第一幕「鞄の中に秘めたアガット」1
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「すごいですねえ」
「ほんとにねえ」
語彙力のない会話だった。しかしそれ以上に言いようのない光景でもあった。
手積みの石壁や、ちょっと傾いた外壁の目立つ、よく言えば牧歌的で、遠慮なく言えば田舎の小さな村だった。だのに上りきった丘の上に建つこの聖堂ばかりは見上げるほどに立派だった。教会よりも厳かで、城というには穏やかで、この建物を呼ぶとすれば聖堂という言葉がしっくりくる。
それでも壁には風雨に汚れた灰色の染みが浮き上がって薄汚れているし、二階の窓の一枚が割れて穴が空いている。在りし日は村民が通い集って賑わっていたのかもしれないが、その名残もなく廃墟然とした雰囲気をまとっている。だが聖堂の持つ神聖な雰囲気はまだたしかに残っていて、それが独特の表情を見せているようにも思える。それがぼくらの目を惹きつけて離さない。
ニトはそのうちにうずうずと肩を揺らし始めた。光を受けて白にも銀にも見える髪が揺れて、隙間から尖った耳が覗いている。次の行動を簡単に予測できた。
ニトは踵を返すとヤカンに駆け寄り、後部座席を開いた。画材が詰まったスケッチバッグを背負い、足元のスペースに横たわるイーゼルを引っ張り出した。抱き抱えたままにちょこちょこと歩き回り、ここだという場所を決めると手早くイーゼルを据えていく。聖堂を見上げて瞳を輝かせている。
そうなるともう、ぼくが何を言ってもニトは止まらない。夢中になって絵を描くのである。道中でも心惹かれる場所を見つければすぐに車を停め、こうしてイーゼルを構えるのが日常だった。
「先に中に入るよ」
一応、声をかけてみたが、ニトは返事をしなかった。鉛筆を握ってスケッチブックと聖堂を交互に見るばかりだ。
ぼくは肩を竦めて石造りの階段を上がった。聖堂の入り口は背の高い木扉で閉じられていたが、鍵はかかっていなかった。蝶番の軋む音を聞きながら中を覗く。長椅子が整然と並んでいた。奥には見上げるような位置に杖を抱く女性の彫像が飾られていて、周りを囲むように彩り豊かなガラスの装飾が散りばめられている。これもまたニトが喜びそうだなと思う。
夏を控えた季節だというのに、聖堂の中は肌寒いくらいだった。しんとした静寂が空気まで冷やしているみたいだ。
正面口からまっすぐ、彫像まで、赤い絨毯が敷かれている。多くの人が往来したのだろう、すっかり硬くなってしまったそれを踏みながら彫像の元まで進んだ。見上げるそれは、たびたび話に訊く「聖女さま」だろうか。この世界の人たちの信仰や宗教がどうなっているのか、詳しいところまではわからない。けれど誰もが聖女という存在を敬っているらしい。
彫像の前には三段作りの台が据えられていて、多くの蝋燭が並んでいた。これに火を灯す人も、もういないのだろう。
ぼくはふと息を詰めて耳を澄ませた。
それは聞き間違いではなかった。また、物音がした。
左の奥には扉があって、その奥の方からかすかに聞こえている。誰かがいるのだろうか。
行くかどうか、少し迷った。平時なら何も気にしないことでも、滅びつつある世界の辺鄙な村での物音なんて条件がつくと、及び腰になってしまう。特定のなにかが怖いというのではなくて、何があるのか予測がつかないことが問題なのだ。いっそ見ないままに引き返そうかと、頰を掻いた。
その時、背後でドアが開いた。滑りこんだ鮮明な光が足元まで伸びて、ぼくは振り返る。ニトが入ってきたと思った。ところがそこに立っていたのは、わずかに腰を曲げたお婆さんだった。
一瞬、ニトが急に老けたのかと思った。もちろんそんなわけもなかった。
お婆さんは入り口でじいっとぼくを見ていたが、やがて何も言わずに足を進めた。手には木桶を下げている。まっすぐにぼくの方へ向かってくる。
「あの、こんにちは」
おずおずと挨拶をすると、お婆さんはぼくの前に立ち、「どいとくれ」と言った。
「あ、すみません」
お婆さんはぼくが避けた場所に木桶を置いた。中に入ったたっぷりの水がちゃぷりと波打った。腰をかがめて、縁にかけた布切れを取って水を吸わせると、力強く絞る。
「表で絵を描いてるハーフエルフのお嬢ちゃんはあんたの連れかね」
「え、ええ。そうです」
「声をかけても返事をしやしない。こんなところまで何しに来たんだい」
「旅の途中なんです。道を走っていたら、森から突き出たこの聖堂が見えて」
お婆さんはぼくの方を見もせず、絞った布巾で燭台を拭き始めた。ぼくは手持ち無沙汰にそれを眺めている。
会話の途中の不自然な沈黙に、どうしたらいいのだろうかと悩んだ。掃除の邪魔なのかもしれない。誰も彼もが会話や人との触れ合いを必要としているわけではないだろう。
「あんた、時間はあるかい」
突然の質問に返事につまって、とっさに頷いた。お婆さんはぼくをちらりと眺めた。
「ならそこの脚立を持ってきておくれ」
おばさんが指したのは右手側の通路だった。その隅には木製の脚立が横になっている。ぼくがそれを抱えて戻ってくると、おばあさんは彫像の真横に立てるように言った。木桶に入っていた新しい布を絞ると、それをぼくに差し出す。
