十二月 ゆびきりげんまん
そのバス停は『市役所前』のひとつ手前にあって、ほとんど人の乗り降りがなかった。
びしゃびしゃと音を立てながら、彼女はそのバス停を目指す。中途半端に積もった雪は溶けかけて、コーヒー味のかき氷を踏みしだいているようだった。誰かの靴跡と自転車のタイヤ痕が、彼女の足によって崩されていく。先週防水スプレーを施したばかりのショートブーツも、この泥雪には勝てず、靴の中はつめたく湿っていた。
バス停にたどり着き、彼女はほっと息をついて傘を畳む。コートを着こんでいても、校則より少し短めにした制服のスカートとソックスの間は素足。身体は小刻みに震えていた。
バス停は、雨風を防ぐ屋根と壁はあるものの、近所のおじさんが手作りしたような安っぽい造りで、古い波形のポリカーボネート板はひび割れている。
時刻表を確認すると、彼女の乗るバスは先ほど出たばかりで、次のバスは十五分ほど後だった。この程度の雪なら遅れることはないだろうが、十二月の寒さは身に堪える。
ふたつあるベンチの片方は、風向きのせいなのか雪で濡れていて、もうひとつにはめずはしく、スーツ姿の若い男性がひとり座っていた。彼女はベンチに座ることを諦めたが、男性は場所を空けるように端に寄った。
「いてっ!」
トスンとベンチを移動するのと同時に、男性が声を上げた。右手を眺めながら左手でポケットをまさぐって、ティッシュを取り出す。あてたティッシュは、じわじわと赤くなっていった。
「……大丈夫ですか?」
本当に心配しているわけではないが、礼儀として声をかけた。
「あ、はい。大丈夫です。飛び出してた釘に引っかけちゃったけど、かすり傷なので」
「すみません」
「あー、いえいえ」
ケガまでさせてしまった手前、座らないのは悪いので、彼女は男性が譲ってくれたスペースに腰をおろした。座面は少し湿っていたが、制服は元から皺と汚れだらけなので、気にしなかった。
冷えて少し赤くなった指先をコートのポケットに突っ込むと、手に携帯電話ともうひとつ何かが当たる。それを引っ張り出し、しばし逡巡したあと、彼女はそれを男性に差し出した。
「よかったら、どうぞ」
手にティッシュをあてたまま男性は視線を向け、あいまいな表情でためらう。
「すみません。これしかなくて。コンビニで絆創膏買うまでのつなぎに……」
言いながらすでに後悔していた。二十代の社会人男性が魔法少女の絆創膏など、血を流しているより恥ずかしいかもしれない。四歳の姪っ子が宝物を分けてくれたのだが、彼女でさえ使いにくくて、ポケットに入れたままになっていたものだった。いくぶんよれて、少し折れてもいる。
いまさら引っ込めることもできず、気持ちを重くしている彼女の手から、その絆創膏が引き抜かれた。
「ありがとうございます」
男性はふっと笑って「かわいいですね」と言う。傷は思ったより深いのか、ティッシュをはずすとまだ血があふれてくる。左手一本で四苦八苦する彼の手から、彼女は魔法少女をさらった。
「わたしが貼ります」
「すみません。お願いします」
笑顔の魔法少女はすぐ真っ赤に染まったものの、外に血が漏れ出ることは防いでくれた。
「似合いますか?」
「似合いません」
男性は笑って、血のついたティッシュをポケットにしまう。
「これ何ていうキャラクターなんですか?」
「わたしも名前までは……。姪っ子からもらったので」
「ああ、どうりで」
彼の声や態度からは、さっぱりと洗いあがったリネンのような、お日さまと風の気配がした。後ろめたいところのない、健全な存在感。その目を見ていられず、彼女はそっと顔を伏せた。
風が強くなり、貧弱な壁が悲鳴をあげる。割れ目から入った雪は、地面に降りると同時に泥に飲み込まれていく。
「……はい、もしもし」
