六月 ドライブ日和

 エレベーターが到着したことに気づかず乗り過ごして、もう一度「」のボタンを押し直した。ようやく乗り込んだエレベーターでうつむくと、うす汚れたパンプスが見える。四月に就職したとき買ったばかりなのに、ふた月まったく手入れをしていない。

 外はひと雨降ったようで、路面が濡れていた。日が落ちても、コートは必要ないくらいに暖かくなっていて、立ち上る雨とアスファルトの匂いが、春の終わりを告げていた。

 終わるというのに、この春の記憶はほとんどない。思い出せるのは、思い出したくない仕事のミスばかり。

 バスの時間はとうに終わっているので、タクシーを探して大通りへ向かう。肩を落とし、背中も丸めて歩いていると、車道を同じスピードで並走してくる車があった。疲れた身体に緊張が走り、ことさら気づかないふりで足を早める。

 やだな。危ないかもしれない。

 そう思っても、疲労困憊した足は思うように稼働してくれない。


「お姉さん、デートしませんか?」


 ああ、ほらやっぱり……

 疲れた身体が一瞬こわばったが、聞き覚えのある声にふり返った。何度も見たメタリックブラウンの車。その運転席にいたのは、友達でもない、恋人でもない。会いたくて会いたくて、でも全然会う余裕がなくて、もう遠くへ行ってしまったと思っていたひとだった。


「なに、してるんですか?」

「デートのお誘い」

「今から?」


 車のライトに照らされた腕時計は、夜十一時八分を示している。


「いや?」


 どんなに不機嫌な態度を取っても、このひとはいつも、揺らがぬ笑顔を向けてくる。


「乗って。いやじゃないんでしょ?」

「まだ何も言ってません」

「いやならすぐ『いや!』って言うでしょ、君」


 しぶしぶと言った態度で助手席に乗ると、車はしずかに走り出した。


「どこ行くんですか?」

「ちょっとだけ遠回りして君の家」

「えっ! 無理です! わたしの家、ひとを呼べる状態じゃないし」

「うん。俺は送ったら帰るから」


 迷いなくハンドルを切るその腕を、思わず掴んだ。


「そんなの、ただの運転手じゃないですか!」


 彼はあかるい声を立てて笑った。


「“ただの運転手”は傷つくな」


 5cmだけ開けた窓から夜風が入ってきて、その髪を乱す。


「ただの食事なのかデートなのかは、結局当人同士の認識の差でしょ?」

「まあ、そうですね」

「だったら、ただの送迎かドライブデートなのかは、俺たちの認識次第でしょう」

「でも! 負担が一方に偏りすぎてます!」

「あ、ここ寄るね」


 ちょっと待ってて、と彼はコンビニで買い物をしてもどってくる。


「食べられそうなら食べて。痩せたよ」


 渡された袋の中には、おにぎりとサンドイッチとあたたかいほうじ茶が入っていた。彼自身は緑茶のペットボトルを開けてひと口飲み、また車を発進させる。

 ここまでの気づかいを、さすがに突っぱねることはできず、「いただきます」とペットボトルの蓋を開けた。


「『忙しくて会えない』っていうのが、嘘じゃないってわかってるから」

「すみません。要領が悪いんです」


 四月の研修期間はまだよかった。多少無理をしても、高いモチベーションでがんばれた。でも実務に入ると、右と左しかわからないまま、一人前の仕事を割り振られる。ひとつひとつこなして行くのを待ってくれるほど、世の中はのんびりしていない。同時進行でこなさなければならない仕事を抱え、それでも毎日イレギュラーな出来事が起きて、その都度優先順位が変わっていく。

 精一杯やっているのに減らない仕事に、体力も精神も消耗していった。平日はもちろん、土日でさえデートのお誘いに応じる余裕がなくて、もうこのまま会えないかもしれないと、何度も泣いた。それでも動けないほどに疲れていた。


「新入社員なんて、だいたいそんなもんでしょ。うちの会社でもそうだから」

「他のひとはもっと要領よくやってます」

「そのうち力の抜き方がわかってくるよ。俺も最初の半年は、無我夢中で記憶ない」


 それは事実かもしれないが、今のわたしには、慰めるためだけの嘘にしか聞こえなかった。


「だって、わたしはそのころを知らないもの。最初から大人で、余裕あって、ちゃんと社会人だった!」

「お! すごい高評価」

「もっと動揺したり、失敗したりしてほしい」

「そんなに立派じゃないけどなあ、俺」


 コンビニには寄ったものの、ほとんど遠回りすることなく、車はわたしの自宅前に着いた。ためらうわたしに「着いたよ」と降りることを促す。


「土日はちゃんと休んでね。あと、『すみません』は聞き飽きたから、それより帰宅時間教えて。またデートしよう」


 返事もできずしかめっ面で立っていたら、また笑われた。


「いやじゃないよね」


 容易く切れるわたしとの糸を、ていねいにつないで引き寄せてくれる。彼のその悪趣味に甘え切っていた。手を離されたら身も世もなく泣くくせに、わたしはいつも、かわいげなく突っ立っているだけだ。


「じゃあ、またね」


 サイドブレーキを踏むガチッという音に、疲れ切った脚が反応した。開けたままの窓を掴んだら、進みかけていた車が大きく揺れて停まった。


「あの!……ありがとうございました」

「いえいえ。どういたしまして」

「それから、」


 車の窓越しは思った以上に距離が近くて、彼の黒目が意外と大きいことまで見えた。


「………………来てくれて、うれしかったです。会いたかったので。……とても」


 青々としたイチョウの葉が、夜風にあおられ音を立てる。身体に響くこの揺れは、手を通して感じる車のエンジンなのか、破裂しそうな心音なのか。


「ああ、うん」


 彼はめずらしく歯切れ悪く、うつむいてポツリと言った。


「そう、言ってくれるだけで、十分、です」


 彼は出会ったときから大人で、余裕あって、ちゃんと社会人で。でもまだまだ知らない一面のある、いとしい男のひとだった。





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