第一幕「鞄の中に秘めたアガット」6
5
掃除がひと段落するころ、寝起きのニトが聖堂までやってきて、水桶で布を絞っていたぼくを見て目を丸くした。
「おはよう、ニト」
「……おはよう、ございます。なにをしてるんですか?」
「掃除」
「それは分かるんですけど、どうして掃除……」
と、聖堂に視線をやり、椅子に座って落ち着いているシャロルと、床の拭き掃除から立ち上がったお婆さんを見つけたらしい。
ニトは目を見開くようにお婆さんを凝視した。耳をぴんと緊張させ、あわわと口を震わせた。
「けっ、ケースケ! ゆ、幽霊! お婆さんの幽霊です!」
それまだ引きずってたのか。あまりの慌てぶりに思わず吹き出してしまった。そういえばニトにお婆さんのことを話していなかった。
ぼくはニトが指差す先を見つめて首を傾げた。
「え? どこに……? お婆さんなんていないけど」
「きゅっ!?」
ニトの喉から空気が詰まった悲鳴が聞こえた。口をひき結んで青い顔をして、おそるおそるお婆さんを見る。ちょうど手に雑巾を広げながら、こっちに歩いてくるところだった。
ひゃ、とニトがぼくの後ろに隠れた。
「ケースケ! お婆さんが! お婆さんがこっちに! 幽霊が!」
ニトが騒ぐものだからお婆さんはとっくにこっちに気付いていたし、不審そうな顔をしている。
「なにを騒いでるんだい」
「は、話しかけられました!?」
「そりゃそうだよ。幽霊じゃないんだから」
ついに耐えきれなくなって、笑いながら言った。
ニトは拍子抜けしたような顔でぼくを見上げ、壁から顔を覗かせるようにしておそるおそるお婆さんを見た。
「……い、生きてるんですか?」
「死んでまでわざわざ掃除なんてしないよ」
話も通じるし、お婆さんがやけに立体的なことから、どうやら幽霊ではないないらしいぞ、とニトは理解したようだ。む、む、む、と段階的に力を込めながら、ぼくの背中の裾をぎりぎりとねじり上げていく。
「ニトさん、服が伸びちゃうんですけど」
「……からかいましたね?」
「どきどきしたでしょ?」
「血の気が引きました!」
ぼすぼすとぼくの背中に拳を叩きつけてから、ぷいっと離れていく。ごめんと謝ってみても、ニトはつんとご機嫌斜めのままだった。それもまた微笑ましいのだけれど。
なにやってんだい、とお婆さんがため息をついて、水桶を抱えあげた。
「あんたたち、朝飯がまだだろう」
「あ、はい。そうですね」
シャロルに確認するように視線を向けると、彼女も頷いた。
「だったらうちにおいで。たいしたものもないけどね。掃除の礼だよ」
お婆さんは言うだけ言って、ぼくらの返事も聞かずに歩いていってしまう。
急なお招きにどうしたものかとニトを見ると、ニトもまたぼくを見ていた。
「どうする?」
「どうしましょう?」
そこではたと自分が機嫌が悪かったのだと言うことを思い出したみたいに表情を引き締めると、また「ぷい」と顔を背け、シャロルに駆け寄った。
「シャロルさん、ご一緒にいきませんか」
「……そうね。そうしましょうか」
シャロルが立ち上がると、ニトはシャロルの手を引いた。すっかり拗ねてしまったようだ。シャロルがぼくに向けて小首を傾げてみせた。残念ね、と言われたような気がして、どうしてか敗北感を感じた。むむむっ。
先を歩く二人に付いていくかたちでぼくも聖堂を出る。お婆さんは何か乗り物に乗ってきた様子もなく、歩いて坂を下っていく。上がる時にちょっとこれは苦労するだろうな、という坂が続いている。
折れ曲がりながらいくつもの家を通り過ぎて、ふと、誰かに見られているような気がした。立ち止まって、あたりを見回す。締め切られた窓と扉の家が並んでいるだけで、もちろん誰かがいるわけもない。
首を傾げつつ前に向き直れば、少し先でニトとシャロルが立ち止まってこちらを見ていた。待ってくれていたらしい。手を振ってみると、ニトはやっぱり、ぷいっと前を向いて、シャロルと手を繋いで歩き出した。すっかり気を許しているようだった。並んで歩く後ろ姿を微笑ましく思いつつ、小走りで追う。
お婆さんの家は、ほとんど丘の麓にあった。他の家と同じように煉瓦塀で隣と仕切りを作っていて、扉の上に看板がかけられている。
「なんて書いてあるの?」
「……幽霊はお断りって書いてあります」
「ごめんってば」
苦笑が漏れる。両手を合わせて謝るが、ニトはむすぅっとした膨れっ面である。
「ファゴの靴工房よ」
横合いから教えてくれたシャロルにお礼を言う。ニトが小さく「あっ」と声を漏らしてシャロルを見上げた。
「なにやってんだい。早くお入り」
家の中からしゃんとした声がして、ニトが慌てて扉を開けた。シャロルとぼくがあとに続く形になる。
中に入ると、そこは小さな展示スペースとなっている。壁には棚が据えられていて、やけに大きな作りのヒールの靴ばかりがいくつも並んでいた。薄暗い中に革とオイルの独特の甘い香りがしっとりと漂っている。
