11.真相、そして終幕
吸血鬼――。そう、
したがって彼女は、鏡には映らない。
だから、ここにいるミリルが鏡の妖怪の化けた虚像であるという可能性は、絶対にない。
いや、そのはずなのに……。
「帷子さん、僕は何も、君自身がその妖怪だとは一言も言ってないよ」
「あくまで君に化けたと言っているんだ」
「だ、だからそれはあり得ないのよ。私の姿は、鏡の中には存在しないのだから!」
「……存在ならするさ」
「確かに君の姿は、鏡には映らないだろう。しかしね、鏡というのは、何も一人だけを映し出すものじゃない。鏡が映すのは、世界そのものだよ。したがって――帷子さんの周囲で帷子さんの存在を示すすべてのものが、鏡面には表れる。例えば、君が光を遮ることで床に生まれる影。あるいは、君の周りを漂う細かな
灘のその言葉は――もしかしたら、この私にも向けられていたのかもしれない。
一年乙組というクラスの中で浮き気味な私に、君はどうあってもクラスの一員なのだ、と言っている――。
何だか、そんな気がした。
あくまで錯覚なのだろうけど。
いやそもそも、灘がそんなことを言うはずがないのだ。
一年乙組における最大の孤立分子であり、自ら意図的にその立場を貫いている灘
……たとえ、今の言葉が彼の本音であったとしても。
「つ、つまり――」
ミリルの言葉が、私の思考を現実に引き戻す。
ああそうだ。今考えるべきは、事件のことだ。
「委員長、あなたはこう言うの? 鏡の妖怪が私の虚像になりすまして、今もこの図書室のどこかにいる、と」
「そういうことさ。考えてもみたまえ、帷子さん。妖怪が人間を襲う上で外見を選択するのに、君の虚像ほど恰好の姿はなかったはずなんだよ。何しろ、まったく目に見えないのだからね」
――鏡に映らない吸血鬼。その映し身を、妖怪はそのまま借りた。
――そして最初からこの図書室に潜み、今もずっとここにいる。
――完全に透明な姿で堂々と、私達を嘲笑っている。
すべての謎が、今ここに解けた。
……その時だ。不意に私の背後で、バサリ、と何かの翻る音がした。
薄手の布地。ミリルのマントの音によく似ている。しかし当のミリルはそのマントを羽織ったまま、私の目の前で灘と対峙している。
……となれば、他に誰がいるのか。
とっさに振り返ろうとした私のポケットに、突然何者かの手が強引に差し込まれた。そして中の銃をつかみ、虚空へと引きずり出す。
「――そこかっ!」
銃声が響き、彼女の右肩から鮮血が迸った。
私は身を返し、
この弾丸は――おそらくヤツが
殺し屋・
この妖怪を倒す方法は、ただ一つのみ。それは――いや、今は考えている場合ではない。
逃げよう、と私は
そんな私に、容赦なく銃口が向けられた。
妖怪がピストルを使うなんておかしいんじゃなかったのか。いや、でも、あれば使うか。便利だし。
そう思った刹那、宙に浮かんだ銃の引き金が、ゆっくりと動いた。
銃声が
「――っ!」
声にならない悲鳴とともに、私は思わず目を瞑った。
……だが、痛みはない。
いったい何が起きたのか――。
恐る恐る目を開けると、私のすぐ正面で、漆黒を伴う何かが揺れていた。
マント。いや……ミリルの背中だ。
私はようやく理解した。本物のミリルがとっさに私の前に立ち、盾になってくれたことを。
「……か、帷子さん?」
私の声に、彼女は何の反応も見せなかった。ただ凶弾に身を
ゆっくりと、無言で。
慌ててミリルの体を抱き止める。見ればシャツの腹の部分が破れ、その奥に血の気のない青白い肌が覗いている。弾は、彼女の腹を的確に射ていた。
「そんな……」
……その時だ。私達の正面の空間が、ゆらゆらと揺れ始めたのは。
まるで
しかし今、その腹部には真っ白な亀裂が、あたかも鏡のひび割れのように走っていた。
……そう、虚像を倒すには、本物を攻撃するしかないのだ。
私がそれを思い出すと同時に、鏡の妖怪は、目の前で瞬く間に砕け散った。
まるでガラスの破片のように、キラキラと輝き、光となって消えていく。
