第9話 興奮した猫をなだめるように。


「ありがとうございます」

 僕は震えている体を押さえつけながら、なんとかお礼だけを言った。ふりしっぼた声も震えていて、最後のほうは上ずっていた。

 僕はホームレスのおじいさんを見て、直ぐに目をそらしてしまった。そんなことをしてしまった時、僕は自分がとても失礼なことをしてしまった気がして情けなくなった。


 ホームレスの人と話すのははじめてだった。

 お父さんもお母さんも、学校の先生も、インターネットも、その他でも――ホームレスの人とは関わってはいけないと言われている。話しかけられたら絶対に言葉を返さず、近づいてきたら逃げるように教えられている。物をもらってもいけないと。女の子は防犯ブザーを押す訓練すらされていた。

 だけど、僕はホームレスのおじいさんに助けてもらった。

 目を見てしっかりとお礼を言いたいのに、僕は目を逸らして俯いてしまった。見てはいけないものを見てしまったような、そんな失礼な態度をとってしまった。


「君は、小学生かな?」

 おじいさんは何事もなかったかのように穏やかに尋ね、それから僕から距離を置いた場所に腰を下ろした。ソーシャルディスタンスをしっかりと守るみたいに。僕はホームレスにもソーシャルディスタンスがあるんだと、そんな失礼なことを思ってしまった。

 僕は勇気を出して口を開いた。

「はい。いえ、えっと、本当は四月から中学生一年生になるはずなんですけど、まだ一度も学校には通っていません。だから自分でも、僕が小学生なのか中学生なのか分からなくなってます」

 そう言うと、おじいさんは「あーむ」と喉をならした。

「そうか。世界は今、とても大変なことになっているみたいだからね」

 おじいさんは、困ったような顔をして続ける。

「それで、君はどうしてこんな夜遅くに一人で出歩いているのかな?」

「それは――」

 僕は、なんて答えたらいいのか分からなくて俯いた。

「いや、話したくないなら話さなくていいんだ。無理に聞き出そうとは思わない。そもそも、僕のような人間に話したところで、何ら役に立たないからね。ほほほ。世界と全く関わっていない僕のような人間だと、今の状況がそれほど大変だとも思わないんだけれど――君には、とても大変なことだろう。自分が小学生なのか中学生なのか分からなくなるなんて、それはとても大ごとだ。君は、とても混乱しているんだね? それも、こんな夜に一人で旅をしてしまうくらいに」

 おじいさんは僕を気遣うようにそう言ってくれた。

 僕は小さく頷いた。

 

 わずかな沈黙が生まれた後、僕は口を開いた。

「あの、おじいさんは世界がこんなに混乱しているのに、大変だと思わないんですか? それに、外に出ていて不安にならないんですか? 病気になったらって――怖くないんですか?」

 気がつくと、僕はおじいさんにたくさんの質問をぶつけていた。

 いつの間にか、おじいさんの目を見ていた。

 おじいさんは僕と目が合うとニッコリと笑った。そして「あーむ」と喉を鳴らす。

「それは、なかなか難しい話だね」

「ごめんなさい。いろいろ質問して。失礼なことを聞いてたら、本当にごめんなさい」

 僕は慌てて謝った。

 おじいさんは、そんな僕を見て「ほほほ」と笑う。フクロウみたいに。

「好奇心を抑えられないのは、とても良いことだよ。とくに、君のように年の頃にはね。好奇心を殺してしまうということは、成長を止めてしまうということだ。質問なんてものは、失礼なくらいがちょうどいいんだよ。相手が怒ったのなら、その程度の相手だということだ。それじゃあ、一つ一つ君の質問に答えて行こう――」

 おじいさんは絵本の表紙をめくって読み聞かせをするように、話を続けた。

 僕は、おじいさんの言葉に耳をすませた。

 夜の森で、フクロウの鳴き声に耳を傾けるみたいに。


「まず――世界が混乱していることと、僕が混乱をすることはイコールじゃない。どれだけ世界が大変なことになろうと、それが個人に及ぼす影響というのはとても限定的だ。影響を受ける人もいれば、影響を受けない人もいる。ようはバランスの問題だね。僕はバランスを取りながら、僕の生活を続ければいい。こんな生活で申し訳ないけれどね」

 言いながら、おじいさんは自分の着ているボロをつまんで広げてみせた。ところどころ穴が空いてほつれた衣類は、見ているだけで悲しい気持ちになった。

「世界の混乱に対して、僕たちのような個人は無力だ。人一人では、世界に対して何もできない。それを受け入れ、自分には何もできないと、どうしようもないことと、認めて諦めてしまえるのは、僕たち老人の特権のようなものだ」

 おじいさんの声が、少しだけ震えた。

 痛みに耐えているみたいに。

「だけど、少年はそうじゃない。どうしようもないことに怒りを覚え、憤りを感じ――それらをひっくり返してやろう、なんとかしてやろうって思うことができる。世界に立ち向かえる。それが、若者の特権なんだよ。人はそれを青春と呼ぶ。もしも、君がそう思ってこの場所にいるのなら――そう決意して今夜、夜の外の世界に飛び出したのなら、その気持ちは間違ってない」

