第11話 夜の海を越えて。

「どうやってここまで来たの?」

 二人でベンチに座って星を見上げて――

 しばらく黙ったままでいると、支倉さんが尋ねた。

「自転車だよ」

「自転車って、ウソ? だってずいぶんな距離よ?」

「本当は、電車で来るつもりだったんだけど――」

 

 僕は、支倉さんにこれまでのできごとを話した。

 これまでの道のりを。

 支倉さんは、僕の話を黙ったまま真剣に聞いてくれた。

 僕は、一生懸命に話した。ここに来るまでに色々なことがあったんだってことを伝えたくて。今夜の冒険を一生懸命に話したんだ。

 話し終えた後、僕は支倉さんを見た。

「急に会いに来てごめん。でも、本当はもっと早く来るべきだったんだ。支倉さんから連絡をもらう前に、僕は支倉さんに会いに行かなきゃいけなかったんだと思う。会いに行くって約束をしたのに。だから、遅くなってごめん」

 僕が、僕の中の全部を伝えると――

 支倉さんは、少しだけ泣きそうな顔で僕を見た。

 その表情はとても穏やかで、ぜんぜん余所行きの顔じゃなかった。二人きりの部屋の中で時折見せてくれた、とても懐かしい表情だった。

 とびきりの表情だった。

 支倉さんの、この顔が見たかった。

 僕は心からそう思った。

「なんだか、とっても男の子っぽくなったのね? とってもたくましく、とっても頼もしくなった。私が引っ越す前は、頼りない弟って感じだったのに」

「そうかな? ぜんぜん変わってないと思うけど」

「女の子っていうのはね、男の子の変化に敏感なのよ。男の子は、いつまでたっても鈍感なままだけどね。あなたは変わったわ。一緒にいた私が言うんだから間違いないわよ」

 そう言ってもらえて、僕はとても嬉しかった。

 僕は何も変わってないと思っていたし、そんな僕を見て、支倉さんは僕にがっかりするんじゃないかって不安だったけれど、今は少しだけ自分を誇らしいと思えた。


「あなたと違って、私はちっとも変わってない。狭い部屋に閉じこもっているだけ。なにもかもが下らなく思えて、なにもかもが間違っているような気がして――ぜんぶがインチキの嘘っぱちに見えて、うんざりしちゃう。本当、私ってどうかしてるのかも?」

 支倉さんは吐き出すようにそう言って、俯いてしまった。

 その声は、とても小さくて冷たかった。さっきまでとても穏やかだった表情が見えなくなって、僕は不安になった。

 夜が一気に深くなった気がした。

 暗闇はより暗く、

 夜風はより冷たくなった。

「そんなことないよ」

 僕は支倉さんの言葉を否定するように言った。

 だけど僕の言葉は、夜の闇の中でとても虚しく響いた。

 空っぽの言葉みたいに。

 だって、僕は引っ越してしまった後の支倉さんを知らないのだから。

 母親から、支倉さんが学校に行ってないこと――周りの生徒にうまく溶け込めずに不登校になってしまったことだけは聞かされていた。

 僕は、その話題を持ち出そうか迷った。

 だけど、支倉さんを傷つけたくなかった。

 これ以上。

 彼女は、もう十分すぎるほどに傷ついている気がしたから。

「そんなことあるのよ」

 僕が言葉を見失っていると、支倉さんは小さく呟いた。

「私ね――引っ越して新しい学校に転入してから、さっぱり他の子のことが分からないの。つまらないテレビとかゲームの話で笑ったりできないし、SNSで仲間外れにした子の悪口を言い合うのもうんざりしちゃうし、流行りのお洒落とか洋服なんて興味ない。男の子たちは、私が少しばかり背が大きいからってバカにしてくるし。本当、何もかもが間違っている気がするわ。外国からウィルスがやってこなくても、私の世界は十分おかしくなっていたのよ。世界は最初から混乱していたし、混乱し続けている。正直――」

 支倉さんはそこまで言った後、言い過ぎたと思ったのか口を閉ざしてしまった。

 僕は、その先の言葉を彼女が口にしなくて良かったと思った。

 そこから先の言葉は、きっととてもひどい言葉だったと思うから。

 その言葉はきっと支倉さんをより傷つけて、よりみじめな気持ちにしたと思う。

 支倉さんは膝を抱え、額を膝につけて丸くなった。小さくなろうとするみたいに――柔らかな卵そのものになろうとするみたいに。


「テレビやネットを見ていると、おかしな人がたくさんいるでしょう? 朝から晩まで言い争って、間違ったことばかりを口にして。そんなものを眺めいると、なんだか自分が世界中から責め立てられいるみたいな気分になってくる。みんな、どうにかなってしまってる」

