第6話 その殻が割れてしまったのかもしれない。

 自転車をこぎながら、

 僕は支倉さんと最後に会った日のことを――

 彼女との別れを思い出していた。


「それじゃあ」

 マンションの前に停まった車の前で、支倉さんはそっけなくそう言った。

 僕よりも十センチほど背が高い女の子は、クールな表情で僕を見つめていた。感情を表に出さず、考えていることを相手に悟らせない独特の表情。学校でいつも浮かべているよそ行きの顔。

 僕は、その顔があまり好きじゃなかった。

 車の周りには支倉さんの両親と、僕の母親がいて、親同士の会話をしている。だから、支倉さんもよそ行きの顔を崩したりはしなかった。

 

 僕は、支倉さんと二人きりになりたかった。

 そうすれば、もう少し穏やかな顔をしてくれたと思うし、僕たちはもっと色々な言葉を交わすことができると思った。

 もっと言いたいことを、

 伝えたいことを、

 伝えなきゃいけないことを、言葉にできた。

 だけど、

 僕にその勇気はなかった。

「うん。またね」

 僕の口から出た言葉は――

 そんなつまらない、

 そんなそっけない、

 そんな味気ない言葉だった。

 僕の言葉を聞いた支倉さんは、とてもつまらなそうに目を細めて、小さく頷いただけ。

 それ以上何も言わずに、車の中に引っ込んでしまった。

 青色のパーカーと細いジーンズ。

 肩先で綺麗に揃えた髪の毛。

 つまらなそうな顔。

 どこか悲しそうな背中。

 それが、僕の記憶に残っている最後の支倉さん。

 支倉さんを乗せた黒いレクサスが僕の前から去っていき、僕の世界から彼女を奪い去ってしまうと――それで、僕たち関係は終わってしまった。


 それ以来、僕たちは会っていない。

 今日まで連絡も交わさなかった。

 僕は支倉さんのことを毎日のように考えていたけれど、連絡を取ったりはしなかった。

 思い出として胸の奥に大切にしまっておくだけで、その思い出に手を伸ばしたりはしなかった。それは、アルバムの中の写真をただ眺めるような行為だったと思う。過去をただ見つめるだけの、何の意味もない行為。


 支倉さんが引っ越してしばらくした頃、お母さんが僕に教えてくれた。

「アリサちゃんのことなんだけれどね――」

 お母さんは、神妙な面持ちで話をはじめた。

 アリサちゃんというのは支倉さんのことで、彼女の本名は支倉アリサ。

 アリサという名前を、支倉さん自身は好き好んではいなかった。


「アリサって名前、女の子らし過ぎて私には合ってないと思う。それにカタカナの名前は今時っていうか、流行りっぽくて嫌い。なんだか、私の名前って感じが全然しないし、間違っている気がする」

 以前、そんなことを言っていた。


「――アリサちゃんね、学校に行っていないみたいなの」

 その話に、僕はとても驚いた。

「学校に行っていないってどういうこと?」

「新しい学校にうまく馴染めなかったみたい。それで今は、自宅で勉強をしているらしいの」

 お母さんは短くそう言って、僕の反応を伺った。

 僕は、とても混乱した。

 支倉さんは確かにクラスメイトと距離をとっていたけれど、それでも不仲というわけではなく、嫌われているわけでもなかった。

 少なくとも、僕の目にはそう見えてみた。

 僕は支倉さんのことを、とても強い女の子だと思っていた。

 少なくとも、彼女はそう振舞っていた。

 支倉さんは常にクールな表情を浮かべ、感情をあまり表に出さないことで、他者から自分を守っていた。自分の深いところに他人が踏み込んでくることを防いでいた。誰にも自分を明け渡したりはしなかった。

 それは、概ねうまくいっているように思えた。

 彼女は常に適切な距離をもって他者と接していた。

 僕は支倉さんの一番近いところにいたけれど、それでも彼女との距離を常に感じていた。支倉さんの中には、彼女が決めたソーシャルディスタンスが存在した。その内側に他者を入れないことで、彼女は自分を適切に保っていたんだと思う。

 