 おじいさんの声は、とても優しい。

 泣きそうになるくらいに。

「最後に、外に出ていて不安じゃないかということだけれど、不安がないと言ったら嘘になる。だけど、その不安は病気にかかるかもしれないということじゃない。未知のウィルスのへの恐怖ではないんだ」

「じゃあ、何が怖いんですか?」

「僕たちは、誰しもが不安を抱えて生きているんだ。言いあらわしようのない、たとえようのない、漠然とした不安を――消えることのない不安をね。僕は、そんな不安を常に抱えている。それは病気になるかもしれないという不安よりも、とても恐ろしいものだ」

「病気になることよりも恐ろしい不安? 大人になっても、みんな不安なんですか? その不安は消えないんですか?」

 僕は、恐る恐る尋ねた。

 扉をゆっくりと開くみたいに。

 扉の奥の暗闇をのぞき込むみたいに。


「完全に消えたりしないよ」

 おじいさんは断言をする。

「それは、生きているという証でもあるからね」

「生きている証?」

「そう。僕たちは、みんな一本の蝋燭ろうそくの火なんだ」

「みんな一本の蝋燭の火?」

「その通り。生まれた瞬間にともされた小さなともしび。誰しもが、その火を消してしまわないように必死になって生きている。だけど時折、冷たい風が吹いてその火が消えそうになる。人生には、そういう瞬間がある。だから、不安になるんだ。この火が消えてしまったら――僕はどうなってしまうんだろう? 全てが終わってしまうのだろうか? それが分からないから不安で仕方ないんだ」

 僕は、自分が一本の蝋燭を持っているところを想像してみた。その火を消してしまわないように、必死になっている姿を。

 それは、とても怖い光景だった。

 一生その小さな火を守って行かなればいけないと思うと、僕はとても怖くなった。


「だけど、不安が消える瞬間というものはある」

「どんな時に、不安は消えるんですか?」

 僕は、その答えを知りたくて尋ねた。

「それは、君が君の人生をたしかに歩んでいる時だ」

「僕が、僕の人生をたしかに歩んでいる時?」

「そう。僕は、君がどこからやってきたのかは知らない。どうしてこんな夜に一人でいるのかも知らない。どこに行くのかもね。君には何か目的があって――たどり着くべき場所があって、ここにいるはずだ。そういう時、漠然とした不安は消え去り、君にはやるべきこと、なすべきことが、しっかりと見えているはずだ。恐怖は確かにある。僕たちのすぐ隣にね。でも、それをコントロールすることはできる。つまりは、興奮した猫をなだめるようなものだよ」

 僕は、そうだと思った。

 支倉さんに会いに行くと決めて、この場所に来るまでの道のりは、不安じゃなかった。恐怖はあったけれど、それでも漠然とした不安は消えていた。それはやるべきことと、なすべきことが、ハッキリとしていたからなんだと気がついた。

 僕は確かに隣にいる恐怖をコントロールしていた。

 興奮した猫をしっかりとなだめられていたんだ。

「そういうもの多く積み重ねることが、人生を生き抜く上では――ドライブさせる上では大切なんだよ。それが誰かのためだったのなら、なおさらいい。誰かのために人生を使うことほど有意義なことはないんだ。そうじゃないと、僕のようになってしまうからね」

 おじいさんはそう言って「ほほほ」と笑った。

 その笑い声は、とても悲しかった。


 僕は、おじいさんに何かしてあげたいと思った。この優しく、親切で、悲しそうなおじいさんに、何か恩返しがしたかった。僕を助けてくれたことのお礼を。

 僕の人生を、おじいさんのために使ってあげたいと思った。

 それは僕が人生を生き抜く上で――

 ドライブさせるうえで大切なことだと思ったんだ。

「あの、僕のお父さんとお母さんが――公務員をしているんです。ってところで働いてて、困っている人たちを助ける仕事をしています。どこか泊まれる場所がないか――ホテルとかに泊まれないか聞いてみます」

 一気に言ってしまった後、僕は自分がすごくいけないことをしてしまったような気がした。

 両親からはよその人に仕事のことを話しちゃいけないと、きつく言われていただけど、僕が今感じている後悔や羞恥心のようなものは、そう言った類のものじゃなかった。

 おじいさんを傷つけてしまったんじゃないかって思った。踏み込んではいけないところに、足を踏み入れてしまったんじゃないかって。

 どうしてか分からないけれど、そんなふうに感じたんだ。

 おじいさんは驚いたような顔で僕を見た後、にっこりと笑った。

「あーむ。ありがとう。そう言ってもらえて、とても嬉しいよ。そんな優しい言葉をかけてもらえるなんて、とても光栄だ。僕の人生も、まだまだ捨てたものじゃないとさえ思ってしまう」