「あたしゃもうそれに登れないんだ。おかげで手も届きやしない」
「はあ……」
受け取るとお婆さんはもう何も言わず、拭き掃除に戻ってしまう。ぼくは湿った布巾を広げて、彫像を見上げ、ぼくの身の丈ほどもある脚立を見る。まさか異世界の聖堂に来て、掃除をすることになるとは。なんてちょっと笑って、脚立に足をかけた。
彫像は磨き込まれた石だった。驚くほどなめらかだ。全体にほこりが積み重なっていた。布の皺まで細かく彫り込まれているために、簡単に拭いて終わりとはいかない。それでもついつい念入りにやってしまうのは、たぶん性分なのだろう。凝り性なのだ、ぼくは。
ほこりを拭うと彫像はより一層艶が生まれたように思う。自分の仕事に満足して脚立を降りる。振り返ると、お婆さんは長椅子のひとつひとつを拭いていた。
手に布巾を持ったまましばし考えて、それをバケツで洗って、ぼくもまた反対側の長椅子を拭きにかかった。どうやらあのお婆さんは定期的にここに通っているようだ。長椅子にはほこりは積もっていない。さっと水拭きをするだけで十分のようだ。
そうして最後の列まで磨いて戻ると、最前列の長椅子にお婆さんが座っている。ぼくに気づくと、お婆さんは隣をぽんぽんと叩いた。ぼくは隣におずおずと腰掛けた。
「助かったよ。ありがとね。聖女さまも嬉しそうだ」
「そうですか? 無表情ですけど」
「嬉しそうだなと思いながら見るんだよ、こっちが。彫り物なんだから表情が変わるわけないだろう」
なるほどと頷いて聖女さまの彫像を見上げると、それはもう満面の笑みを浮かべている……気がしないこともない。
「あんた、この世界の人間じゃないね」
唐突に言われて、ぼくは飛び上がるくらい驚いた。お婆さんに振り返ったぼくの顔はさぞ間抜けだっただろう。
お婆さんは笑いもせず、聖女さまと同じくらい感情の読めない顔でぼくを見た。
「……どうして分かるんです? 背中に書いてありました?」
冗談を「はんっ」と鼻で笑い飛ばして、ぼくの靴を指差した。
「そんな靴がこの世界にあるわけないだろう。素材も作りも一目で尋常じゃないのが分かるよ」
見下ろしてみれば、それはもちろんぼくの世界の靴だ。登山にも使える軽量かつ頑丈なもので、結構、お高いものだった。
「……靴に詳しいんですね」
「そりゃそれが商売だからね。異世界ってのがどんなところかは知らないけど、靴を見れば豊かなのは察しがつくよ」
ぼくは曖昧に頷いた。この世界と比べれば、たしかに豊かで、文明も進んでいる。そして滅びかけてもいない。
「お婆さんは、よくここに来るんですか?」
「毎日来るさ。他に行くところもないし、誰かが手入れをしないと聖女さまも可哀想だろう」
それは信仰心があるからなのか、あるいはただの繰り返すべき習慣なのかはわからなかった。お婆さんは背を丸めて、窓からの日差しに横顔を照らす聖女さまの像を見上げていた。やがて胸の前で両手を組み、そっと目を伏せた。
ぼくは信仰というものに馴染みがない。けれどそれが邪魔をしてはいけない行為だと分かるし、お婆さんにとって大事な時間なのだろうという推測もできる。
「あんた、今日はこの村に泊まるのかい」
祈りを終えたお婆さんがぶっきらぼうに言った。
腕時計で確認すると夕方まで間もない時間だった。運転の疲れも残っているし、今からどこかへ向かうというのも気が進まない。
「そうですね、今日は泊まろうと思います」
「だったらここで寝るといいさ」
平然とした返事に、ぼくは冗談かと思って見返してしまった。しかしお婆さんは笑ってもいないし、そもそも冗談を言うようなタイプにも思えない。
「……ここ、聖堂ですよね?」
「粉挽小屋にでも見えたかい」
「宿屋には見えませんね」
「こんな村に来るのはこの聖堂の関係者くらいのものさ。聖堂の奥にはそういう客人のための部屋が用意されてるんだよ」
「ああ、なるほど。それなら遠慮なく……」
言いかけて、ふと目の前の彫像を見上げる。神秘的である。天井の高い聖堂の全体にも、今までに馴染みのない独特の空気がある。そこで当たり前のことを考えてしまうのだけれども。
「ここ、夜になったら怖くありません?」
おばあさんは呆れた表情を見せた。
「なにがでるってんだい、こんな場所に」
真っ向から言われると、まあそうなんですけれども、としか言えない。不気味だの怖いだの言っても、根拠もない気持ちの問題なのは間違いないのである。幽霊とか見たこともないし。
「……じゃあ、ここで泊まらせてもらいます、うん」
村のどこかにテントを張ることも考えた。しかし毎日テントで寝ているので、たまにはしっかりとした壁と屋根に囲まれて落ち着いて寝たいという欲求もあるし、そこに柔らかなベッドが加わるとすれば文句がない。布団の中に潜り込めば、そこが宿屋でも無人の聖堂でも違いはないだろう。
「火には気を付けておくれよ」
とぼくに言うと、木桶を持ち上げて歩いて行ってしまう。
滅んだ世界で生き残っている者同士の貴重な出会い、のはずなのだけれど、お婆さんの態度はあまりにあっさりとしていた。土曜日のバス停で世間話をしたあとみたいな日常感で、お婆さんは聖堂を出て行った。
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