第一幕「鞄の中に秘めたアガット」2
2
絵を描き終えたニトを連れて聖堂の奥へ入るころには、日が暮れ始めていた。
廊下には四室ほど扉が並んでいて、手近なふたつを開けて確認すると、どちらも寝室だった。窓の外はゆっくり宵の暗さが訪れているために、廊下でも室内でも窓からの明かりは期待できそうにない。
山の中の広場や、だだっ広い荒野の端で野宿をする生活にはとっくに慣れた。廃墟の中で寝ることには、たぶん慣れない気がする。人が生活した名残は目に見えずとも染み付いていて、なんとなく落ち着かない気分になる。スマホのライトで照らしてはいても、通路の奥や部屋の隅に息を潜めた黒い影が不気味に揺らめいて見えたりもする。
「どうする?」
と後ろのニトに訊ねると、ニトは難しい顔でぼくを見返した。
「……どうするとは?」
「なんでそんなに表情が強張ってるの?」
「ちっとも強張ってません」
イーゼルをぎゅっと抱きしめていなければもう少し説得力があったかもしれない。
「部屋がいくつかあるけど、どこがいいかってこと」
どこ、とニトは呟いて、周りを眺め、目の前の部屋を覗き込み、ぼくを見る。
「どこ?」
「信じられませんみたいな顔をされても困るんだけどな。ベッドだよ?」
部屋に入ってライトで室内を照らすと、質素ではあるが家具が揃っている。ベッドは二台並んでいるし、窓際には書き物机があり、二人がけのソファと丸テーブルも置かれている。
「じゃあ、ニトはこの部屋ね。ぼくは隣にするから」
ニトはイーゼルを抱えたまま、部屋の中をじっと睨み付けている。
「……わたしに、ここで寝ろと」
「そうだけど」
「こんなに暗い中で、ひとりで寝ろと」
むむむ、と唸るニトは、決して「怖い」という言葉は使わなかった。
「ランタンを置いていくよ」
「そういう問題じゃありません」
「……じゃあ、ぼくもこの部屋で寝ようか」
「でも、あの、な、並んでますよ、あれ」
と、ニトが指差すのは、少しばかりの隙間をはさんで置かれたベッドだった。
「ちゃんとひとりずつになってるし」
「それは当たり前ですっ! なに言ってるんですか!?」
ニトの年齢を考えれば別に問題はない気もしたけれど、やっぱりそこは女の子なのだな、と考えを改めた。ぼくが気にしなくても、ニトが気にするならそれはやはり問題なのだ。
「たしかに配慮が足りなかった。やっぱり隣の部屋で寝るよ」
「あっ、いえっ」
とニトは首を振った。スマホのライトが壁に反射したほのかな明かりに、灰色のように彩度を落とした髪が揺れて影を作った。
「べつに嫌だとか、そういうわけではなくて! だから、ええと、やっぱり同じ部屋でいいです。仕方ないので」
「仕方ないので?」
「……け、ケースケは気にならないんですか」
ちらりと伺うような視線でニトが言う。
「ぼくは大丈夫だけど……?」
ニトはぐうう、と喉の奥を鳴らして肩を上げた。
「だったらわたしもぜんぜん平気です。あらゆる点で、まるきり、平気です」
ぼくの横を通るとき、あからさまに「ぷいっ」と顔をそらせて、ニトは扉側のベッドに荷物を置いた。並んだベッドの隙間にイーゼルを立て、スケッチブックまで設置した。
それからぼくに見せつけるみたいにイーゼルを指した。
「この境界から向こうがケースケの領土です。こっちがわたしです。不侵略条約を締結します。いいですね?」
「急に領土問題が勃発したね」
「わたしは小国なので、領土を守るのは命がけなんです。でも兵は屈強ですから」
「うかつに攻め入ったら痛い目に遭いそうだ。気をつけるよ」
「賢明な判断です」
警戒した野良猫のような目を向けられつつ、ぼくもベッドに荷物を置いた。締め切られていたためか、使う人がいなくなってからあまり時間が経っていないのか、掛け布団の上には埃も積もっていない。腰をおろすと心地よく沈み込んだ。手で撫でれば布団の生地は滑らかだ。清潔で、安全で、柔らかい。ベッドとはこんなに素晴らしいものだったのかと感動してしまう。そのまま後ろに倒れ込んだ。
すっかり親しんだ背中に当たる石のごつごつとした感触も、湿気も、冷気もない。優しく包み込まれるような感触だ。ふかふかとしているのは羽毛だろうか。
目を閉じて堪能していると、急に体が疲れを思い出したらしい。まぶたがあまりに重くて開かなくなってしまう。
「ケースケ?」
ニトの声がぼんやりと聞こえた。
「……外交問題はあとにしよう。ぼくの兵は休暇中なんだ」
「さては眠たいですね?」
「……そんなまさか。ぼくは不夜城さ」
「すでに寝ぼけてますよ。寝てください」
「……なんて親切な隣国なんだ……はいこれ、明かり」
目をつぶったままスマホを差し出すと、小さな手が受け取る感触があった。
3
目を開けると、視界の端にニトがいた。忍び寄る猫みたいな格好をしていた。片手にライトが付いたスマホを持っている。ベッドの端からもう一方の手を伸ばしてぼくの肩をゆすっていたらしい。ニトはすっかり眉を下げて怯えた顔をしていた。
「……どうしたの」
「ケースケ……ここには、ゆ、ゆ」
「ゆ?」
ニトは何度も口を開けて、閉めて、言葉を飲み込み、自分がそれを言うことすら恐ろしいという風な顔で、小さく言った。
「ーー幽霊が、いるみたいです」
