐ近くで、「うぅ」とくぐもった声が聞こえたのは。

 見れば瑪瑙凜が目を覚まし、起き上がろうとしている。こちらも無事助かったようで……あれ?

 刹那、私の頭の中に、ここから先に起こり得る展開が、怒涛の勢いでシミュレーションされた。

 ――まず凜が起き上がる。彼女は自分が襲われたことを覚えているが、犯人の正体やその後の展開は一切知らない。しかし私が銃を持っていることに気づく。私を怪しむ。そして……あ、これ絶対ダメな結果になる。

「待ってください灘くん!」

 とっさに叫ぶ。このままでは明日どころか、今夜の月すら拝めない気がする。

 もはや迷っている猶予はなかった。私は拳銃を再びポケットに捻じ込むと――いや、もしかしたらコレだけ置いて逃げればよかったんじゃ――と今さら気づきつつ、灘を追って図書室の通路を慌ただしく駆けていった。


 カラン、カラン、と鐘が二度、賑やかに鳴った。

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マキゾエホリック 密室という名の記号 東亮太 @ryota_azuma

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