コミック1巻発売記念短編「スモークグレーのあとに」



 自分探しの旅、というものがあるらしい。


 旅とは目的地に向かって進むものだと、ぼくは思う。さらに言えば、現在地を理解して、進むべき方向もわかっている状態だ。


 道に迷って自分がどこに行けばいいのかも分からない。どこを目指しているのかも分からない状態のとき、旅をしていると言えるだろうか。

 海に筏で漕ぎ出し、ただ波に揺られている状態を、旅と言えるだろうか。


 自分探しの旅というのも同じで、結局は遭難しているのだと思う。


 自分という目的地がどこかに用意されているものだと仮定して、そこを目指すのかもしれないが、どこに進めばいいのか分からないのであれば意味もない。

 誰に尋ねられた訳でもなく、誰かに話すわけでもなく、そんなことをつらつらと考えてしまうのは、暇だからだった。


 ぼくはハンドルを握っている。窓を開け、涼しい風を頬に受けている。

 天気は快晴。真っ白な太陽に、突き抜けるほど気持ちのいい青空。雲はたなびき、風も穏やかだ。


 緩やかな丘の稜線に沿うように押し固められた道は、水平線の先まで途切れなく続いている。果てない先には青白く霞んだ山が連なっていて、もしかすると道はそこまで繋がっているのかもしれない。


 隣では、ニトが頭を窓に当てたまま寝息を立てていた。銀色の長髪からはちょこんと尖った耳が見えている。


 ぼくらは旅をしている。

 後部座席には分厚い地図帳がある。いま走っている道がどこに繋がっているのかも、おおよそは分かっている。

 けれど、ではどこに向かうべきかが、ぼくらには分かっていなかった。


 目的地は、ある。

 ニトは、お母さんの遺した手帳に描かれた、黄金の海原を探している。それは世界一うつくしい場所だという。問題があるとすれば、手がかりはなにもなく、どこにあるのかが分からないということだろう。

 ぼくは場所ではなくて、人を探している。


 ぼくはこの世界の人間ではない。

 日本から、ある日、急にこの世界に来てしまったのだ。それは迷宮とかいう場所のせいらしいのだが、困ったことに帰る方法が分からない。なぜなら、この世界はどうしてか、もう滅びかけていた。


 世界は白い結晶となって崩れ去っていく。

 建物も、植物も、人も。何もかも差別なく、消えていく世界だ。

 生き残っている人は少なく、出会うことは稀だ。だからぼくの事情を理解して、その答えをくれる人も、たぶんもういない。


 唯一、この世界に来たばかりの頃にぼくを助けてくれた、黒づくめの大男だけが、何かを知っているようだった。

 彼がまだ生きていることを信じて、ぼくは彼を探している。彼がどこにいるのかは、当然のように分からないまま。


 だからつまるところ、ぼくらは遭難している。

 行きたい場所はある。目指すべき目的がある。

 けれど、どこに行けばいいのかはわかっていない。本当にあるのかも分からない。

 探すことそのものを目的にして、移動し続けている。


 止まれば何かに追いつかれてしまうことを恐れるように、ひたすらに道を進んでいる。この蒸気自動車に荷物を詰め込み、どこかにある明日を探している。

 つらつらと考えていると、次第に頭はぼんやりとしてきた。眠気がひたりひたりと忍び寄ってくる。ふっと意識がはっきりしたかと思うと、まぶたがゆっくりとくっついていく。


 まどろみからふと叩き起こされる。


 雨だ。

 ガラスや車体を打つ猛烈な雨が、身体に響くほどの音でぼくらを包み込んだ。

 先ほどまで快晴だったのに、気付けばもう曇天で、空も山並みも全てが灰色に沈んでしまっていた。やがてその光景すら雨と霧にぼやけてしまって、ぼくは道すら見失う。


 ゆっくりとブレーキをかける。こんな視界で運転をすることは危険なだけだった。急ぐ旅でもなく、向かうべき場所も分からず、待ち合わせる人もいない。だったら無理をする必要はどこにもないのである。


