二月 恋だった
彼女はただ、恋をしただけだった。
早く早く、ポテトが冷めちゃう……
駆け出したい気持ちを抑えて、彼女は慎重に脚を運ぶ。転んだらすべて終わりだ。
立春のころは一年でもいちばん冷える。「これからあたたかくなるということは、今がいちばん寒いということです」と、先日担任も言っていた。車や人の足で踏み固められた雪の上に、あたらしい雪が降り積もって、足元をさらに不安定にしている。凹凸のわかりにくい雪道は、まるで地雷原を歩いているかのように油断ならない。
雪が積もる前は歩いて十五分、自転車ならその半分だった道のりが、今は歩いても歩いても終わりが見えなかった。
「ぅわっ!」
コブのように硬い部分を踏んで、彼女はとうとうバランスを崩した。とっさに踏ん張って倒れることは防いだものの、したたかに膝を打ちつける。制服とソックスの間は生足で、雪の冷たさと痛みが同時に膝をさいなんだ。
「……ドリンク!!」
赤くなった膝よりも、彼女は手に持っていた袋の中身を心配した。一度大きくかしいだけれど、しっかりと蓋をされたドリンクはこぼれておらず、ハンバーガーもポテトも無事だった。ほっと息をついて、彼女はふたたび慎重に歩き出す。
同時にポケットで携帯が鳴り、足元への注意は払ったまま通話をタップした。
『おせーよ !何分かかってんだよ!』
途端に聞こえてきた怒声に、胃のあたりが跳ねるように痛む。
「……ごめん」
『『ごめん』じゃねぇ! 早くしろよ!』
「あと、五分で着くから」
言い終わる前に通話は切れた。夏でも十分かかる距離を、この雪道で五分で着くはずがない。けれど、どうせ五分で着いたところで、怒鳴られることに変わりはない。そう思っても、可能な限り歩調を早めた。
彼女が恋した男は、ふたつ年上で、ちいさなデザイン会社で働いていると言った。スラリと背が高く、風に舞う茶いろの髪がうつくしかった。彼女の話に、目尻を下げて笑う。それだけで夢中になった。家に誘われたときは、断るなど考えもしなかった。
はじめてできた彼氏を友達もよろこんでくれた。今までついて行けなかった恋愛の話題にも加われたし、服を選ぶのも楽しくなった。しかし、「今度紹介するね」という約束は、半年経っても果たせていない。
『は? 付き合ってねぇよ』
彼の家に通うようになってひと月したころ、はっきりとそう言われた。
『わたしたち、付き合って一ヶ月だよね。記念にどこかデートしようよ』
家に呼び出されるだけの毎日に、少し唇を尖らせて抗議した。出不精の彼は、デートを拒否するかもしれないとは思ったが、その返答は想像もしていなかった。
『……付き合って、ないの?』
『「付き合う」って言ってねぇじゃん』
『言ってないけど……』
それならいったいどういう理由で、毎日のように抱いているのか。はじめての痛みさえ、愛だと思って耐えた意味が、根底から崩れていくようだった。
『付き合ってねぇけど、お前は俺の女だろ』
“俺の女”が何をするものなのか、彼女は知らなかった。言われるままに家に通い、ハンバーガーや牛丼やマンガを届け、身体で奉仕した。
早く、早く、早く、早く……
なんのために急いでいるのか、彼女自身もわからない。よろこぶ顔が見たいなどという、甘やかな気持ちではなかった。
「おせーって! 走ってこいよ!」
十五分後についた彼女を、男は当然のように怒鳴って、ハンバーガーショップのビニール袋を奪い取った。そのままドアを閉められることもあるが、今日は何も言わず部屋に戻るので、彼女もそのあとについて部屋に上がる。氷点下を歩いてきたはずの身体は少し汗ばんでいて、暖房の効いた部屋は暑く感じられた。
「ほら、おせーからポテト冷めてる。ポテトは揚げたてがうまいのによ」
男はパソコン画面から目をはなさずに文句を言う。それを聞き流しながら、雑誌とスナックの空袋を寄せて、自分の座るスペースを作った。
寄せた雑誌の下から、避妊具の空袋が出てきたが、ここ数日は呼ばれていないから、別の誰かと使ったものだろう。隠す気づかいを望むことさえ、贅沢だった。ため息を噛み殺して、他のゴミと一緒にゴミ箱に捨てる。
どんなに態度が悪くても、不誠実でも、この人は殴ったりしないし、避妊もしてくれる。だからマシなほうだ。世の中には、もっと悲惨な人もたくさんいるのだから。
彼女は考えることをやめた。どんなに弄ばれようと、男が言うように「減るもんじゃない」。身体を重ねてしまえば、一回でも百回でも同じ。
痛いだけの行為に、今日も奥歯を食いしばってこらえる。制服が皺になるのはいやだったけれど、男は決して脱がしてはくれなかった。
減るもんじゃない、減るもんじゃない……
ひと筋流れ落ちた涙は、ただ肉体の痛みによるものだ。鈍化した心の痛みはすでにわからなくなり、涙を形づくることはない。いずれにせよ、男は彼女の反応など見ていない。男の目に映るのは彼女ではなく、制服なのだから。
そっと顔の角度を変えて、シーツに涙を吸い取らせた。減るもんじゃないのに、彼女は自分が燃えカスになるのを感じていた。そして、このうす汚れたシーツの、シミのひとつになっていく錯覚に陥る。
ふっと浮かんだそれを、また奥へと押しやった。考えることも、何かを望むことも、つらくなるだけだ。
窓が大きくガタリと泣いた。抗議するように、雪が窓ガラスに張りついていく。いつの間にか吹雪になっていたらしい。
痛む身体を引きずり、彼女は吹雪の中へと歩き出す。高級チョコレートの包みは、玄関先に置いてきた。見送りになど出ない男がそれに気づくのは、今日ではないだろう。
『市役所前』のひとつ手前にあるバス停は、普段から乗り降りするひとが少なく、誰もいなかった。雨風を防ぐ屋根と壁はあるものの、近所のおじさんが手作りしたような安っぽい造りで、古い波形のポリカーボネート板はひび割れている。
ふたつあるベンチの片方に座ると、ポケットの中で携帯が震えた。
『コーラ買ってきて』
雪で湿った脚に力を入れ、彼女はまた吹雪の中へと歩き出す。
恋をしただけだった。彼女以外、誰もそれを恋と認めなくても。
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