風の音に混ざって、ブゥーン、ブゥーンというバイブ音がしたかと思うと、男性が電話に出た。
「今はまだ出先。一回職場にもどってから、今日はもう帰るよ」
電話の向こうから女性の声がしたような気がして、彼女はベンチを立った。道路の先に目を凝らすと、雪の向こうにバスのライトが小さく見える。けれど、時間から考えて彼女の乗るバスではないだろう。
「……外にいる。風強くてよく聞こえない」
ポケットの中で、彼女は電話を握りしめる。肌身離さず持っているそれは、犬につける鎖と同じようなもので、あんなに気軽には使えない。
「うん、大丈夫。ありがとう。またあとで」
電話を切りながら、男性は彼女の隣に並んだ。バスはひとつ前の信号で停まっている。
「奥さんですか?」
立ち入ったことを聞いてしまったと、彼女は二度目の後悔をした。しかし男性は「いや、彼女」とさらりと答える。当たり前に存在するものを当たり前に認める、自然な声だった。
「だったら、忙しい季節ですね」
通りの向かいにある銀行には、大きなツリーのイルミネーションが施されていた。彼女の視線をたどってそれを見た男性は、「ああ、そうですね」と言う。
「でも、もう付き合い長いから、たいそうなことはしないです」
この人にとって、それは特別でも何でもないことなのだ。『彼女』だと公言すること、したい時に電話できること、一緒のクリスマスをくり返し迎えること。ただ消耗されるだけの彼女にとって、それらはどんなに欲しても手の届かないものなのに。
信号が青になり、男性は乗り口の方へ移動する。
「いつかまた会うことがあったら、そのときこのお礼します」
ピンクいろの髪の少女が、彼の右手で笑っていた。彼女はこくんとうなずく。
「いいですね。その無責任な約束」
「『無責任』って……」
男性は渋い顔になった。
「いま俺が女子高生に連絡先訊いたら、何かの法律に抵触しそうだし……」
「だから別にいいんです、お礼なんて」
「うーーーん」
男性は胸ポケットから名刺を取り出して、番号を書き加えた。
「イタズラには使わないでよ」
バスが到着して、男性がその行き先表示を一瞥する。そして急かすように名刺を強く突き出した。
「いりません」
彼女は両手を背中に回して一歩後ろにさがる。
「『いつか会えたら』のほうがいい」
バスのドアが開いたので、男性は名刺を引っ込めて乗り込んだ。
「じゃあ。いつかまた」
ドアの閉まるプシューッという音に掻き消されながらも、その言葉は彼女に届いていた。窓の向こうで、男性は笑顔で手をふる。泥水を跳ね上げながらバスは遠ざかっていき、すぐに交差点を曲がって見えなくなった。
急に寒々としたバス停で、彼女はふたたびベンチに座る。すると、ポケットで電話が二回震えた。
『腹減った。牛丼買ってきて。大盛り』
いつもならすぐに駆け出す脚が動かなかった。急がないと催促のメッセージがくる。走って届けても、遅いと怒鳴られる。わかっているのに動けなかった。
雪は量を増し、地面に降りても溶けなくなった。泥にまみれた道が、白く塗り変わっていく。
バスがやってきて、彼女は乗り込んだ。あたたかい空気に身体から力が抜ける。
電話がまた震え出す。今度はなかなか止まらない。返信しないから、焦れて電話してきたのだろう。
ポケットから取り出して、その着信を切った。そのまま番号を拒否に設定し、メッセージのほうもブロックすると、またポケットにしまう。
曇った窓ガラスの向こうには、とりどりのイルミネーションがぼんやりと見えた。
end.
時系列順
二月→十二月→四月→五月→八月→十月→三月→六月→九月→七月→十一月→一月
めぐる月日のとおまわり 木下瞳子 @kinoshita-to
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