 どしゃ降りの雨は苦手だった。ひとり切り離されて、どこにも行けない場所に取り残されたような気持ちになる。

 フロントガラスで動くワイパーを、ぼうっと眺めている。

 すると隣で、「うぅん」と小さな声が聞こえた。


「……わ、すごい雨ですね」

「おはようニト」

「おはようございます。すみません、また眠ってしまいました……」

「気にしないよ、成長期なんだ、きっと」


 さいきん、ニトはよく眠る。それも仕方ないことだ。代わり映えのしない景色がどこまでも続くようなドライブで、助手席に座るだけというのは退屈にすぎる。


 ニトは助手席で、猫のように器用に身体を伸ばすと、窓に顔を寄せた。


「景色も見えないです……なにかありましたか?」

「ぜーんぜん。山、岩、道、空」

「そこに街が加わるとうれしいですね。そろそろ食材も補充しておきたいですし」

「果物の缶詰、まだあったっけ?」

「あと3つです」

「それは緊急事態だ」


 自立心が旺盛なニトは、ここしばらく物資の管理配分という重要な任務を担当している。食材や生活必需品を整理し、どれくらい節約すべきかいつ補充すべきかなどを記録している。


 シロップで漬けられた果物の缶詰は、ぼくもニトも大好きな嗜好品だった。豆や油漬けの魚の缶詰なんかはよく見つかるが、果物の缶詰は街で探しても滅多にない。なのでぼくらは、街に寄るたびに宝探しと呼んで探し回っている。


「そろそろ街があると思うんだけどなあ」


 前に立ち寄った街から、もう三日は経っていた。この道を進むときに、地図帳で街があることは確認していた。ただ、正確な距離は分からないものだ。そろそろ見えるかもと、昨日から期待しているけれど、いまだに影もない。


「魔鉱石と水は大丈夫ですか?」 

「うーん、うん、大丈夫」


 この世界の蒸気自動車は、魔鉱石と呼ばれる魔法の石と、大量の水で動いている。運転席のメーターで見れば、どちらもまだまだ残っていた。予備の石も水も、まだまだ車の屋根に積んである。


 雨とは、つまり水だ。燃料用に補充するという選択肢もあるが、この雨の中で外に出るのは、ひどく億劫だった。まだ余裕もあるしな……うん……。


「雨が止むまでゆっくりしよう」

「ゆっくり、ですか……ゆっくり……」

「本でも読む?」

「うーん、そうします」


 とニトは後部座席に身を乗り出し、荷物箱から本を探る。

 ぼくも文字が読めたら読書にでも勤しみたいのだけれど、この世界の謎の言語を習得するには、暇つぶしという理由では熱意がちょっと足りなかった。

 本を読むニト。車体にぶつかる雨の音。灰色の視界。何もすることのないぼく。


「……お茶でも、淹れるか」


 あまりに退屈すぎて頭が溶けそうだった。

 後部座席に手を伸ばし、キャンプ用品が詰まっている箱をあけて、お茶を淹れる道具を引っ張り出す。


 携帯用のコンロ、茶葉の入った缶、ケトルとコップ。飲料用の水が入っている水筒。

 箱の上にコンロを据える。ケトルに水を淹れ、火をつけた。


 チリチリとケトルの肌が加熱されている音がする。ざっ、と雨が強くなった。車内にあふれるほど雨音が響いた。

 ぼくらの愛車である蒸気自動車––––ぼくらはヤカンと名付けている––––は、無骨な作りで、車内には金属が剥き出しな部分も多い。


 防音性能もあまり高くはない。濡れることはないというだけで、まるで豪雨の中に傘一本で立っているような気分になる。


 窓ガラスには絶え間なく水が流れていて、ワイパーが水を振り飛ばした一瞬だけ、水中から顔を覗かせたように景色を目にする。それでも白い靄がかかった道並みは、ぼくらが地面の上にいるということを確認できるくらいでしかない。