奥に続く扉がふたつあって、右端が開け放たれている。シャロルの背に付いていくと、そこはすっかり生活スペースになっていた。ローテーブルと、大きなキルトのかけられたソファが中央にあって、周囲を囲むように棚やキャビネットが並んでいる。広くはないが住みやすいようにすべてが配置されていて、穏やかな居心地の良さが感じられた。
三人掛けのソファの端にニトがちょこんと腰掛けている。隣にシャロルが腰を下ろした。ちょっとばかし迷ったが、ぼくもその隣に座った。あとは一人掛けのソファがあるきりで、そこはたぶんお婆さんの座る場所だったから。
ソファから、部屋の奥にあるキッチンの様子が見えた。お婆さんは湯気の立つヤカンをコンロに置いて、ポットとカップの乗った盆を持ってこちらに歩いてきた。
「ここいらじゃ緑茶を飲むんだ。あんたらの口には合わないかもしれんがね、まあ試してごらん」
「緑茶ですか」
思わず身を乗り出すほど食いついてしまったのだが、ニトもシャロルもまったく平然とした様子だったので、なんだか恥ずかしくなって、そっと腰を戻した。
「なんだ、あんたの故郷でもあるのかい」
「ええ、同じものかは分かりませんけど……」
ローテーブルに置かれたカップもティーポットも、見た目は紅茶に使われる形をしていた。しかしお婆さんがカップに注いだお茶は、たしかに緑色をしていた。
「このスパイスを入れて飲むのが一般的だね。砂糖を入れることもある」
小瓶がふたつ置かれた。ニトとシャロルはスパイスを入れていたが、ぼくはそのまま緑茶に口をつけた。
「……甘い」
「同じものかい?」
「いえ……微妙に違うというか、ちょっと甘いような……」
懐かしさを感じる、ということもなかった。緑茶という名称と見た目は同じでも、やっぱりこれはこの世界の飲み物なのだ。
「あ、美味しいです」
ニトが言った。緑茶の表面には薄茶色のスパイスが浮いている。
ぼくも小瓶を取って小匙でスパイスを掬い入れて、一口啜ってみた。スパイスはミントのような清涼感があった。味わいがすっきりとしたものになって、癖のある風味も押さえられている。たしかにそのまま飲むより美味しい。
「飲みながらお待ち。すぐに用意ができるから」
お婆さんはまたキッチンに戻っていく。
半分ほど押し開かれた窓には薄手のカーテンがかけられていて、柔らかい風が吹き込むたびに光を散らばせていた。
ぼくらは特に会話をするでもなく、ぼうっと窓を眺めている。ときたま、思い出したみたいに誰かがカップを取ってお茶を飲む。それはなんだか形になりそうなほどゆったりとした朝の時間だった。
それぞれがポットからお茶のお代わりまでもらったころ、お婆さんが両手に皿を持って戻ってくる。ニトとシャロルの前に置かれて、また往復して、ぼくとお婆さんの分も運ばれてきた。
縁だけ黄色く塗られた丸皿の上には、半円型の厚いトーストが二枚と、赤黒い豆と玉ねぎのような煮物、黄色いマッシュポテトのようなもの、果物の形が残るオレンジ色のジャム、といったものが盛り付けられている。
ニトとシャロルの顔色をうかがう。別段、戸惑った様子もないので、これはあり触れた朝食のようだった。
「大したものもないけどね、お上がり」
とお婆さんは言ってフォークを取った。
「ご馳走になります」
ニトがちょっと畏まった様子で頭を下げる。シャロルも横で会釈をするので、ぼくもそれに倣った。さっそくマッシュポテトを口に運ぶと、つい笑みがこぼれた。
田舎の素朴な料理、と表現すると、普通は少しの揶揄が入るかもしれない。けれどぼくとしては褒め言葉として使いたい。薄味だけれど、おかげで素材の味がしっかりと感じられるし、朝から食べるならこれくらいのさっぱりとした味付けがちょうどいい。なにより、誰かが作ってくれた暖かい食事を食卓を囲んで食べているのだ。それだけで最高の調味料となっている。
改めて考えると不思議な体験をしているなと思う。昨日出会ったばかりの人の家に招かれて朝食をご馳走になっているのだ。この世界に来ることがなければ一生、そんな機会はなかっただろう。
ぼくは一番に食べ終えてしまって、次はシャロルで、ニトが最後となった。
お婆さんが淹れ直してくれた熱いお茶でひと息ついた頃合いで、ニトがおずおずと話しかけた。
「あの、靴屋さんなんですか?」
「あたしの祖父母の頃からね」
ニトは自分の足元を見下ろして、ごそごそと爪先をこすりつけた。少しばかり言い出しにくそうに間を作って、お婆さんに視線を戻した。
「あの……お、お名前を教えてください」
お婆さんは可笑しそうに唇の端を吊り上げた。
「そんなことを訊かれるのは久しぶりな気がするね。ファゴだよ」
「ファゴさん、靴って小さくできますか?」
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