 支倉さんは突然、別の話をはじめた。

 だけど、それが別の話じゃないことに気がついた。

 彼女の中では全てが繋がっていて、その繋がっていることの全てに苦しんで、混乱しているんだと思った。

「でも、あの人たちは、世界がおかしくなってしまったから――混乱してしまったからおかしな行動をとっているんじゃないのよ。最初からおかしかったの。それが、表に見えるようになっただけ。重たい石をひっくり返したら、気持ちの悪い虫がたくさんいることってあるでしょう? 今は、その石をひっくり返してしまった状態なのよ。恐ろしい病気が、そこら中の石をひっくり返してまわっていて、石の底に潜んでいた気持ちの悪い虫たちが、一斉に動き出してるの。こんなことを考えているなんて、どうかしてるでしょう?」

 支倉さんは自虐的に尋ねた。

 そして僕の答えを待たずに言葉を続ける。

「一日中そんなことばかりを考えていたら、私、だんだん頭がおかしくなってしまったような気になってきて、どうにかなりそうなの。外の世界が怖くてしかたなくて、このまま世の中が混乱したままでいればいいのにって――ずっと緊急事態宣言が出たままで、家の中に籠っていられればいいのにって、そんなことばかり考えちゃうの。もう誰ともかかわらずに、一人で生きていきたいって。ほんと、どうかしすぎててうんざりしちゃうでしょう?」

「ぜんぜん、どうかしてなんてないよ」

 僕は、泣きそうな声でそう言った。

 支倉さんが僕の目の前から消えてしまいそうで――

 そのまま夜の闇に溶けて透明になってしまいそうで、僕はとても怖かった。

 支倉さんは今、全ての繋がりを切り離そうとしているのかもしれない。

 世界が混乱する前から混乱していた自分の世界にうんざりして、全てのことを切り離して距離を取ろうとしているのかもしれない。

 そして、今起こっている世界の混乱は、支倉さんの混乱を加速させている。

 病気にかかっていなくても、ウィルスに侵されていなくても、その空気や雰囲気は確実に僕たちを――感じやすい一人の女の子を蝕んでいる。

 全ての繋がりを断ち切って、世界から孤立させてしまうほどに。

 夜の公園で出会ったおじいさんのように。

 僕は、支倉さんを何とかして繋ぎ止めたかった。

 繋がりを断ち切りたくなった。

 だけど、僕たちの間には透明な壁がそびえている。

 ソーシャルディスタンス。

 密。

 そんな下らないことで、僕たちは隔てられている。

 今、支倉さんを繋ぎ止められるものは僕しかいない。

 僕の言葉しか。

 大切なものをしっかりと握りしめるように、

 二度と離さないと強く抱きしめるように、

 僕は言葉を続けた。


「そんなこと当たり前だよ。僕たちは、いつだって不安を抱えているんだ。よく分からない、理由のない不安を――」

 僕は、今夜出会ったおじいさんにもらった言葉を口にした。

 僕たちは、常に漠然とした不安を抱えている。

 それは病気になることよりも恐ろしい不安――

 だけど、それこそが生きている証なんだと。

「僕も、テレビとかネットを見てると不安になるよ。世界はこんなに混乱しているんだって、不幸や暴力で溢れているんだって、間違ったことばかりが起こっているんだって、とても怖くなる。良いニュースなんてほとんどないし、テレビの画面を通して見る世界は、本当に最悪だって思うし、ネットを見てると世界にはまともな人なんて一人もいないじゃないかって思えてくる。きっと、みんな自分たちが何をやるべきなのか、何をなすべきなのか、ぜんぜん分かってないんだ。だから、混乱したまま自分たちでもわけの分からないことばかりをしているんだよ。それが誰かを傷つけているなんて思いもしないんだ。そんな世界の悪いところばかりを見せられていたら――外に出たくないって、家に閉じ籠っていたほうがいいって思うのは、当たり前だよ。緊急事態宣言が続いてほしいって思ったって無理はないよ。そんなの、当たり前のことなんだ」

