第一幕「鞄の中に秘めたアガット」5
4
やけに眩しい感じがして目を開けると、真っ白な光が目に差し込んできた。思わず寝返りを打って、羽毛の詰まった枕に顔を埋めた。
久しぶりのベッドで快眠できるかと思った。しかし甘かった。どうにも柔らかすぎるベッドが違和感になって寝付けなかった。硬い地面に寝袋を敷いて寝ることに慣れすぎたのだ。
枕から頭だけを起こして腕時計を確認すると、いつも起きる時間よりもまだ早かった。そのことにため息をついて脱力する。
ベッドの隙間にイーゼルが立ちはだかり、ニトの上着が掛けられている。あまり効果はなさそうだけれど、目隠しということらしい。布団がこんもりと丸くなっていて、隙間から銀色に輝く髪が溢れていた。山は穏やかに上下していて、ニトは気持ちよく夢の世界で過ごしているようだ。
窓からの陽射しは容赦無くぼくに降り注いでいた。スマホのアラームよりも効果抜群だなとぼんやり考えて、二度寝を諦めて身体を起こす。
寝癖を手櫛で無理やり直しながら窓に寄る。小高い丘の上に建っているだけあって見晴らしが良い。段々に重なる家の屋根と曲がりくねった道は、昨日、ぼくらが通ってきたはずだけれど、朝日の中でこうして見下ろすとまったく知らない場所に思えた。
ぼやける裾広がりの山々と緑も少ない荒れた野が続く右の端に、朝日に白く輝く水面が見えた。それは湖の端の部分のようだった。
水の補給と、身体を洗うのと、魚でもいれば獲れないかな……と、ごく自然に考えていた自分に気付いて笑ってしまう。湖を見ても綺麗だなとか、観光しにいこうではなくて、生活に根付いた実利を連想してしまうあたり、すっかり旅に慣れてしまっていた。それが良いことなのか悪いことなのかは、判別が難しい。
ベッドサイドに立てかけていたバックパックの中から歯ブラシとチタンカップを取り出して部屋を出る。昨日あれほど暗く沈んでいた廊下にも光が溢れて、並ぶ扉の木目を浮き上がらせていた。
聖堂へつながる扉を開くと、そこにはただ静けさが満ち溢れている。見上げるような高さに並んだ窓から注ぐ朝日が長椅子を照らしていた。ゆったりと舞う塵がきらきらと輝いて見える。聖女の像はひとり青い影を背負っていて、その輪郭だけがくっきりと光の線で浮き上がっている。
扉を開いたきりぼくは息をするのも忘れていた。それは祈りの場所だった。静かな、厚みのある見えない空気が詰まっているようにすら思えた。
ふと、並んだ長椅子の真ん中あたりに座っている影に気付いた。それはシャロルだった。ぼんやりとした視線で聖女の像を見上げていた。ぼくが近づいても気にした様子もない。
「おはよう」
声をかけてようやく、シャロルはちらと目線をよこした。
「ええ。おはよう」
「早起きだ」
「朝の時間が好きなの。気分がいいから」
それはたしかに、とぼくも頷く。
隣の席を指差して伺うと、シャロルはどうぞ、と答えた。腰を下ろして一息。
「昨日はありがとね。ニトも喜んでた」
「別に構わないわ」
「探してる物語は見つかりそう?」
「どうかしらね。あまり期待はしていないの」
「期待しないのに探すの?」
「今までずっと探してきたんだもの。それでも見つからないんだから、根拠もなく期待しないようにしているの。落ち込む必要がないから」
平坦な調子でシャロルは言った。会話はひどく素っ気ないけれど、質問にはちゃんと答えてくれるようだ。コミュニケーションを必要最低限で抑えている感じ、というか。少なとくとも、沈黙が気まずいからという理由で自分から話しかけるタイプでないことは確かで、会話はぴたりと止まってしまう。
ぼくらはひとりぶんの隙間を空けて並んで座って、陽射しに頰を白く染める聖女像を見上げている。太陽が少しずつ登るにつれて、光の傾きは変わる。聖女の顔に生まれる陰影が表情を作っている。
「……悲しそうね」
「え?」
シャロルは二度、繰り返さなかった。ぼくは言葉を聞き逃したわけではなく、意味を測りかねていた。聖女の表情に悲しさを見ているようだったが、ぼくにはそれを見取ることが難しい。
どの辺りを見てそう思ったのかを聞こうとしたとき、背後で扉が開いた。入ってきたのは昨日のお婆さんだった。手には木桶を下げている。
お婆さんは座っていたぼくら見てわずかに片眉をあげた。ゆっくりと歩いてくる。
「おはようございます。お早いんですね」
とぼくが声をかけると、お婆さんは片手を振り払うようにしてみせた。
「年寄りになるとそうなるのさ。昨日のお嬢ちゃんの他にも連れがまだいたのかい」
「昨日の夜に知り合ったんです。たまたまここで会って」
「こんな田舎っぱずれの村で出くわすなんざ珍しいこともあるね。メルシャン通りならまだしも」
「メルシャン通り?」
おばあさんは昨日と同じように聖女像の前まで歩いていき、そこに木桶を置いた。ぼくも席を立ち、お婆さんのところに歩いていく。
「この村から湖につながる途中にある金持ちの遊び場だよ。普段はひとりも住んじゃいないのに、夏と冬の休暇のたびにどっと集まっては大騒ぎする、金と時間を余らせたろくでなしのための遊楽通りさ」
年に二回だけ人が集まる町、みたいなものだろうか。不思議な場所のようだ。
腰をかがめて布を絞っていたお婆さんは、硬く捻られたそれをぼくに差し出した。とっさに受け取ってしまう。それでもう、言葉にしなくてもぼくの役目がわかってしまって、苦笑が漏れた。
「今日はどこを掃除しますか?」
「上の窓を拭いとくれ」
お婆さんが指差す方を見れば、隅には傾斜が急なうえに幅も狭い階段があった。そこから登る二階は、壁に沿うようにぐるりと通路が作られているだけだった。
朝食の前に掃除と洒落込むのも、たまには悪くないかもしれない。二度寝よりは健全だろう。
「ほら、あんたもこっちにおいで」
お婆さんは座ったままのシャロルに呼びかけた。彼女は特に拒絶もせずにこっちにやってきて、お婆さんに差し出された布を受け取った。
「あんたは一階の窓を頼むよ」
「ええ」
「適応能力が高すぎる」
シャロルの振る舞いにはまったく戸惑いというものがない。ぼくは昨日も同じことを経験しているから平然としているだけだ。シャロルは初対面のお婆さんに布を差し出されて掃除をさせられるという、ちょっとばかし特殊な状況にもかかわらず、まるで表情が変わらない。
彼女はぼくに視線を合わせて、軽く肩をすくめてみせるだけで、あとは何も言わずに窓に向かっていった。それは大人の余裕というべきものを感じさせた。見た目で歳下かと思っていたけれど、もしかすると歳上なのだろうか。シャロルの背中を見送ってしまう。
「なにを見惚れてるんだい」
「とんでもない」
お婆さんに鋭く叱咤されて、ぼくは小走りで階段に向かった。
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