「洪水に流されちゃいそうだ」

「……そうですね、すごい雨です」

「ぼくの世界にノアの方舟っていう神話があるんだけどさ」

「……なるほど、舟が」

「争いごとばっかりの地上に嫌気がさした神さまが、ぜんぶ洗い流してしまおうって、何日も大雨を降らせて大洪水を起こすんだよ」

「……それは大変なことになりますね」


 ニトの返事はそっけない。ニトは本を読み始めると、いつもこうなのだ。本の世界に肩まで浸かってしまって、何を話しかけても右から左に通り抜けてしまう。

 ぼくもそれはもうすっかり理解しているので、いつも勝手なことを話したりしている。


「でも、ひとりだけ正しい心を持っていたノアという人にだけ、神さまは先に伝えていたんだ。方舟を作って、家族と動物たちを乗せなさいって」

「……すごい話ですね」

「そうでしょ、すごい話なんだ。この大雨でこの世界が洗い流されたら、ぼくらとこの車もノアの方舟みたいになっちゃうな」

「……たぶん、この車は沈みます」

「急に正論を言うなあ」


 実はしっかり話を聞いてるんじゃないかと思ってニトを見るが、膝の上に開いた本に夢中のようだ。

 うつむきがちになった顔を隠すように、白銀の髪が真っ直ぐに垂れ下がっている。


 ぱら、ぱら、と、ページは丁寧に捲られていく。

 雨音にまぎれて、コトコトとケトルが鳴っていた。中でお湯が沸騰している。

 ぼくはコンロの火を消して、二つのカップにお湯を注いだ。車内にふわりと白い湯気がのぼる。


 茶葉の入った缶を開けると、ティーパックが入っている。そこからふたつとって、それぞれのコップに入れた。お湯の中にゆっくりと沈んでいく。ほわほわと優しい赤色がにじんでいく。もうずいぶんと古いものだけれど、茶葉には賞味期限があるのだろうか?


 たまに風味も抜けた色のついたお湯のようなときもあるが、おおむね紅茶として飲むことができるので、ぼくらのティータイムはいつもこれだった。


 ときたま、廃墟から密閉されたコーヒー豆の缶が見つかったりする。けれど豆を挽くための道具も、美味しく淹れるための器具も知識もぼくにはない。

 昔、どこかで聞き齧った知識で、豆を砕いて布で濾してみたりもするが、そうやって出てくるのは苦味とエグ味だけを濃縮したような黒い泥水でしかない。


 ぼくには紅茶のほうが性に合っているらしい。手軽だし、まあ、おいしいし。

 抽出時間なんて測っていない。そもそも何分が最適なのかも分からない。


 絶え間ない連打音のような雨のリズムを聞きながら、ぼーっと待ち、ふと気が向いたときにティーパックを引き上げる。コップの中にはすっかり紅茶ができている。


 コップふたつを、こぼさないように慎重に取って、ひとつはぼくの足の間に。もうひとつをニトのそばのシートに置く。


「ニト、お茶ができたよ」

「……ありがとうございます」


 返事はあるが、ニトは本から手を離さない。これもいつものことだ。そもそも彼女は大変な猫舌なので、淹れたてのお茶は飲めないのだった。しばらく本に熱中して、ほどよく冷めたころにコップに手を伸ばす。それがニトのリズムだ。


 ぼくは熱いお茶が好きだ。湯気をふうふうと吹いて、ずず、っと啜る。わずかな苦味と、ハーブと花を混ぜたような香り。美味しいとは言えないけれど、不味くもない。ただ、とても落ち着く味わいで、これで結構ぼくは気に入っている。


「はあ……」


 ため息、というよりは深呼吸。

 何もない世界で、誰もいない旅路で、世界にはもうぼくらふたりしかいないんじゃないかなんて思ったりもして。恐ろしいほどの孤独があり、生きることの目的すらわからなくなる日もあり、この旅はただの逃避行ではないのかと考えることもある。


