第10話 たとえ世界の終わりを前にしているとしても。
支倉さんの暮らしているマンションは、とても高かった。
見上げると果てしなくて、頂上は夜の闇に溶け込んでいるみたいに見えた。本当に宇宙にまで届きそうな塔に見えてしまうほどに。
このあたり一帯は大きなマンションばかりだったけれど、支倉さんのマンションは別格だった。
この世界の中心みたいに。
僕は、入り口に立ったまましばらく茫然とした。
スマホを取り出して画面を見ると、時刻はすでに十時を過ぎている。なにもかもが予定通りではなかったけれど、僕はなんとかここまで辿り着いたことに安堵した。
帰りのことは考えないことにした。
僕は自分のやるべきことなすべきことだけに集中していた。
支倉さんに会う。
ただそれだけ。
緊張に震える手で、支倉さんにメッセージを送った。
『まだ起きてる?』
返事は、驚くほどの速さで返ってきた。
郵便受けの前で、手紙が来るのをただ待ち続けていたみたいに。
『起きてる』
そのあまりにも簡潔する返事を見て、とても嬉しくなった。支倉さんらしさが、そこには詰まっているような気がしたから。
支倉さんは、ここにいる。
そう思ったら、僕ははやる気持ちを抑えきれなくなった。
すぐさま、新しいメッセージを送る。
『実は今、支倉さんのマンションの前にいるんだけど、少しだけ話せないかな?』
今度の返事は少しだけ遅かった。
『マンションの前にいるってどういうこと?』
『書いたままの意味だよ。支倉さんに会いに来たんだ。今、エントランスの前にいるよ。すごいマンションだね。まるで一流ホテルみたいだ』
『本当にいるの?』
『嘘なんかつかないよ』
『ちょっと待ってて。直ぐに支度して行くから。誰にも見つからないでよ?』
『分かった』
「ふう」と、安堵の息を吐いた瞬間――全身から力が抜けて、その場に座り込んでしまいそうになった。自分がひどく疲れていることに、そこでようやく気がついた。気を抜いてしまったら、この場で眠りについてしまいそうだった。
しっかりしなくちゃと両手で頬を叩く。
メッセージを送ってしばらく経ってから、また返事が返ってきた。
『どこにも行かないでよ?』
僕は少しだけ泣きそうになった。
『どこにも行かないよ。僕は支倉さんに会いに来たんだ』
震える手で、そう送る。
このメッセージがしっかりと届くように、手を伸ばしてスマホを高く掲げた。
すると、ピーという電子音が響く。そのメッセージを最後に、スマホの充電が切れてしまった。画面が真っ暗になって、僕のスマホは借りてきた猫のようにおとなしくなった。
僕は心の中で「ありがとう」と言った。
君のおかげで、僕は支倉さんに会える。
もう少しで支倉さんに会えると思ったら、僕は少しだけ緊張してきた。
彼女に会うのは、本当に久ぶりだ。
支倉さんと離れている間に、僕は何か変わっただろうかって思った。
背は、少しだけしか伸びてない。引っ越してしまう前の支倉さんよりも小さいままだ。勉強もそこそこで、成績もろくに上がってない。運動神経はまぁまぁだけれど、得意なスポーツがあるわけじゃない。特に習い事もしていない。将来の夢もない。
僕は、自分の平凡さにがっかりした。
何も変わっていない僕を見て、支倉さんはガッカリしないだろうかって思った。こんな僕が会いに来て迷惑に思わないだろうかって、そんなことを考えた。
もう少しで支倉さんに会えるというところまできて――
いざその瞬間を前にしてしまうと、僕は自分がとても臆病になっていることに気がついた。
僕はもう一度、自分の頬を叩いた。
今度は、もっと強く。
そして、自分に言い聞かせた。
僕は、支倉さんに会いに来た。
ただそれだけ。
それだけなんだ。
それ以外のことは、今は必要ない。
今夜は、それだけでいいんだ。
「よし」
そう呟いた時――
僕の視線は、真っ直ぐに支倉さんに向かっていった。
自動ドアを開けて僕の前に現れた支倉さんは、僕の記憶のままの支倉さんだった。
髪の毛は少しだけ長くなっていたけれど――そのクールな表情も、高い背も、柔らかい卵のようなところも、ぜんぶ支倉さんだった。
支倉さんは、僕を見て驚いたように瞳を見開く。そして信じられないって顔で僕を見つめたまま、で言葉はうまく出ないみたいだった。
彼女は灰色のスウェットに黄色のトレーナーを着ていて、僕の記憶よりもだいぶラフな格好で、それがなんだかとても可愛らしく見えた。
「そこで止まって」
僕は支倉さんにそう声をかけた。
第一声としてはイマイチだけれど、今はそれが一番大事なこと。
「二メートル以上距離を開けないとダメなんだ。僕が感染していたら、支倉さんにうつるかもしれない。こんな大変な時に、とつぜん会いに来てごめん」
僕が言うと、支倉さんは僕との距離を測るように視線を動かした。
僕たちは二人で、その距離を見つめた。
二メートル以上離れた距離で向かい合った。
マンションのエントランスで。
それは、なんだかとても不思議な光景だった。
僕たちの間には――
二人を隔てる透明な壁がそびえ立っているみたいだった。
「密?」
支倉さんがおもむろに言う。
「うん、密。三密。僕たちは密できてる」
そう言うと、支倉さんは少しだけ穏やかな顔で「ふふっ」と落とすように笑った。
「密って、なんか不思議な言葉よね? 意味も使い方もデタラメだし」
僕は、それだけでとても嬉しくなった。
「ねぇ、こんなところで立ち話もなんだから、マンションの広場に行って話しましょうよ」
支倉さんは、続けてそう提案した。
「うん。そうしよう。でも、時間とか大丈夫? 家を抜け出して怒られたりしない?」
「大丈夫だと思うわ。どうせ、家には誰もいないし」
支倉さんはつまらなそうに言った。
僕たちは二メートル以上の距離を開けたままエントランスを出て、マンションの前の広場に移動した。広場にはたくさんのベンチがあって、その中の一つに僕たちは座った。
木製のベンチの端と端。
これが、僕たちが今近づけるせいいっぱいの距離。
ソーシャルディスタンス。
密。
僕たちを隔てる透明な壁。
僕たちは今、それを乗り越えることができない。
たくさんの人が、
この透明な壁に苦しんでいる。
大切な人を傷つけたくないから。
支倉さんは夜空を見つめている。
僕も夜空を見上げてみた。
たくさんの星が輝いていて、大きな月が浮かんでいる。
夜空はこんなにも澄んでいて、宇宙まで見えるのに――僕たちの暮らすこの星の空気は今、汚染されている。世界中に目に見えないウィルスが充満していて、安全な場所はどこにもない。
今この瞬間も、僕たちはウィルスに侵されているかもしれない。
それでも、僕たちはこうして並んで夜空を見上げている。
それが、なによりも大事なことだった。
たとえ世界の終わりを前にしているとしても――
僕たちは一人じゃないんだってことが、なによりも大事なことなんだ。
そばにいることが、
隣にいることが、
こんなにも嬉しいんだって、
今、知ったから。
僕はただ、
それを伝えに来たんだ。
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