第一幕「鞄の中に秘めたアガット」4
「わっ、いいんですかっ」
彼女は甘い物と果物が大好物だった。しかしどちらもめったに見かけなくなってしまって久しい。保存のために加工したものでなく、もぎたてのように新鮮な果物はとくにそうだ。果樹のほとんどは実をつけることすらなくなっている。
ニトは賢い子である。この世界でそれがどれだけに貴重かはよくわかっている。けれど女性が「どうぞ」と差し出すリンゴを、押し返すというわけにはいかなかったようだ。
ぷるぷると震える両手でそれを受け取ると、宝物のようにリンゴを見つめた。灰色がかって見える長髪の隙間からちょこんと飛び出た耳の先が忙しなく動いている。
ぼくと女性はニトの喜ぶ姿に、同じように微笑んでいたと思う。
ありがとう、と口だけを動かして伝える。女性はかすかに肩をすくめた。
「あの、お名前を教えてください!」
それは友達を作るときの挨拶のようだった。
女性は慣れないことにちょっと気恥ずかしさを感じたように、キャスケットを少しだけ押し上げた。
「……シャロルよ」
「シャロルさん、素敵なものをありがとうございます。とっても嬉しいです! あ、わたしはニト、です。こっちはケースケです」
なんとついにニトの口から紹介してもらえるようになった! 今まではぼくのセリフだったのだ。ぼくはケースケ、こっちはニト、って。ニトの成長が嬉しくもあり、どうしてかちょっぴり寂しさも感じた。
「シャロルさんは、旅人ですか?」
ニトはリンゴを胸の前に掲げたまま、純真な目で訊いた。
「ええ、そんなものね。こうなる前は届け屋をしていたのだけれど」
「届け屋さん!」
ニトが声を高くした。
「届け屋さん?」
ぼくはぽそっと呟いた。ニトがすぐに解説してくれる。
「どんな荷物でもどこにでも迅速に、確実に届けてくれる人たちなんです。国の認可制なので、届け屋さんは少ないんですよ」
「認可制? それはすごいな」
聞く限りでは郵便配達や宅配便と変わらないようだけれど。
「届け屋さんは<ジアンティク>を所持しているんです。それには国の許可が必要なんです」
「ごめん。そのジアンティクっていうのは?」
ニトが「あっ」と思い出したように声をあげた。ごく一般的な知識らしい。
「魔術の遺物とも言われる道具のことです。魔術文明が隆盛だったころに作られた逸品の総称です。魔術の効力が残っているものもあって、届け屋さんの鞄はその代表例なんです」
「いくらでも物が入るとか?」
笑いながら言う。
「そうよ」
と、頷いたのはシャロルだった。
「届け屋の鞄には空間圧縮の魔術が掛けられているの。鞄の中にはこの部屋よりも広い空間があるし、中に入れたものは入れたときのまま劣化しないわ」
「四次元ポケットじゃん」
「よじ……?」
ニトがきょとんとぼくを見る。しかし解説をしている余裕はなかった。あまりの思いつきに頭がいっぱいだったのだ。
出会ったとき、シャロルが手ぶらのように軽装だった理由が今になってわかった。新鮮なリンゴも、世界がこうなるずっと前に鞄にいれたということだろう。なんて便利なんだ。つまり彼女はーー
「シャロえもん……」
「なんだか気に入らないからその呼び方はやめてくれる?」
わりとキツめの口調で言われたのでぼくは口を閉じた。だめだった。これ以上ないくらいの呼び名だと思ったのに。
「ジアンティクのことを知らないし、変な呼び方もするし、あなた、もしかして異世界人?」
「ご明察」
ぱたぱたと拍手をする。
シャロルは「驚いた」とちっとも驚いていない顔で言った。
「本当に存在したのね。ご先祖様の言う通りだわ」
「ご先祖様?」
「言い伝えみたいなものよ。二百何年も前かしら。私の一族はその頃から届け屋をやっていたのだけど、異世界人とも知り合いだったって話があるの」
へえ、とぼくは頷いた。
もし本当にそうなら、その人は魔術のある時代に迷い込んだというわけだ。滅びかけの世界よりは心が躍りそうだ。
「魔術を使ったり、現代の知識で大活躍したりしてたの?」
「さあ。あまり詳しくは知らないの。なんだかお店をやっていたそうだけど」
「お店?」