 それでもこうして、雨の中で立ち止まり、隣で熱心に読書をするニトをたまに眺めながら熱い紅茶を飲んでいると、こんな時間も悪くないさ、なんて思える。

 ゆっくりとコップの半分も飲み干したころ、急に雨が止んだ。


 屋根を叩く雨音が弱くなったかと思うと、名残もなく遠ざかって行った。

 ワイパーがガラスに残った水滴をすっかり拭ってしまうと、急に晴々とした視界があった。何もかもが濡れそぼった世界を太陽が白々と照らしていた。誰かが刷毛で塗ったように、途端に青空が生まれていた。

 間違いなく同じ景色に違いないはずなのに、雨が降る前とは別の場所にいるようにすら思えた。何もかもが澄み切っていた。


 ぼくはコップを持ったまま車を降りる。

 地面が濡れていなければ、あれほどの雨が降ったことなんて分かりもしないだろう。


 振り返ると、ぼくらが通ってきた道に影を落とすように、スモークグレーの雲が広がっていた。ぼくらはいま、雨と晴れの境目にいるようだった。

 すごい光景だ、とぼくはしばらく見入っていた。雲がゆっくりと遠ざかっていくにつれて、地面はどんどんと明るく、広くなっていった。

 ばたんと、車のドアが開く音がした。ニトが降りてきた。


「……いつの間にこんなに晴れたんですか?」

「ちょうどついさっき」

「気づきませんでした」


 ニトは晴れた景色と、遠くの雨雲とを交互に確かめる。忙しなく首を振り、どっちの景色を見るべきかと両手をばたばたさせた。


「うう、もったいないことを……っ」

「まあまあ、また見られるって。お茶でも飲んで落ち着きなよ」


 ニトは相変わらず無念そうに唸りながらも、車内からカップを持って戻ってきた。ぼくらは紅茶を飲みながら、目の前の景色を眺めた。


「なんとまあ、滅びかけてるにしちゃ、綺麗な世界なんだよなあ」

「……そういえば、ノアさんはその後、どうなったんですか?」


 ニトが言う。しっかり話を聞いていたらしい。読書をしながらも、あとで気になったことを聞いておこうと思っていたのだろう。


「生き残ったノアのところに神さまが現れて、もうこんなことはしないって約束をするんだよ。その約束の証に、神さまは」

「わ」


 と、ぼくの話の途中で、ニトは急に空をみて動きを止めた。なんだろうかと視線を追う。ニトが何を見ていたのか、すぐに分かった。雨上がりの空には、大きな虹があった。


「すごいですねケースケ! 大きな虹ですね! 綺麗です!」


 ニトは虹よりもよっぽどきらきらと輝く瞳でぼくを見上げ、何度も虹を指さした。

 ぼくは、そうだね、と頷いた。


 ふたりで何度も、綺麗ですね、そうだね、と繰り返しながら、虹を見上げた。やがてうっすらと、虹は消えていく。まるで蜃気楼か幻かのように、もうそこには何も見えなくなる。けれどぼくらはたしかに、その虹を見ていた。


 はっ、と思い出したように、ニトがぼくを見上げた。


「ケースケ、約束の証に神さまはどうしたんですか?」


 うーん、とぼくは考えて、「秘密」と答えた。


「ど、どうしてですか! 教えてください!」

「教えるだけじゃつまらない。当ててみて。時間はたっぷりある」

「むう……神様は、ええと、何をしたんでしょう」

「さあ、なんだろうね」


 ぼくは笑いながら紅茶を飲み干し、車に戻る。


「ま、待ってください! それは良いことですか、悪いことですか!」

「良いことかもしれないし、悪いことかもしれない」

「ぜんぜん答えになってないですよ!」


 ニトも助手席に戻って、ぼくはハンドルを握る。ゆっくりと車は動き出す。

 ニトはコップを両手で包み込んだまま、ああでもない、こうでもないと悩んでいる。その姿を横目で見ながら、ぼくはこっそり笑ってみたりする。


 生き残ったノアのところに神さまが現れて、もうこんなことはしないと約束をする。


 その約束の証に、神さまは––––空に美しい虹をかけた。


 そんな答えをいつ教えようかなと考えながら。




   了


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さよなら異世界、またきて明日2 風見鶏 @effetline

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