「……そっか。よろしく伝えておいて。ぼくは眠い」
反対側を向いて腕を枕にして二度寝をしようとしたのだが、ばしばしと叩かれてそれどころではなくなってしまった。
「なにがよろしくですか! ゆ、幽霊ですよ!? 寝てる場合じゃないです!」
「わかった、わかったから。降参。起きます」
こびりついたような眠気で頭がぼんやりしていた。身体を起こして背伸びをして、ようやく目がはっきりと覚めてくる。ベッドに放り出されたライトで下から照らされているニトの顔は不安げで、瞳はなんだか半泣きのようだった。
ぼくは座り直してちゃんとニトと向き合った。
「それで、なにかあったの?」
「も、物音が。ばたん、ぎぃぃ、って……」
「聞き間違いとかじゃなさそうだった?」
ニトはぶんぶんと力一杯に首を振った。
「何度もしてたんです。それでケースケを起こそうと思って……今は、止んでるみたいです、けど」
「どこか扉か窓でも空いてて、風でそれが……あっ」
一般的な可能性を言及している途中で、ぼくは大事なことを思い出した。
「なんですかその顔……」
「そういえば、ぼくも物音、聞いてた」
「なんでそれを先に言わないんですかっ!?」
「何だろうなって気になった途端にお婆さんが来たからさ、忘れちゃってた」
「お婆さん!? 何ですかそれわたし知らないですよ!? お婆さんの幽霊が出るんですかここ!」
「いやそのお婆さんは実在のお婆さんで……ややこしいな、説明が」
ニトは絵を描き始めるとそれに集中してしまうから、目の前を横切って聖堂を出入りしたはずのお婆さんにも気づかなかったんだろう。
「とにかく、ぼくも物音を聞いたし、ニトも聞いたということは……なにか、いるのかもしれない」
ニトは歯を食いしばった顔のままでぴたりと動きを止めた。そしてゆっくりと首を振る。
「いますぐ、ここを、出ましょう」
「まだ幽霊とは決まってないけど……」
「お婆さんの幽霊とは、会いたく、ないです」
「だからそのお婆さんはまだご存命なんだってば」
ニトは聞く耳をもたないように首を振るばかりで、このまま気にせず寝るとはいかないようだ。耳を澄ませてみても音は聞こえない。
「……確かめに行くか」
「!?」
うそ信じられない! あなたには想像力がないんですか? とでも言いたげな顔だ。
「ケースケの頭の中にここまで何も入っていないとは思いませんでした……」
「ぼくの想像の五倍くらい辛辣だった」
もちろんぼくだって怖い。しかし半ば寝ぼけているおかげで感覚がいくらか鈍くなっている。怖さよりも眠気が強い。
床に置いていたバックパックをとりあげ、中から小型の手回し充電式のランタンを取り出した。スイッチを入れると部屋が一気に明るくなった。
「ここで待ってる?」
「わたしをひとりにするんですかっ!?」
「じゃあほら、一緒に行こう」
ぼくが立ちあがると、ニトは眉尻を下げて口を尖らせながらもベッドから降りた。
「もし何かあったらどうするんですか……」
「ぼくが盾になるから、その隙に逃げたらいいよ」
「それはいやです」
思いがけず強い調子で言われて、ぼくはまじまじとニトの顔を見てしまう。彼女は相変わらず怖がった様子だったけれど、ぐっと口元をひき結んだ決意を見せていた。
「し、死ぬときは一緒ですから……!」
「それはちょっと笑えない」
なんて言いつつ笑ってしまう。そこまで大袈裟に構えることでもないと思うのだけれど。
スマホを持って、扉を開けて、廊下を覗く。窓枠によって区切られた月の光が床と壁を照らしている。物音はしない。
「ど、どうですか」
「なにも聞こえないけど……それ持って行くの?」
「護身用です」
ニトはイーゼルを両手で抱えていた。
ぼくは無言で頷くだけにした。本人がそれで安心できるなら構わないだろう。
扉を出て左手に伸びる通路は聖堂につながっている。右手の通路の先はわからない。ぼくとニトが聞いた音はこの先から鳴っていたのだろう。
「……ほ、本当に行くんですか」
「正体見たり枯れ尾花ってよく言うし」
「なんですか、それ」
「夜道で幽霊に見えても、近づいてみたら枯れた植物が垂れていただけだった、って意味」
「些細な見間違いと思い込みでありもしない存在を想像の中で作り上げてしまうってことですね……」
「ニトってほんと何気ないところで頭の良さを思い知らせてくれるよね」
「それはどういう−−」
ぴたりと動きが止まる。ぼくも息を止めている。ふたりで顔を見合わせて、鏡合わせのようにゆっくりと首を向けた。
−−がたん。
「……聞こえるね」
「……聞こえます」
耳を澄ませて待つが、それきり音はしなくなった。このまま呼吸音にも遠慮しながら待っていても仕方なく思えて、ぼくは歩みを進める。少し遅れて、ニトが小走りでついてきた。
通路の突き当たりに扉があった。また音が聞こえるかと待ってみたが、何も聞こえない。ドアノブに手を伸ばす。ニトがぼくの背中の裾を掴んでいる。軽い軋みを鳴らしながら扉が開くと、黄色味を帯びた弱い光が漏れ出した。
中は書庫だった。壁に沿うように本棚が据えられている。部屋の中央には大きな平机と椅子がある。
そこに、人が座っていた。
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