第2話 柔らかい卵のような女の子。

 支倉さんは、僕の住んでいるマンションの隣の部屋に住んでいた背の高い女の子だった。出会った時から僕よりもずっと背が高くて、最後に会った時も僕よりも背が高かった。


 僕たちは生まれた時から同じマンションに住んでいて、いつの間にか出会って、いつの間にかお互いを知って、いつの間にか会話をするようになり、いつの間にかそれなりに親しくなっていった。

 僕の生活や思い出の中には、いつだって支倉さんの存在があった。

 だけど、僕たちは仲の良い友達というような感じではなかったし、かといって上辺だけのよそよそしい関係とも違った。とても不思議な関係だった。僕たちはある部分ではお互いをとても必要としていたけれど、必要以上に相手に踏み込もうとはしなかった。

 それは僕が男の子で、支倉さんが女の子だったからだと思う。

 

 僕たちの両親は揃って忙しかったので、よくお互いの家に行き来して親が帰ってくるのを二人で待った。二人で漫画を読んだり、アニメを見たり、ゲームをしたり、ただ他愛もない話をしたりして、僕たちは親が帰ってくるまでの時間を潰した。

 どちらかの母親が帰ってくると僕たちは一緒に食事して、もう片方の親が帰ってくるのを待った。僕の母親のほうが遅く帰ってくることが多かったので、割合的には支倉さんの家で過ごすことが多かったように思う。


「子供を置いて遅くまで働いていて、お父さんもお母さんもそんなに仕事が大切なのかしら?」

 ある時、支倉さんはそんなことを言った。

「僕のお父さんもお母さんも、支倉さんのお父さんもお母さんも、公務員っていうとても忙しい仕事をしているみたいだから、休ませてくれないんじゃないかな? 大人って一生懸命に働かなくちゃいけないみたいだし」

「そうかしら? 一生懸命働いてない大人なんてたくさんいるし、仕事だってもっと楽で、早く帰ってこられる仕事がたくさんあるはずよ。両親そろって朝から晩まで働き詰めでクタクタになって帰ってくなんて、何かおかしい気がするわ。ひどく間違っている」

「公務員はとても大切な仕事だって言っていたよ。国とか社会のために一生懸命に働いているんだって」

「ふーん。それってそんなに大切な仕事かしら? 私には、誰かのしりぬぐいをしているようにしか見えないけれど」

「しりぬぐいって?」

「そうねえ? 要するに――庭に草が生えているから草むしりをする。雪が積もっているから雪かきをする。それも、自分の家じゃなくて他人の家のをよ? 国とか社会にために働くなんて、そんな程度のものじゃないかしら? 自分のために、家族のために働くほうがとっても有意義な気がするけどな。自分の家の庭を綺麗にしたほうが絶対に良いのよ」

「僕には良くわからないや」

 支倉さんはとても疑り深いところがあって、世の中の全てがインチキに見えているようなところがあった。あらかじめ決められたことや、常識といったものを嫌っていて、常に疑問を抱えて生きていた。


「間違っている気がする」

 それが支倉さんの口癖だった。

 彼女は何かに疑問を抱くたびに、「間違っている気がする」と表明した。

 支倉さんはとてもクールな女の子で、滅多なことでは表情を崩したりしなかった。いつも澄ました表情を浮かべていて、クラスの女子の中で一番背が大きかったこともあって、とても大人びた女の子に見えた。

 支倉さんは人を寄せ付けないところがあって、そのせいで小学校では浮いていた。仲間外れにされたり、いじめられたりしているわけではなかったけれど、どこか孤立していた。一目置かれているようにも見えたけれど、友達と呼べるような生徒は、一人もいないようにも見えた。


「学校で私に話しかけたりしないでね?」

 物心がついたころ、支倉さんは急にそんなことを言い出した。

 それは僕たち、というよりもクラス全体が――男の子と女の子が別のものであると意識し始めた頃で、僕たちはとてもナイーブで敏感になっていた。保健体育の授業で男女が別になり、僕たちは男性と女性の身体の違いなんかを学び始めていた。

 その時はじめて、僕は自分が男の子であり、支倉さんが女の子であると気がついたんだと思う。

「いつまでも女の子と一緒に登下校をしていたんじゃ、あなたもクラスの男子にからかわれて、仲間外れにされるわよ。私はクラスの女子とはあまり仲良くしてないから気にしないけど。あなたは男の子で、私は女の子なんだから、それらしく振舞ったほうが良いのよ。ほんと下らないって思うけれど。私たち、同じ性別だったら良かったのにね?」

 支倉さんは、下らないって笑いながらそう言った。

 僕は支倉さんに男の子になってほしくはなかったし、僕も女の子になりたいとは思わなかった。だけど僕たちが一緒の何かになれたら、それはとても良いのとこのように思えた。


 男の子でも、

 女の子でもない何かに。

 

 その頃から、僕は支倉さんのことを柔らかい卵のような女の子だと思うようになった。そして、その卵が割れてしまうことをとても恐れていた。ふとした拍子にひび割れてしまいそうな、そんな雰囲気があったから。


「学校では話したりしないけれど、お互いの両親を待っているこの時間だけは、二人でたくさんおしゃべりをしましょう。女の子とか、男の子とか、小学生とか、子供とか関係なく、好きなことを好きなだけ話すの。私、あなたと一緒に両親を待っているこの時間が、けっこう好きなのよ。悪くないなって思ってる」

「僕も、支倉さんと一緒にいるこの時間が好きだよ。悪くないなって思う」

「本当に?」

「本当だよ。僕のお父さんもお母さんも、もっと遅くに帰ってくればいいのにって、いつも思ってる」

 僕がそう言うと、支倉さんはとても穏やかな微笑みを浮かべてくれた。

 それは僕が知っている支倉さんの表情の中で、一番優しくて、一番柔らかくて、一番すてきだった。

 いつもそんな表情を浮かべていてほしいと思った。

 僕たちはそんなふうにして、二人きりの時間を過ごした。

 

 支倉さんが引っ越してしまう小学五年生の日まで。

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