五月 ゆび きった
目の前に停まったメタリックブラウンの車に、わたしはわざとゆっくり近づいた。焦ったように運転席の窓が開く。
「ごめん! 遅れた!」
「十八分待ちました」
「本当にすみません。どうぞ乗ってください」
彼が助手席を示すので、わたしはわずかに眉をひそめて訊いた。
「彼女さん、いやがりません?」
今現在彼女がいるのかいないのか、聞いたことはない。けれど彼はからりと笑って、その存在を認めた。
「大丈夫。そういうの気にするひとじゃないから」
その“彼女”は、以前の“彼女”と同じひとだろうか。車の反対側に回り込みながら、わたしはそっとため息をついた。わたしが上手に隠しおおせたのか、それとも彼が鈍感なのか、いたってたのしげに彼女の話題をつづける。
「『今日は女子大生とデート』って言ったら、車の中掃除してくれた。だから普段よりきれいだよ」
そうですか、とつぶやいてシートベルトを締める。たしかにとてもきれいな車だった。ほのかにマリン系のフレグランスが香る車内は、彼のイメージより幾分整い過ぎていて、まるで彼女の手のひらの上に間借りしている気分だった。
「ここ、俺の職場」
小さなビルの前を通過したとき、彼が指差して言った。
「うちの店と近いんですね」
わたしがアルバイトしているコーヒーショップとは、ほんの二ブロックしか離れていない。
「近いんだけど歩いて五分じゃ着かないから、コーヒー買いに行くにはちょっと遠いし、車で行くには近すぎる。それでなんとなく、これまで行きそびれてて」
その「ちょっと面倒くさい」店に、彼は週二~三回やってくる。うちの日替わりコーヒーが、よほどお気に召したらしい。
車は繁華街や飲み屋街ではなく、住宅街の奥へ入って行く。駅からもバス停からも遠く、街灯さえ少ない場所に、一軒家のような店がポツンとあった。
「着いたよ。ここ」
食事をご馳走になる約束をしたら、当然「何が食べたい?」と聞かれた。食べたいものなど特になかった。もしこれが大学の先輩だったら、「ラーメン」と答えていただろう。お互いに負担が少なく、食事時間も短くて済む。
フレンチのコースが食べたい、とわたしは答えた。考え得るかぎり、いちばん相手に負担をかけるものを選んだつもりだ。
さらりと終わらせたくなかった。面倒くさいと思われたかった。しかし彼は、戸惑う素振りさえ見せてくれなかった。
『フレンチ? 店の指定はある?』
フレンチになどご縁のないわたしは、首を横にふるしかない。
『特に指定ないなら、こっちで予約するよ』
そうして連れて来られたお店は、看板を見ても店名は読めなかった。
「お待ちいたしておりました。こちらへどうぞ」
迎えてくれたのはタキシード姿の男性ではなく、四十代くらいの女性だった。シンプルなエクリュのエプロンは少しくたっとしていて、わたしの母でも着ていそうなものだ。床は板張りで、ヒールで歩くと、ガツガツ大きな音がする。
「コースしかないんだけど、いいかな?」
「はい」
「お酒飲む?」
「はい」
「じゃあメニューどうぞ」
わたしが飲み物を選ぶ間、彼は別のメニューを見ていた。大人っぽく、でもがんぱり過ぎないように、と選んだベージュの花柄ワンピースは、がんぱり過ぎなかったせいなのか気づいてももらえない。
「お酒飲むんだね」
メニューを見てもわからず、結局グラスワインの赤を頼んだわたしに、彼は笑いかける。
「年齢は偽ってないですよ」
「いや、高校の制服姿知ってるから、変な感じして。冬なのに生足でさ」
「変態」
「あの寒空で生足なんて、相手がおじいちゃんでも見るって」
くだけた雰囲気の店なのに、出てくる料理は完璧なフレンチだった。サラダさえ、ブーケのように華やかないろ合いで、わたしをひるませる。
「あ、おいしい」
ひらひら舞う蝶のように見えたのは、スライスして素揚げされたカボチャだった。柑橘系のドレッシングは、慣れ親しんだフレンチドレッシングとはまったく違う味がする。
「食べたことない味」
白蕪のスープを食べながらつぶやくと、彼はうれしそうに笑った。
「初体験を提供できてよかった」
「言い方、なんかやらしいです」
「深読みのしすぎでしょ」
おいしいけれど、甘いとも酸っぱいとも、ひと言ではまとめられない味ばかりだった。これがいわゆる「ハーモニー」というものなのか、と食レポの難しさを思う。
「フォアグラって、いかにもフレンチって感じしますね」
“バロティーヌ”なるものが何なのかわからず、また、どの部分がフォアグラなのかもわからないままに、さらなる初体験を重ねる。
「でもこのフォアグラ、県内産らしいよ」
「え! フォアグラなのに?」
「この店、なるべく地元食材使ってるらしくて、入口のところに産地と生産者が書いてる。俺もヨーロッパの風を感じながらフォアグラ食べて、隣町の出身だって知ったときはおどろいたなあ」
黒トリュフ入りコロッケ、鮑のリゾット、白身魚のバブール、仔羊のキャレ。わたしには不釣り合いだと感じるそれらの料理を、彼は定食を食べているかのような自然体で平らげていく。
「よく来るんですか? ここ」
「いや、めったに」
「彼女さんと来ました?」
「一回来たかな。彼女の方はときどき友達とランチに来てるみたいだけど」
友達とのランチも、わたしなんかはハンバーガーかファミレスだ。彼女もまた、彼と釣り合う“大人”なのだ。
「俺、甘いの好きじゃないから、よかったら食べて」
空になったわたしの皿が奪われ、手つかずのフロマージュムースと交換された。ムースの上のミントジュレが照明にキラキラ光る。
「……太っちゃう」
「非難されるの覚悟で言うと、ちょっとくらい太っても構わないと思うよ」
「変態」
「だから『非難されるの覚悟』って、前置きしたじゃない」
交わされる会話は当たり障りなく、きさくなくせに深入りを許さない。名刺はもらったものの、そこには会社の連絡先しか書いておらず、連絡はすべて、店にやってきた彼と口頭でやり取りした。今日の食事会を、彼は「デート」と言ったけれど、わたしとの間に慎重に線を引く。そこには、彼女への気づかいがたしかに感じられた。
いくつか年を取ったくらいでは変わらない距離が、ワインの酸味を強くする。本当は飲み慣れないワインは、なかなか喉を通らなかった。
「じゃあ、本当に気をつけて」
手をふりながら彼は帰って行った。
家まで送ると言われたけれど、待ち合わせた場所に自転車を置いていたので断った。明日も学校がある。
脚に力をこめるたび、ジィー、ジィーとライトの音がする。少しふらつくのは、飲酒運転のせいかもしれない。夜八時はまだ人通りも多く、通りすぎた書店にも、煌々と明かりがついている。
食事だけして、危うい雰囲気も出さず、こんな時間にあっさり帰す彼は、はじめて会ったときから、不思議と“信じられる”ひとだった。他の人なら下心を疑うようなシーンでも、彼には何の他意もないとわかる。お日さまと風をいっぱいに受けた、洗いざらしのシーツのようなひと。彼の隣では何の不安もなく、心地よく眠れるに違いない。その場所は、いつも満席だけど。
最初から、彼の視界にわたしは入っていなかった。
橋に差しかかり、川からの風に煽られてよろめいた。水と草の香りがする。
「失恋」とラベルを貼るのもおこがましい、ちいさなちいさな火が、胸にある。風に吹かれて消えればいいと、ペダルをつよく踏み込んだ。
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