十月 歩くには少し遠く、車では近すぎる

 碧の勤める会社は、国道からだいぶ離れたところにある。バスは通っているけれど本数は少なく、碧の自宅からだと、駅前で一度乗り換えなければならない。そこで、職場からコンビニと食品会社のビルを挟んだところにある月極駐車場を契約して、自動車通勤をしていた。

 日暮れが早くなり、十八時半を過ぎると、あたりはすっかり暗い。駐車場よりさらにひとブロック先のコーヒーショップから、ややオレンジがかった灯りが、通りにこぼれ落ちている。

 駐車場を素通りして、碧がそちらに向かっていると、背後で自転車のブレーキ音がした。


「椎野さん、お疲れさまです!」

「お疲れさま」

「駐車場過ぎましたけど、これからどこか行くんですか?」


 今年入社したばかりの中井は、悪意という文字を知らずに育ったような人当たりのよい男だが、悪意なく他人のプライベートに入り込む悪癖がある。


「ちょっと、コーヒーでも飲もうかと思って」


 店の前に着いたので、誤魔化すこともできずに答えると、中井は自転車を店の駐輪スペースに停めた。


「俺も行きます」


 中井がプライベートでコーヒーショップに入るのを、拒否する正当な理由は思いつかず、揃ってドアをくぐる。


「いらっしゃいませー」


 入ってすぐ、カウンターのスタッフを確認した碧は、心の中だけで肩を落とした。そこにいたのは“彼女”ではなく、きびきびと働く女性のネームプレートには、『店長』という肩書きがついている。


「店内でお召し上がりでしょうか?」

「はい。ブレンドコーヒーのMサイズをひとつ……」


 碧が自分の注文を済ませると、中井は頭上にあるメニューを見ながら、


「あと、キャラメル・ラテのMサイズください」


 と当たり前のように注文した。


「かしこまりました。ブレンドコーヒーのMサイズをおひとつと、キャラメル・ラテのMサイズをおひとつですね。……ミディアム・ブレンドひとつ、ミディアム・キャラメルひとつお願いします」


 電子決裁のために碧は携帯を取り出したのだが、


「今日は俺が払います!」


 中井が携帯電話を押しつけてきた。


「いや、そういうのいいから」

「いつもご馳走になってばかりなので」

「別にいいって」

「たまには俺にも甘えてください!」

「……じゃあ、ご馳走になります」

「はい! ありがとうございます!」


 やり取りを聞いていた店長も笑って、中井の電話で電子決裁の操作をした。


「頼もしいですね」

「……はい。ありがたいことに」


 苦笑する碧の隣で、中井は誇らしげにトレイを受け取った。


「椎野さん、食事は別で食べるんですか?」


 中井はキャラメルの泡をスプーンですくって、プリンのように食べる。むせかえるような甘い香りに碧は顔をしかめ、少し後ろをに距離を取った。


「ここはサンドイッチしかないから、家で何か作るよ」

「自炊してるんですね」

「買って食べるのと、半々ってところかな」


 コーヒーを作ってくれるスタッフも、“彼女”ではなかった。その姿を見なくなり、もうひと月以上になる。


「おはようございます。カウンター代わります」

「お願いします」


 そんなやり取りが聞こえて、碧はカウンターを見た。バックヤードに下がる店長と入れ替わって、女の子がカウンターに入る。その顔を確認して、碧はふたたびコーヒーに視線をもどした。


「一緒にご飯食べてくれるひと、早くできるといいですね」


 中井はかさぶたを剥ぐような、痛みを堪える表情で言った。無神経に踏み込む言葉も、中井の場合は純粋なやさしさゆえである。春に長年付き合った彼女にフラれたとき、碧以上に悲しんでくれたのも中井だった。


「そうだね」

「俺、何でも協力するんで、何かあったら言ってください」

「何かあればね」


 “彼女”とはじめて会ったとき、碧は中井くらいの年齢だった。入社して二年目。社会人としては子ども同然だったけれど、高校生の“彼女”はずいぶん幼く思えた。あれから数年経って、年齢差は変わっていないのに、距離感は全然違って感じられる。