 僕は、支倉さん届くように言葉を続ける。

 透明な壁を乗りこえて、彼女の心に届いてほしいと願って。

「だけど、僕は外に出たいって思うよ。こんなうんざりする間違いだらけの世界でも、支倉さんに会いたいって思う。だから、今夜会いに来たんだ。でも、支倉さんは無理に外に出る必要も、つまらない奴らに合わせる必要なんてないと思う。下らない世界に付き合う必要なんてないんだ。だから、僕が支倉さんに会いに行くよ。直ぐには無理かもしれないけど、この混乱が収まって、自由に外に出たり、移動をすることができるようなったら、また必ず会いにいく。今度は支倉さんにメッセージをもらう前に――僕から会いに行くんだ」

 僕は、自分がうまく言葉を伝えられているのか分からなかった。

 僕は何の解決にもなっていない言葉を、支離滅裂な内容を伝えているような気がしてしかたがなかった。

 僕は口下手だし、自分の感情をうまく伝えるのが苦手なのだ。

 それでも僕は、

 今、僕が思っていることを、

 感じていることを、

 伝えたいことを、

 包み隠さずに言葉にした。

 それだけは確かだった。


「ありがとう」

 支倉さんは膝を抱えて顔を隠したまま、小さくそう呟いた。

「今夜、あなたが会いに来てくれて本当に嬉しかった。一人で部屋の中に籠っていて、本当にどうにかなりそうだったから。寂しくて死んじゃいそうなのに、誰にもそう伝えられなくてとても苦しかった。誰かにそばにいて欲しいのに、私は誰とも関係を築いてこなかった。私のまわりにはもう誰もいないって思ってた。両親とだって、最近はうまくいってなくて気まずくて――あなたがいてくれて本当に良かった」

 支倉さんの声は震えていて、小さく泣いてるように聞こえた。

 僕は支倉さんの涙をぬぐってあげたかった。

 その涙がこぼれてしまうことが、僕はとても悲しかった。僕たちはこんなに近くにいるのに、顔を見合わせて涙をぬぐってあげることも――抱きしめることもできない。

 だから、僕の言葉で支倉さんの涙をぬぐってあげたいと思った。

 この透明な壁に隔てられた距離ごと抱きしめたいと思った。

 この繋がりを切り離してしまわないために。

 支倉さんを透明にしてしまわないために。

「僕も今夜、支倉さんに会えて良かった。支倉さんが苦しんでいることが分かって良かった。僕もずっと寂しかった。僕だってとても混乱しているし、不安だし、一人で部屋に閉じこもっていると透明になってしまいそうで怖いけど――僕たちは、もう一人じゃないと思う。二人なら、大丈夫な気がする」

 支倉さんは顔を上げて、遠くを見た。

 その瞳は涙で濡れていたけれど、もう泣いてはいなかった。

 支倉さんの表情はとても穏やかで、嵐が過ぎ去った後のように晴れやかだった。

「このまま二人でどこか遠くに行けたらいいのにね? 海の向こうまで行けたらいいのに。そうしたら、私たちもっとそばにいられるのに」

 支倉さんは、そう言って目を閉じた。

 遠くの波の音に耳をすませるみたいに。

 だから、僕も目を瞑って耳をすませた。

 波の音を探すみたいに。

 僕たちは、浜辺にいるみたいだった。

 誰もいない夜の海を目の前にしているみたい。

 僕も支倉さんと、

 このままどこか遠くに行きたかった。

 夜の海を越えて、

 どこか違う場所に。

 どこか遠くに

 混乱も、

 悲しみも、

 暴力もない世界に。

 だけど、

 そんな場所はどこにもない。

 世界は今、とても混乱しているし、世界中に不幸や悲しみが、暴力が蔓延しているから。恐ろしいウィルスや病気も含めて。

 僕たちは、どこにも行けない。

 今は、

 まだ。

 だけど、

 そばにいることだけはできる。

 触れ合うことはできないけれど――


「いつか二人で遠くに行こうよ。今はどこにも行けなくても、いつか行ける日が来るよ。その時は、僕が迎えに行くからどこか遠くに行こう。二人で一緒に」

 

 僕がそう言うと、支倉さんは僕のほうをむいてにっこりと笑った。

 だから、僕もにっこりと笑ったんだ。


 夜の浜辺で。

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