 そんな支倉さんのことを、僕はとても危うい女の子だと思っていた。

 柔らかい卵のような女の子だと思っていたんだ。

 硬い殻の中に、とても柔らで無防備なものが詰まっていると。

 だから、僕はいつもその殻が割れてしまうことを恐れていた。

 もしかしたら、新しい学校でその殻が割れてしまったのかもしれない。

 そう考えると、僕はとても悲しい気持ちになった。


「アリサちゃんって、少し気難しいところがあったでしょう? 自分から輪の中に入ろうとしないっていうか、心を開かないというか――それで新しい学校でも浮いていたみたいで、嫌がらせのようなことがあって、それで不登校になってしまったの」

 その言葉に、僕は怒りのようなものを感じた。

 支倉さんのことを気難しいとか、輪の中に入ろうとしないとか、心を開かないとか――勝手なことを言っていることに、僕は苛立ちと不愉快さを覚えた。

 そんな簡単な決めつけを、支倉さんは一番嫌っていた。

 何かに定義され、

 何かに属させられ、

 何かに押し込められてしまうようなことを、

 彼女は心の底から嫌悪していた。

 それこそが、支倉さんが絶対に踏み込んでほしくないと思っていた柔らかな部分だった。

 自分を簡単に他人に明け渡したりしないこと。

 それこそが、彼女がとても大切にしていることだった。

「そんなことないよ」

 気がつくと、僕は声を荒げていた。

「支倉さんは、気難しくなんてないよ。クラスのみんなが、支倉さんの言葉に耳を傾けてないだけなんだ。輪の中に入ろうとしないんじゃない。入る必要がないから、距離を置いてるだけなんだ。不登校になったのは、支倉さんのせいなんかじゃないよ。嫌がらせをした下らない奴らのせいじゃないか」

 僕は泣きそうになりながらそう言って、自分の部屋に引っ込んだ。

 ベッドに横になって枕に顔をうずめて泣いた。

 感情が高ぶっていて、自分がどうして泣いているのか分からなかった。

 母親に声を荒げて怒ったからなのか、支倉さんに嫌がらせをした奴らに怒りを感じたからなのか、支倉さんのことを思って悲しくなったからなのか、ただ混乱をしているだけなのか――僕には、なにがなんだか分からなかった。

 どうしようもない無力さだけを感じていた。

 何もできない自分が情けなくて悔しかった。

 僕はベッドの中で、卵のように丸くなりながら泣いた。

 

 それ以来、母親と支倉さんの話はしていない。

 僕も、それ以上何も聞かなかった。

 あの時、何もしなかったことを僕は今になって後悔した。

 あの時、僕は支倉さんに会いに行くべきだったんだ。

 彼女に会って、

 話を聞いて、

 一緒に悩んで、

 一緒の時間を過ごすべきだったんだ。

 

 だけど、

 僕はそうしなかった。

 たぶん、怖かったんだと思う。

 何もできない自分を直視するのが。

 支倉さんに拒絶されてしまうかもしれないことが。

 だから僕は何もせず、支倉さんに背を向けて全てを忘れてしまおうとした。

 支倉さんを僕の世界から切り離してしまった。

 僕は、今ようやく気がついた。

 支倉さんが僕の世界から消えてしまったのは、彼女が引っ越してしまったあの日じゃない。僕が目を背けて、全てを忘れてしまおうとしたあの日に――自分自身で、支倉さんを僕の世界から切り離してしまったんだ。

 身勝手に切り捨ててしまった。

 支倉さんを透明にしてしまった。

 僕は、そのことに気がついた。


「そうだ。僕が、自分で切り離したんだ。支倉さんが引っ越したからって、僕たちの関係が終わるわけじゃない。僕の世界から支倉さんが消えたわけでもない。僕が勝手にそう思い込んでいただけなんだ。だから、僕は――支倉さんに会いに行かなくちゃいけないんだ」

 

 僕はサドルからお尻を上げて、立ちこぎになって自転車のペダルを踏んだ。

 もう一時間以上も走っていた。

 疲れは全くなかった。

 それどころか、目的地に近づくにつれて僕の身体は軽くなっていった。

 今なら、どこまでも行けそうな気がした。

 

 この混乱した世界の夜を振り切って、

 どこまでも遠くに行けそうな気がしたんだ。

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