九月 共鳴
ペンネの皿にタバスコをふり足していると、
「辛いの好きなの?」
と
「はい。すきです」
さっとかき混ぜてから、辛さの増したトマトソースをペンネに絡める。
「俺は苦手だな」
「そうですか」
「女の子って、辛いの好きな子多いよね」
「そうなんですか? わかりません」
何の話題につながるのかと、本題に入るのを待ったけれど、溝口さんはペペロンチーノに入っていたタコを噛むのに忙しそうだった。そこでわたしもペンネを口に入れたのだが、そのタイミングで、
「
と斬り込まれた。間が悪い。手で口を覆って、首を横にふったあと、
「いません」
とちいさく答える。
「そりゃそうだよね。彼氏がいたら、デートに誘っても断るよね」
これはデートだったのかと、本格的に後悔をしたところで、とりあえずこの皿を空にしないと帰れない。
終業まで一時間に迫ったころ、「北浦さん、この後予定ある?」と先輩である溝口さんに訊かれた。
「いえ、大丈夫です」
答えた直後に「あ、先に用件を聞けばよかった」と、一度目の後悔は済ませている。時間的に、残業の打診だと思い込んで返事をしてしまったのだ。
「じゃあ、仕事終わったら食事行こう」
仕事ではないとわかっても、だからと言ってすぐ突っぱねるわけにもいかない。誘い文句もごくさらっとしたものだったので、深い意味のない食事会か、時間外のお説教だろうと思い直した。他意のないコミュニケーションだったら、変に意識するほうが恥ずかしい。最初からデートだとわかっていれば、彼氏がいなくとも断ったのに。
「仕事はどう?」
「あ、はい。少しずつ慣れてきました」
「悩みとかない?」
「大丈夫です。山下さんが助けてくださってるので」
「そうなんだ」
「はい」
お互いパスタを口に含むと、当たり前だけど沈黙が降りる。何か話したほうがいいのかと気になり、けれど何も思いつかなくて、結局だまって食事をつづけた。自分の中のやり取りだけで消耗して、食欲もなくなっていく。
どんな反応を返しても、椎野さんが相手だと会話に困ったことがない。参考にしようにも、いつも中身のない話題ばかりだったせいか、思い出せなかった。
「北浦さん、もしかして怒ってる?」
食後のコーヒーを飲んでいたとき、思い切ったように溝口さんが訊いてきた。
「いいえ! まさか、まさか! 全然そんなことないです!」
「そうなの?」
「はい」
「それなら、いいんだけど」
手さぐりの会話は、ひとを疲弊させる。溝口さんも疲れた顔をしていた。店の前で一応「送るよ」と言われたけれど、断ったら食い下がられることはなかった。
時刻はまだ八時半を過ぎたばかり。残業よりも早いくらいの時間なのに、残業するよりも疲れていた。頭がうまく回らない。少しだけ飲んだワインも影響しているのかもしれない。
回らない頭で、通話ボタンをタップする。
『もしもし?』
「こんばんは。椎野さん、今大丈夫ですか?」
『大丈夫だよ』
「どちらにいます?」
『まだ職場だけど、そろそろ帰るところ』
「そうですか」
わたしが黙ると、椎野さんも黙った。彼とだって、会話が途切れることもある。それでも気詰まりでないのは、なぜなのだろう。他のひとと、何が違うのだろう。
『俺に会いたい?』
にやけた声で椎野さんは言った。「別に会いたくないです」と答えても、きっと笑って流すのだろう。
「会いたいです」
電話の向こうで、ほほえみの気配が消えた。
「会いたいです」
『……どこにいるの?』
「実は、椎野さんの車の前にいます」
走ってきた椎野さんに「早かったですね」と言ったら、
「いや、だって、あんまり素直だから、このひと死ぬんじゃないかと思って」
と、真顔で失礼なことを言いやがった。
「健康診断の結果は良好です」
「身体じゃなくて、メンタルのほう」
「それは自信ありません」
「いや、元気そうでよかった。とりあえず乗って」
しずかに走り出した車は、しかしわたしの家とは違う道をたどっていく。
「どこに行くんですか?」
「どこだろう。特に決めてない」
めずらしく真剣な面持ちで、椎野さんは車を走らせた。タイヤがアスファルトを擦る音だけが、車内に流れている。
「もしかして酔ってる?」
「はい」
「どうりで」
「でもワインをグラスに半分程度ですよ」
赤信号で停まり、椎野さんはじっと信号機を見ていた。そして青に変わって、走り出すと同時に口を開く。
「立ち入ったことを訊くけど」
「はい」
「誰かと食事だった?」
「はい」
「男のひと?」
「はい」
「……何か、された?」
「いいえ。何も」
椎野さんの身体から、力が抜けたのがわかった。
「何もないです。会話もつづかなかったし、とにかく早く帰りたかった」
窓ガラスに頭をあずけると、ひんやりとして気持ちいい。
「君はそういうの、顔に出るからね」
