七月 来訪者
「ただいまー。あーあ、やっぱりか」
仕事を終えて帰ってきた
「『やっぱり』ってなによ」
シンク下の扉に背をあずけ、うずくまったままわたしは訊いた。「暑っ~~」とワイシャツを脱ぐと、碧の体温で部屋の気温が上がったような気がした。
「いやなこと、あったでしょ?」
金曜日の今日、定時に仕事を終えられたわたしは、碧の部屋で一緒に夕食を食べる約束をした。味噌煮にしようと鯖を買って、まずお味噌汁の出汁を取っていたとき、チャイムが鳴った。
『誰だろ?』
リビングにあるインターホンより玄関ドアの方が近いため、わたしはドアスコープから外をのぞいた。そこにいたのは、ブルーのサマーニット姿の女性だった。少し緊張した面持ちで、何度か前髪を直している。
最近わたしの家に、保険のセールスレディが頻繁に訪れていたこともあって、勝手にセールスだと思い込んだのが失敗だった。つい、ドアを開けてしまった。
『はい。どちら様ですか?』
半分以上断り文句を用意して出たわたしを見て、彼女は絶句して何も言わなかった。そう、何も言わなかったのだ。数歩後ずさり、そのまま走って帰っていった。
わたしはその遠ざかるヒールの音を聞いていた。ちいさな蛾が一匹、開けっ放しのドアから入り込んだけれど、動くことができなかった。
あれが元カノだという直感は、絶対間違っていない。
「『いやなことがあった』って、なんで知ってるの?」
シンクで手を洗い、碧は麦茶の最初の一杯をひと息に飲んだ。
「隠して拗らせたくないから正直に言うと、本人から聞いた。俺のところにも来たの」
「会社?」
「そう」
麦茶をもう一杯注ぐと碧も床に座り、膝に顔を埋めたわたしごと腕の中に包み込む。暑くてベタベタして汗臭いけれど、ふり払おうとは思わなかった。
「でも、それだけだから」
「『それだけ』って何?」
うずくまったままのわたしの声は、ひどくくぐもっていた。
「『それだけ』は『それだけ』だよ。何もない。ちょっと話して帰って行った」
「わざわざ訪ねて何の話?」
「近況報告。ドイツに留学してたから」
身じろいでも、わたしを抱き締める腕の力は弱まらない。ちびりちびり飲む麦茶が、彼の喉を落ちていく音さえ間近に聞こえる。
「ドイツ?」
「パン作りの修行に行ったんだ。パンを作るのが上手なのはもちろん知ってたけど、まさか職人になりたいとは思わなくて、ある日留学を理由にフラれた」
ことさらつまらなそうに話すのは、わたしに心配かけないための演技でもあるのだろう。碧の本心は、碧にしかわからない。
「フラれたの?」
「そうだよ」
「だったら、未練あるでしょ?」
「そんなわけないだろ」
「でも、彼女はやり直すつもりで来たんでしょう?」
言葉に詰まるということは、そういうことだ。思えばずいぶんかわいらしい格好をしていた。耳元で揺れるゴールドのピアスが、よく似合っていた。
対するわたしはTシャツにハーフパンツという、パジャマのほうがかわいげあるくらいの、ひどいナリだった。
「別れて二年以上経ったら、普通は家に来たりしないよね」
「そうだな」
「前から連絡取ってたんでしょ?」
「昨日二年ぶりに連絡がきて、あいさつ程度のやり取りしただけだって。疑うならメッセージぜんぶ見ていいよ、ほら」
携帯電話が腕に当たる感触があるけれど、わたしは顔をあげなかった。
「相手がどういうつもりだろうが、俺にそんな気はない」
「いいんだよ、わたしに遠慮しなくて。わたしはまだ若いし、きっとこれからいくらでもあたらしい恋ができる」
「心にもないこと言うなって」
「心にあるもん」
霊魂ごと吐き出したような深いため息が、わたしの頭にぶつかった。今度こそ呆れられる。嫌われる。わかっていても負のループに陥った思考回路からは、容易に抜け出せない。
「彼女が留学しなかったら、別れなかったでしょ?」
「さあ、どうかな」
「わたしと付き合ってなかったら、ヨリを戻したでしょ?」
「さあ、どうかな」
「わたしのこと、面倒くさい女だと思ってるでしょ?」
「ああ、それは思ってる」
顔を上げてにらんだら、やさしく細められた目と目が合った。碧の指がわたしの前髪を掻き分ける。
「そんな格好してるから、ここ赤くなってる」
おでこに触れた唇は、麦茶を飲んだせいで冷たい。
「仮定の話しても仕方ないでしょ。現実は変わらないんだから」
「そうだけど! 本心はわからないから」
「本心? 本心なら、俺は今のままでいい。なんでそんなに気にするのかな」
本当はわかってる。心の底では、このひとを疑ったりしていない。もし心変わりしたなら、きちんと話して何度も何度もあやまって、けれど取りつく島もないほど決然と、わたしの元から去っていくようなひとだ。
だからこんなに落ち込むのは、ぜんぶわたしの問題。
「……ずっと、コンプレックスで」
はじめて会ったときも、その後再会したときも、碧のそばには“彼女”がいた。当たり前のように愛される彼女がうらやましくて、妬ましくて。その気持ちはやけどの跡のように残って、わずかな雨でもじくじく痛む。
「コンプレックスなら、俺だってある」
碧はわたしの首の右後ろを、人差し指でとんとんと示した。
「はじめて会ったとき、ここにキスマークついてた」
「うそっ!」
「気づかないフリしたけど、しっかり見たから覚えてる。白状すると、首筋見るたびにちょっと思い出す」
何年も前の跡を消すように、皮ごと削り取るつもりでゴシゴシとこすると、碧がその手を止めた。
「赤くなるよ」
そしてふっと屈むと同時に、痛みが走った。
「痛い!」
「このほうが早い」
「ちょっと! ばかじゃないの!」
「まあ、土日の間に消えるよ、たぶん」
「その間は? いかにも『キスマーク隠してます』って絆創膏貼るの!?」
「最初に見えるところにつけられた方が悪い」
碧は立ち上がって、わたしの手を引く。
「おあいこだから、これでこの話はおしまい」
「どこが『おあいこ』なのよ……」
碧の手にあるグラスを奪って、残っていた麦茶を飲み干した。ぬるいお茶でも、頭が少し冷静になる。
「腹減ったな」
何もないキッチンを見ながら、碧がつぶやいた。
「……出汁は取れてます」
「弁当でも買ってくるよ」
お財布を持って玄関に向かう、その後ろをついていく。
「碧」
「なに?」
「そこに蛾がいるから取って」
「あ、本当だ」
碧はほうきで蛾を追い詰め、玄関から追い出した。ちいさな黒い来訪者は、“彼女”と同じ方向に飛び去っていく。
「碧」
「なに?」
「彼女と出会う前にわたしと出会ってたら、わたしを選んでくれた?」
愚かついでに投げかけた愚かすぎる質問に、碧はちょっと考えて「いや、無理」とスニーカーに足を入れる。
「だって、そのときまだ中学生でしょ?」
尖らせたわたしの唇を、指でふにふに弄ぶ。
「俺は今のままがいい」
毒気をすべて抜き取るような笑顔を残して、「いってきます」とドアを開ける。
「いってらっしゃい。お味噌汁と鯖の塩焼きは用意しておくから」
閉まるドアの隙間から、ひらりと手をふる姿が見えた。
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