 おじいさんは、少年のように目を輝かせながら僕を見る。

 僕は少しだけほっとした。

「だけど、その提案は謹んで辞退させていただこう」

「どうしてですか?」

 おじいさんは「ほほほ」と笑う。

「あーむ。君が僕のような人間と知り合いだと知ったら、君のご両親はとても心配するだろうし、とても困惑してしまうだろう。僕は世界から落第した人間だ。それも、自分から自分自身を世界から切り離すことを選択した類の人間だ。僕のような人間とは、基本的には関わるべきではない。君のような子供のうちはなおさらね」

 確かに、僕の両親はとても混乱してしまうだろう。

「君の両親を悪く言うつもりはないということだけは分かってほしいんだけれど、なにより国家や公務員といったシステムは、個人を助けたりはしないんだ。システムが助けられるのはシステムだけであり、そのシステムに組み込まれている人間だけなんだ。残念ながらね。僕のように、システムから切り離されてしまった人間を助けたりはしない。個人を助けるのは、結局のところ個人なんだ。だからこそ、僕たちは人と人との繋がりを大切にして、日々助け合いながら生きていかなければいけない。結局のところ、僕のように繋がりを一つずつ切り離し、全てを失ってしまった人間には、孤独を選んでしまった人間には――誰も手を差し伸べたりはしないんだ」

 その言葉を聞いて、僕はなんて言葉を返したらいいのか分からなかった。

 おじいさんの言ってことはとても難しくて、システムとか個人とか言われても、僕の頭ではその意味を理解することはできなかった。

 だけど、それがとても悲しいことだということは分かった。自分がそうなったらと思うと、怖くて仕方なかった。


「そんな顔をしないでくれ。君は、君の繋がりを大切にすればいい。今繋がっていると思える人たちを大切にして――けっしてその手から離してしまわないように握りしめ続けるだけでいいんだ。それができれば、君は誰かと繋がっていられる。嵐の夜を孤独に過ごさなくて済む」

 そこまで言うと、おじいさんは手を伸ばして公園の出口を差した。

「さぁ、そろそろ行きなさい。君には、君のたどり着くべき場所があるはずだ。ここは君の居場所じゃない。夜の公園は、行く当てのないものが腰を下ろす場所で、君のような男の子が迷い込む場所じゃないんだ」

 そう言われた時、僕は支倉さんの顔を真っ先に思い浮かべた。

 僕は、支倉さんに会いにここまで来た。

 確かに、この夜の公園は僕の居場所じゃない。いつまでもここに腰を下ろしているわけにはいかない。もう体の震えは止まっていて、恐怖も不安も消え去っていた。

 ただそれは僕の隣にいる。

 常に。

 今は、僕の隣で眠りについているだけだ。

 僕はそれをコントロールしなければならない。

 興奮した猫をなだめるように。


 僕はもう行かなくてはならない。

 見ず知らずの僕を助けてくれたおじいさんには、とても親しみを感じていたし、できることならもっと話を聞かせてほしかった。僕にできることがあるのなら、何かしてあげたかった。

 だけど、僕が今手繰たぐり寄せなければならない繋がりは、ここにはない。

 僕はその繋がりを強く握りしめなければいけない。

 もう二度と――

 切り離してしまわないように。

「あの、僕はこれから女の子に会いに行くんです。その子に会うために、僕は今夜、家を飛び出したんです」

 僕はおじいさんに、そう告げた。

 はっきりと。

 この世界に、その事実を刻みつけるみたいに。

「それはとても素敵なことだ。男の子にとって――女の子に会いに行くこと以上に大切なことはないからね」

「はい」

 おじいさんにそう言ってもらえて、とても嬉しかった。

 女の子に――支倉さんに会いに行くこと以上に大切なことは、この世界にないと思った。

「ほほほ。良い顔になってきた。自分のやるべきことと、なすべきことが分かっている時の顔だ。僕も、昔はそんな顔をしていた気がする。でも、君は大丈夫。きっと繋がりを切り離してしまうようなことはないだろう。僕のようにはならない」

 僕は、立ちあがっておじいさんを見た。

 おじいさんは僕のようにはならないといったけれど、僕とおじいさんに何か違うところがあるようには思えなかった。

 僕とおじいさんは、とても似ていると思った。

 だけど、僕はもう行かなればならない。

 この混乱と病気が蔓延する世界に――夜の公園に、おじいさんを一人残して。

 

 その時、僕はあることを思いついてリュックサックからそれを取り出した。

「あの、良かったら、このマスクを使ってください」

 僕は、おじいさんに新品のマスクを一つ渡した。

 おじいさんは僕の渡したマスクを手に取ってくれた。

 そして、またニッコリと笑ってくれた。

「ありがとう。大切に使わせてもらうよ」

「はい。それじゃあ、僕は行きます。ありがとうございました」

 おじいさんは、それ以上何も言わなかった。

 もう話すべきことは全て話し終えたといった感じで、遠くのほうを見ていた。

 どこか、とても遠い場所を。

 

 僕は、自転車に跨ってペダルをこいだ。

 ゆっくりと、

 しっかりと。

 公園を出た時に一度だけ振り返った。

 

 そこは――

 幕の下りた舞台のように見えた。


 何もない、

 全てが終わってしまった跡のように。

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