「ずっと笑顔で話を聞いてましたよ」
「君の笑顔は嘘くさい」
「失礼ですね。がんばったのに」
「『つまらない』『帰りたい』って空気出してるから、会話つづかないんだよ」
車は大きな公園の駐車場に停まった。自動販売機の灯りと、小さな街灯がひとつだけで、虫の声ばかりが騒がしい。その自動販売機で椎野さんは烏龍茶を買ってくれた。少し乾いていた身体が潤って、幾分話しやすくなる。
「椎野さんから見て、わたしはつまらなそうに見えないんですか?」
ブラックコーヒーを飲んでいた椎野さんは、ひとつうなずいて「見えないよ」という。
「俺は北浦さんといるとたのしいし、もっと一緒にいたいと思う。そういうのって響き合うものでしょ?」
「そうかもしれません」
「恋人でも友達でも、似たような音叉もってるひとに惹かれるんだよ、きっと。それで近ければ近いほど、よく響くんだと思う」
椎野さんの声に、虫の声が重なって聞こえる。それは暗闇ぜんぶを、やさしくまるくするようだった。
「わたし、今日の食事がデートだと思わなくて」
「君って結構迂闊だからなあ。フレンチに釣られて、よく知りもしない男にホイホイついて行くし」
「よく知りもしない女にたかられる、男のほうがよっぽど迂闊です」
その迂闊な男の笑い声は、コーヒーの缶の中で反響した。
「『付き合ってるひとはいるか?』って訊かれて、『いません』って答えました」
「そう」
「次からは、『います』って答えていいですか?」
椎野さんはコーヒーをドリンクホルダーに戻した。
「いいけど、その相手は俺じゃなきゃいやだ」
「椎野さんがいいです」
「……君って、発作的に素直になるよね」
「酔ってるので」
「ワインをグラスに半分程度でしょ?」
ふっと椎野さんの鼻から笑い声が漏れた。
「それにしても、よくワイン頼むよね。きらいなくせに」
「飲めるようになりたくて」
「どうして?」
「なんか“大人”って感じがするから」
「人生の先輩として教えてあげるけど、ワイン飲んでも大人にはなれないよ。それから不本意ながら男性と食事するとき、酒を飲むのはやめなさい」
わたしは鬱蒼とする木々の方に、つんと顔を向ける。
「口煩いな」
「それなりに腹が立ってるからね。俺がささやかなドライブで我慢してるのに、軽々しくデートに誘われるなんて許せない」
「我慢してるんですね」
「そりゃあね。でも俺は自制心の塊だから」
椎野さんの体温は、怒りで上がっていくようだった。それが感じられるのは、あきらかに距離が近いせいだ。暗がりの中でも、椎野さんの大きな黒目は闇にまぎれることがない。
しかし後頭部に手が回ったところで、わたしは大事なことを思い出して、椎野さんを押し返す。
「すみません! わたしさっきパスタを食べて。その……ニンニクとお酒が……」
バッグで顔をガードして叫ぶと、椎野さんの気配が遠ざかった。
「迂闊なくせに、なんだか難しいひとなんだよなあ」
「これは単にエチケットの問題です」
「……わかったよ。そろそろ帰ろうか。車動かすから、ちゃんと座って」
シートに座り直し、シートベルトの位置を直したとき、
「椿沙」
と、名前を呼ばれた。ふり向くと同時に、一瞬だけ触れた唇からは、コーヒーの味がした。羞恥がよろこびを上回り、車内でできる限り距離を取って、バッグで顔の前にバリケードを作る。
「何してるんですか!」
「何って、聞かなくたってわかるでしょ」
引っ張られるバッグを必死に掴んで抵抗する。
「自制心の塊は!?」
「意外と脆いみたいだね」
「今しても、不快なだけですって!」
「甘い味よりはニンニクのほうがいい」
「いや! 無理!」
「そんなにいやがらなくても。……傷つくな」
バリケードから、椎野さんの手が力なく離れた。
「……また今度にしてください」
「今度っていつ?」
「……今週の日曜日」
「土曜日は?」
「金曜日の夜に友達と会う約束してて……中華を食べに行くので、すぐ次の日はちょっと……」
椎野さんはむすっとしたまま、指を折って数える。
「ダメ。三日は長い」
そう言い切ると、ポケットからミントタブレットを取り出して、わたしの膝に乗せた。
「……ですよね」
匂いが気になり、ため息をつくのさえためらわれるので、タブレットを歯の間という間に詰め込むつもりで噛み砕いた。それからシートベルトをはずし、椎野さんと向き合う。
「……いったい何個食べたの?」
辛くて涙目になっているわたしに、椎野さんは呆れ顔で訊いた。
「入ってた分ぜんぶです」
肩を震わせながら、椎野さんはわたしを引き寄せた。
混じり合うことも消えることもなく、わたしたちのキスは、ニンニクとワインとコーヒーとミントタブレットと涙の味がした。
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