ゴトリ、と銃が床に落ちた。
終わったのだ。ああ、でも。
「帷子さん……」
私はこの腕の中に崩れ落ちている、命の恩人の名を呼んだ。
いったいなぜ、帷子ミリルは私を助けたのだろう。あれほど私を殺そうと、ナイフまで構えていたのに。
最後の最後でクラスメイトを救おうとしたのか。それとも、妖怪を葬るたった一つの方法に、ためらわず従っただけなのか。
しかしその答えを訊くことは、もうできない――。私はミリルの冷たい体を、力の限り、ギュッと抱き締めた。
「……高浪、きついのだけど?」
「って生きてたんですかっ!」
突然聞こえた声に、私は思わず叫んだ。見ればミリルがこちらを振り返り、軽く睨んでいる。
口元が笑っている。どうやらジョークだったようだ。もし彼女に血の気があるなら、その頬も赤らんでいただろうか。
ミリルは固まった私の体を手で押しやり、平然とそこに立った。
そして、つい今まで鏡の妖怪がいた場所を見やり、フッと
「所詮虚像ね。実像の吸血鬼は、ピストル如きでは死ねないのよ」
その嘲りはもしかしたら、彼女自身の呪われた体に向けられていた……のかもしれない。
「やれやれ、ようやく片づいたようだ」
灘が一言呟き、今回の事件をさっさと手帳にまとめた。
――九月三十日午後四時二分、図書室にて吸血鬼が妖怪を退治。
わずか一行。余計なものを削ぎ落せば、事件の全容など、これだけに過ぎないのだ。少なくとも、灘にとっては。
彼は常に物事を記号的に見ている。事件も、そしてクラスメイト達のことも。
そのやり方は、どこまでが正解なのだろう。私には分からない。
ともあれ――これで今回の事件は、すべて解決したわけだ。
「さあ、いつまでもここにいることもないだろう。帷子さん、焔邑さんを――ああ、ついでに
「私も一応
ミリルは灘に不満げに言い返すと、まずは落ちていた銃を拾い、私に返してきた。
「まあ、そこそこ楽しめたわ、
そしてそう言い残し、焔邑と濃紫を引っ張って、ドアの方へと歩いていく。
カラン、と鐘が音を立てて、彼女達の退散を告げた。
張り詰めていた空気がようやく流れ出したように思い、私はフウと大きく息をついた。まったく、この放課後だけで、寿命が
「ああもう散々……。あ、そうだ、本の整理しないと」
すっかり忘れていた。もううんざりだ。
よほどすっぽかして帰ってしまおうか――と思いながら灘の方を見ると、向こうもこちらをじっと見つめている。
なぜか憐れむような視線で。毎度失敬な男だ。
「灘くんも、さっさと引き上げたらどうですか? 作業の邪魔ですから」
激しく
「そうかい? なら僕も帰らせてもらうよ。どうやらフォローは一切いらないようだからね」
「え、フォロー?」
いったい何のことか。だが私が訊き返す前に、灘は手帳をポケットにしまい、さっさとドアの方へ歩いていく。
その時だ。すぐ近くで、「うぅ」とくぐもった声が聞こえたのは。
見れば瑪瑙凜が目を覚まし、起き上がろうとしている。こちらも無事助かったようで……あれ?
刹那、私の頭の中に、ここから先に起こり得る展開が、怒涛の勢いでシミュレーションされた。
――まず凜が起き上がる。彼女は自分が襲われたことを覚えているが、犯人の正体やその後の展開は一切知らない。しかし私が銃を持っていることに気づく。私を怪しむ。そして……あ、これ絶対ダメな結果になる。
「待ってください灘くん!」
とっさに叫ぶ。このままでは明日どころか、今夜の月すら拝めない気がする。
もはや迷っている猶予はなかった。私は拳銃を再びポケットに捻じ込むと――いや、もしかしたらコレだけ置いて逃げればよかったんじゃ――と今さら気づきつつ、灘を追って図書室の通路を慌ただしく駆けていった。
カラン、カラン、と鐘が二度、賑やかに鳴った。
マキゾエホリック 密室という名の記号 東亮太 @ryota_azuma
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