「参考までに、好みのタイプを教えてください」

「好みって言われてもなあ」


 碧の頭に浮かんだのは、とりたてた特徴のない女の子だった。その辺によくいる、かわいい女子大生のひとり。「雨だね」と言うと「梅雨ですからね」と言う。「暑いね」と言うと「夏ですからね」と答える、コーヒーショップの女の子。


「あの、すみません」


 中井はカウンターに向かい、そこに立つスタッフに笑顔で声をかけた。


「はい」

「連絡先おしえてください」


 これほど唐突でストレートな口説き文句を、碧は聞いたことがない。唖然とする女の子と碧をよそに、中井は変わらない笑顔で返答を待つ。


「申し訳ありません。個人情報は、ちょっと……」

「わかりました。お時間取らせてすみません。ありがとうございました」


 女の子に深く頭を下げたあと、カウンターから小走りで戻り、中井は今度、碧に向かって頭を下げる。


「すみません! お力になれませんでした!」

「はあ!? 俺!?」

「椎野さん、さっきからあの子のことずっと見てたので」

「……見てた、かなあ?」

「彼女を作るには、まず連絡先を聞いてデートすることです」

「それはそうかもしれないけど、あんないきなり……」

「聞くだけタダですから。失うものは何もありません!」


 失うものは何もないかもしれないが、社会人として身につけるものはいろいろありそうだ。

 碧は姿勢を正し、先輩然とした態度で中井と向き合う。


「気持ちはありがたいし、中井くんはそれでいいかもしれない。でも、突然連絡先を聞かれたひとの気持ちも考えたほうがいいよ。怖いって感じるひともいるんだから」

「わかりました。すみません」

「それに、こういうことは自分でやらないと意味がない」

「差し出がましいことをして、重ね重ねすみませんでした」


 しょぼんと肩を落とした後輩に、碧が罪悪感を覚えたとき、突然中井が腕時計を見ながら立ち上がった。


「忘れてた! 日本シリーズ!」


 わずかに残ったキャラメル・ラテを一気に飲んで、バタバタと帰り支度をする。


「すみません! お先に失礼します!」

「ああ、うん。気をつけて」


 店を飛び出した中井は、街を自転車で駆け抜けていく。窓の外を通るとき、笑顔で手をふるので、碧もちいさく手をふり返した。

 碧に日本シリーズを観戦する予定はないけれど、コーヒーもなくなったので、カップを返却口にもどす。


「ごちそうさまでした」

「ありがとうございました」


 返却口の向こうで、洗い物を下げているスタッフが、笑顔で空のカップを受け取った。


「あの、すみません」

「はい?」

「北浦さんはお休みですか? ここしばらく、見かけないので……」


 ずっと気になっていることなら「聞くだけタダ」であり、「失うものは」最悪でもコーヒーショップ一軒、利用しにくくなる程度である。


「椿沙ちゃんですか?」


 スタッフの女の子は少し眉を下げた。


「すみません。答えにくいことであれば、結構ですので」

「いえ。椿沙ちゃんのお知り合いですよね? 覚えてます」


 彼女はにっこり笑って、本来なら教えないであろう個人情報を漏らした。


「椿沙ちゃん、八月いっぱいでお店辞めたんです」

「……え、そうでしたか」

「はい。卒論が忙しくなるからって」

「お忙しいところすみません。ありがとうございました」

「いえいえー」


 風に押されるガラス扉を、体当たりするように開けたら、その風に顔を叩かれた。コーヒーであったまったはずの身体も、すぐに冷えてしまいそうだ。これからもっと寒くなれば、この短い往復はより辛くなるだろう。

 仕事終わりに、コーヒーを飲む習慣があるわけではない。コーヒーは好きだが、特にこだわりはない。職場の中にある自動販売機か、隣のコンビニで十分だ。この店は歩くと五分以上かかるし、かと言って車でひとブロック移動するのも面倒くさい。だから本来、なかなか足が向かない店だった。


「ほんとに、寒くなったなあ」


 たった三十分で、夜はいっそう深まり、桔梗いろの空に欠けた月が浮かんでいた。風が落ち葉を運ぶついでに、碧の首筋から体温も奪っていく。

 「寒いね」と言ったら、「冬ですからね」と答える声は、もう聞けないらしい。それなら碧がここに来る理由は、ないのかもしれない。



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