異世界に来てお店? なんだってそんなことをしているのだろうか。魔術があるんだからもっと派手に頑張って欲しい。
「それってもしかして、喫茶店じゃありませんか?」
ぽつりとニトが言った。
「喫茶店? あの、コーヒーとか、ケーキとかの?」
「はい。喫茶店の発祥がその店ではないか、という説があるんです。今ではコーヒーを楽しむ文化が当たり前ですけど、昔はこの大陸にはコーヒーが輸入されていなかったんですよ」
ぼくはこめかみを掻いた。ちょっと想像に難しい。
「……異世界に迷い込んで、魔術が当たり前の時代にやったことが、喫茶店でコーヒーを普及させたってこと? よくわかんないな。なんでコーヒーなんだ」
「さあ、そればっかりは。あまり記録も残っていないので。わたしもフォアローゼスの小説で読んだことがあるくらいですし」
ぼくの他の異世界人というのも、それぞれに苦労したりいろいろあるらしい。なんでか喫茶店を開業したり、エルフの女性と絵を描く旅に出たり、滅んだ世界でハーフエルフの女の子と一緒にその足跡を追ったり。
「……シャロルさんは、どうしてここに?」
シャロルを除け者にして二人で会話をしていたことに気付いて、慌ててニトが質問を向けた。
「ここに寄りたかったの」
「聖堂にですか?」
「正確にはこの書庫ね。本を探しているから」
「どんな本ですか? わたし、よく本を読んでいたのでお役に立てるかもしれません」
大きな瞳をさらに大きくしながらニトが身を乗り出した。その勢いにさすがのシャロルも苦笑した。
「題名が分からないのよ。ページが破れてしまったのか、最初からないのか分からないけれど」
「そうなんですか……どんなお話ですか?」
「ネズミの騎士がお姫様を助けに行くお話」
ニトはむむむ、と考え込んだ。両手にリンゴを持ったままなので、一見するとリンゴに念を込めているみたいだ。
必死に記憶をひっくり返していたようだったが、思い当たる物はなかったらしい。ふしゅう、と肩から力を抜いて、耳もしょぼんと下げてしまう。
「ごめんなさい。心当たりがないです……」
「私もずっと探しているけれど、見つからないの。気にしないで」
はい……と頷く。その元気のなさはどうしたものかと心配になるくらいだ。たぶん、リンゴをもらったお礼として、なにか恩返しがしたいのかなと思う。
「シャロルの本を探す手伝いをしたら? ついでに地図も探せるでしょ」
ぼくが提案すると、途端にニトは元気を取り戻した。
「それがいいです! わたし、一緒に探します!」
と背筋を伸ばしたかと思うと、はっとして、おずおずとシャロルの顔をうかがう。
「……あの、お邪魔じゃなければ、ですけど」
シャロルは口元を指で隠して小さく笑うと、「ええ」と頷いた。
「そうしてくれるなら助かるわ。私も地図を見つけたら教えるわね」
「はい!」
ニトはまた笑顔には歳相応の無邪気さのようなものがあった。思えば、今まで出会った人たちはみんな大人だった。シャロルはぼくと同い年か、少し歳下くらいだろうか。ニトにとっては少し歳上のお姉さんとして、親しみを持ちやすいのだろう。
期せずしてここに滞在する予定が決まってしまったが、もともと予定の詰まった旅でもないし、宿泊費がかかるわけでもない。いつでもどこでも好きな場所にいって、好きなだけ滞在できるという点では、本当に自由な旅路である。
食器の片付けをニトが手伝ってくれた。それから食後の読書と勤しむ。ぼくは相変わらず床に腰をおろして、スマホを取り出した。
この世界にはもちろん電波もないし、電源もない。そんな世界でスマホで音楽を流したり懐中電灯の代わりにしたりと便利に使えているのは、バックパックで持ち込んだ手回し充電式のランタンのおかげだった。ケーブルをスマホに繋ぎ、小さなハンドルをぐるぐると回す。夜な夜なぼくはこうして、人力でスマホに電気を送っている。もちろん効率は悪いので、めちゃめちゃ時間がかかる。
シャロルとニトが優雅に本を読んでいる傍らで、ぼくはひたすらハンドルを回していた。
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