第一幕「鞄の中に秘めたアガット」3
ぼくは目を見開いた。幽霊、ではなかった。見覚えがあった。
女性は顔をあげてぼくを見ていた。傍らに置いたランタンが、頰と、耳型に尖った特徴的なキャスケットを照らしている。無表情の印象が強かったけれど、この時ばかりは彼女も目をきょとんとさせていた。
「……こんばんは」
と、挨拶をしてみた。うしろでニトが「だ、だれかいたんですか!? それともナニかですか!?」と裾をぐいぐいと引いている。怖がっていたわりに興味津々だった。
「……奇遇ね」
と女性が言った。そのときにはもうすっかり表情は平坦になっていた。
「とりあえず、幽霊じゃなかったよ」
振り返って言う。
「……じゃあ、人、ですか? こんな場所で、夜中に……お、お婆さんですか!?」
ぼくは身体を端に寄せた。ニトはぼくをしっかり盾にしながら、おずおずと室内に顔を覗かせた。
「あっ、こ、こんばんは……」
「ええ。こんばんは」
ニトはすすす、と後退りをした。ぼくを見上げ、心底ほっとした表情を見せた。
「お姉さんでした! よかったです!」
「それでいいのか、君は」
きょとんと見返される。いや、いいんだけれども。
物音の正体が幽霊でなかったこともわかった。ぼくらは安心して寝ることができる。しかし、顔だけ覗かせて、挨拶をして、それで扉を閉じると、ぼくらの方が不審者みたいなことにならないだろうか。
ちょっとばかし迷ったが、ぼくは部屋の中に足を踏み入れた。古い紙の持つ独特の、カビと湿気をはらんだ匂いがした。学校の図書室の、郷土史や大きな辞典ばかりが並ぶ場所の匂いだった。
女性はぼくを気にも止めず、机に開いていた本に目線を落としていた。机上には本が山積みになっている。
「……本を読むためにここに?」
「そう。こういう小さな村だと教会に本が集まっているものだから」
「物語を探しているんでしたっけ?」
あの雨の中で交わした会話を今でも覚えている。
女性は読んでいた本を閉じて、机上の山の一番上に積んだ。
「でも歴史書や宗教書ばかりだわ」
彼女は立ち上がって本棚に寄ると、数冊を抜き出して机に置いた。本棚の端から順繰りにそれを繰り返しているらしい。
「まさか全部読むんですか?」
「眺めるだけ」
言いながらもページをめくっていく。確かに読んでいるわけではないが、時々、手を止めてじっくりと目を通すこともある。そういう作業をこの部屋の全ての本に行うのは、やはり並大抵の手間ではないように思う。
そのとき、おずおずと部屋に入っていたニトがぼくの腰をつついた。
「……お知り合い、ですか?」
「ニトは寝てたっけ。山を降りたところで会った人なんだ」
なるほど、とニトは頷いた。それから本棚に並ぶ本と、机でページをめくる女性を見て、なんだか羨ましそうな顔をした。
ニトは幼い頃から病気のためにベッドの上で生活をしていたという。その時の楽しみといえば本を読むことや、絵を描くことだったのだ。絵は画材があればどこでも描けるけれど、本はそうはいかない。大量の本をいつでも持ち歩くことは難しい。久しぶりに本に囲まれた場所に来たことで、読書家の血が騒いだのだろう。
「ニト、ぼくたちは何のためにここに来たと思う?」
え、とニトがぼくに振り返った。
「そう、地図を探すためだ。これからの旅には地図が欠かせない。というわけで、この書庫に地図がないか確かめて欲しい」
ニトは途端に表情を明るくすると、ふんふんと何度も頷いた。
「適材適所といいますからね、任せてくださいっ。念入りに探します!」
両手に抱えたイーゼルをどこに置こうかと右往左往するので、手を差し出すと、ニトは素早くぼくにそれを渡した。ランタンだけを手に、壁の本棚に向かい、背表紙を上から下まで眺めていく。鼻歌が聞こえてきそうなくらいご機嫌な後ろ姿だった。
微かな笑い声に目を向ける。ニトの後ろ姿を見ながら女性が優しい目を向けていた。僕の視線に気づくとそれはすぐに隠されてしまったけれど、ぼくは親近感を抱いた。
ニトは選んだ一冊を抜き取ると両手で持って、女性の対面の席に向かった。部屋にはテーブルがそこしかないし、椅子も四脚だけだ。
「あの、ご一緒してもいいですか?」
「歓迎するわ。どうぞ」
ぼくと会話をする時よりも優しげな声音で、その柔らかさがニトにも分かっているようだ。椅子に座ると、緊張した様子も見せず本の表紙を開いた。そうなるともう、ニトはしばらく本に夢中だろう。
腕時計を見るといつもの夕食の時間が近かった。思ったよりも長く仮眠をしていたらしい。胃袋まで眠っていたから気づかなかったが、お腹をさすれば、そういえば空腹だなと思い当たる。
部屋に戻ってイーゼルを置き、代わりにバックパックを背負った。書庫の出入り口の扉を開けて、部屋から一歩外に出た場所に腰を下ろした。これなら書庫の中で火を使うこともなく、ニトの様子を眺めていられる。
バックパックの中から調理道具と缶詰を取り出した。スマホのライトで缶詰のラベルを眺める。字は読めなくとも見慣れた記号としてなら判別できるものもある。ああ、これは前に食べたあれだな、とか。夕食に使うものを選んで脇に積み重ねて、使わない缶詰はバックパックに戻した。
