第8話 何もかもが無駄になってしまう。

 数メートル先に、懐中電灯を照らした人影が現れた。

 それは、巡回中の警察官に見えた。

 僕はその瞬間に頭が真っ白になり、おもいきりにペダルを踏んで自転車を走らせた。

 

「こらっ。君、待ちなさい」

 

 背中に怒鳴り声が張り付く。

 僕は全速力で自転車を走らせて、とにかく逃げた。

 ここで捕まったら全てが終わってしまう。何もかもが無駄になってしまう。そう思ったら、僕はもう立ち止まれなくなっていた。後先考えずにとにかく全速力で逃げ、暗闇の中を駆ける。

 頭の中は真っ白になったままで、目の前は真っ暗。心臓の音がうるさくて、背後の音はまるで聞こえない。

 自分がどこを走っているのか、警察官が追ってきているのか、どこに逃げたらいいのか――何もかもが分からなかった。

 

「どうしよう? どうしよう? どうしよう?」

 

 混乱した頭の中で「どうしよう?」と何度も叫びながら、僕は立ったまま自転車をこぎ続ける。

 止まってしまったら、

 振り返ってしまったら、

 諦めてしまったら、

 全てが終わってしまう。

 

 僕はいつの間にか芝生の上を走っていて、沿道からも外れていることに気がついた。園内を突っ切るように駆け回り、どこにあるかも分からない出口を探していた。

 すると、突然目の前に人影が現れた。

 僕は、反射的にブレーキを踏んだ。

 その瞬間に、僕は全てが終わったと絶望した。


「こっちに隠れなさい」

 だけど、その人影はそう言いながら僕を手ぶりで誘導した。

 僕は、わけが分からないままその声に従った。

「ここに、身を潜めていなさい」

 そこには大きな遊具――小山型の滑り台で、土管が通っている――があって、その隅に隠れろと指示を受けた。僕はわけが分からないまま、言われるままに自転車を横に倒して、小山の陰に隠れる。

 身を潜めて身体を丸めると、心臓を吐き出してしまいそうなほどに息を切らしていて、その息の荒さに驚いた。つけていたマスクは、いつの間にかどこかに消えていた。走っている最中に外れたんだと思う。

 体中が凍えたように震えていて、今にもバラバラになってしまいそうで、全身の筋肉が悲鳴を上げている。

 それ以上に、僕の心が悲鳴を上げていた。

 

 僕は、自分がしでかしてしまったことのあまりの大きさに恐怖していた。

 警察から逃げた。見つかって捕まったらとんでもないことになる。緊急事態宣言の発令されている夜に、封鎖されている公園に不法侵入までしている。逮捕されたらどうしようと、気が気じゃなかった。


 必死に息を殺していると、声が聞こえてきた。

「お巡りさん、こんな時間にすごい剣幕でどうしたんですか?」

「自転車に乗った子供を見なかったか?」

「自転車に乗った人なら、出口のほうにものすごいスピードで走って行きましたよ。何か事件ですか?」

「事件じゃない。小学生くらいの男の子が逃げて行っただけだ。あなたこそ、緊急事態宣言中は、園内立ち入り禁止だぞ?」

「すいません。僕には行くところがなくて」

「まぁ、いい。気をつけなさい。あと問題を起こすなよ」

「ありがとうございます」

 

 声が止み、静けさが戻った。

 僕は、ひとまず脅威が去ったことに安堵した。

「大丈夫かい?」

 僕を助けてくれた人が戻ってきて、そう尋ねた。

「こんな危険な夜に警察に追われるなんて、君もなかなかタフなことをしている。何か訳ありなのかな?」

 とても穏やかな声でそう言うと、かすれた声の主は僕の前に立ってにっこりと笑った。

 僕は、その人を見て驚いた。

 僕を助けてくれたその人は、とても草臥くたびれたおじいさんで――

 おじいさんの着ているものは、全てボロボロだったから。

 真っ白な髪の毛は一度もかしたことないみたいにめちゃくちゃで、もじゃもじゃの髭が口元をサンタクロースみたいに覆っている。にっこりと笑った顔は汚れていて、歯の多くは抜けていた。

 一目で、おじいさんがホームレスだと気がついた。

 

 僕は――

 ホームレスのおじいさんに助けられた。

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