バーナーに火をつけると、ぼっ、ぼっ、ぼぼっ、と、断続的な音が鳴る。燃料である魔鉱石が詰まっているタンク部分が温まるまで火が安定しないのだ。点火口からは火が噴き上がったり消えたりを細かく繰り返している。気にせず鉄のフライパンを載せて、油を垂らした。
フライパンに豆の缶詰をふたつ開ける。どちらの豆も赤色をしている。味も大きさも枝豆に近くて、ぼくとしても親しみやすい。じゅうじゅうと炒める音と香ばしさが静かな書庫の中に響いている。
円筒形の缶詰を取る。それはトマトソースみたいなものだ。フライパンにどぱっと流し込み、豆と混ぜて馴染ませる。あとは塩胡椒と、香辛料を振り掛けて煮込めば文句もない。
もうひとつ缶を開けると中にはぎゅうぎゅうとパンが詰まっている。缶詰のパンは水分がなくてもさもさとしている。それでもこうして、パンという主食を食べられるのはありがたいことだった。さすがにパンを自分で作るわけにもいかない。
木のまな板の上に丸太のようなパンを置いてナイフで切り分ける。フライパンを火から下ろして、取り皿とスプーンを置く。シンプルな献立ではあるけれど、毎日がこんなものである。
「ニト、ご飯だよ」
横に立って声をかけても反応がない。絵を描いているときにもこんな感じで、彼女は一度スイッチが入ってしまうと、それはすごい集中力なのだ。
いつもそうするように肩を揺すると、驚いてぼくに振り向く。
「ど、どうしたんですか?」
「ご飯だよ。お腹すいたでしょ」
ニトは首を伸ばしてぼくの後ろを振り返る。そこに準備の整った食事を見て、顔色を明るくした。
「そういえばお腹、ぺこぺこでした。ありがとうございます」
本を優しく閉じて椅子を降りて、何かに思い当たったように動きを止めた。自分の人差し指をつまんでぐにぐにといじっている。ニトが何かを迷ったり、言い出しにくいときの癖だということは、最近になって気づいた。
ニトがちらりとぼくの顔色を見て、それから伺うように女性に目をやった。そしてまたぼくを見上げる。その分かりやすい迷いに、思わず笑ってしまいそうになりながら、ぼくは頷きを返した。ニトはぴこんと長耳を動かして決意表明をすると、女性に向き直って、何度か声を出す準備をしてから話しかけた。
「あの」
女性が顔を上げる。やけに気合の入ったニトの表情に、わずかに戸惑った様子を見せた。
「ご、ご一緒に、夕食をどうでしょうかっ」
女性はすぐに察した様子で、口元に笑みを浮かべた。
「あら、誘ってくれるの?」
「えと、ご迷惑でなければ、ですけど」
「迷惑じゃないわ。嬉しい」
ニトは「よかった」と、肩に入っていた力を抜いた。満足げな笑みである。
「では、あの、こっちです」
と、出入り口の床にこしらえた食卓に先導する。女性は席を立った。すれ違いざま、彼女は小首をかしげてぼくを見る。どうしてかそれが、自分も邪魔をして大丈夫なのか、と聞いていることが分かった。
「そのつもりで多めに作ってある」
「二人揃って世話焼きなのね」
女性はぼくに小さく笑いかけ、ニトの隣まで行って腰を下ろした。
ぼくも対面側に座り、ささやかな夕食となった。豆のトマトソース煮込みを皿に分け、各人の好みでパンに付けたり掬ったりして食べるだけだ。
何度も食べた味だろうに、ニトはぼくに「おいしいです!」と笑顔を見せてくれる。その食べっぷりもまた、気持ちが良い。成長期なのかなと思う。
薄くスライスしたパンは、そのままだと折り曲げただけで千切れてしまうくらい乾燥している。口の中ではパサついて唾液を奪ってしまって食べづらい。なので、この豆のトマトソース煮込みをパンに載せ、全体に塗り広げる。これで水分が補われて、パンはしっとり良い加減。お椀型に曲げた手のひらに合わせて凹みを作って、もう一杯、掬って載せる。そうしたら折り曲げてかじりつくだけだ。
パンは小麦粉の香りが強く、噛むと弾力がある。外側はパサっとしているが、内側はしっとりと水分を吸って、もちもちとした歯触りだ。ピザ生地に近いかもしれない。豆の塩味とトマトの甘酸っぱさも相性が間違いない。
あっという間に食べ終えたあとはスープを飲む。本来は煮込み料理の出汁代わりにいれるのだが、ぼくらはよくお湯で溶かしてそのまま飲んでいる。ただ、味が良いとは言えない。便宜上スープと呼んでいるけれど、正確に説明しようとするなら、肉と野菜を煮込んだあとのお湯の味だ。暖かくてほっとする、というのが一番の効能だろうか。
ニトと女性も食べ終え、スープでひと息をついていた。女性は襷掛けにしていたバッグの口を開き、手を差し込んだ。ランタンの明かりの影が強く、その鞄の中身は真っ暗に見えた。そこから女性は赤いリンゴをひとつ取り出した。
「ご馳走になったお礼よ」
そう言ってぼくに差し出す。しかし目が合うとすぐに察してくれたようで、ひとつ頷いて、そのリンゴをニトに差し出した。
ニトは目を輝かせた。
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