第4話 小学五年生で転校をしなければいけないということは、つまりはそういうことなんだと思う。

 支倉さんの引っ越しが決まった時、彼女は僕に新しい住所を教えてくれた。

「これが私の新しい住所よ。このマンションと同じで、公務員が住める公営住宅みたい」

 僕たちはその住所を、Googleマップで調べてみた。

 その公営住宅は、僕たちが暮らしている品川のマンションとは比べ物にならないくらい綺麗で大きかった。Googleストリートビューで眺めてみた外観は、まるで巨大な塔のようで、特別な人しか住めない建物――お城のようにも見えた。


 東京の江東区東雲しののめという特別な場所に建てられた特別なマンションは、この世界の中心のように見えた。支倉さんのお父さんかお母さんがとても偉くなったんだろうなと、そんなことを思った。出世というやつをしたんじゃないかって。

「すごいマンションだね」

「ここの二十階に引っ越すらしいわ」

「二十階? どれくらいの高さなんだろう?」

「さぁ? 降りるだけで一苦労しそうで気が滅入るわ。私はこのマンションで十分なのに。どうして引っ越しなんてするのかしら? そんなに高いところに住みたいのかしら。なんだかひどく間違っている気がする」

 支倉さんはそうに言って、PCのモニターに映っている新しい住居を恨めしそうに見つめていた。

 

 思い返してみれば、あの時の支倉さんはとても不安だったんじゃないかって思う。知りもしない場所に引っ越して、まるで知らない環境で生きていかなければいけないなんて、とても心細かったに決まってる。

 支倉さんにしてみれば、いきなり二十階の高さに放り投げられ、そのまま落下していくような気分だったに違いない。

 小学五年生で転校をしなければいけないということは、つまりはそういうことなんだと思う。


「でも、僕たちの住んでる場所から電車で一時間くらいだから、会おうと思ったら会いにいけるよ」

 あの時、僕は支倉さんを元気づけたくてそんなことを言った。

 無責任で、曖昧で、後先考えない言葉を口にしてしまった。

「どうせ私が引っ越したら、一か月もしないうちに私のことなんて忘れてしまうわよ」

 支倉さんは感情をこめずにそっけなく言った。

 取るに足らない当然のこととでも言うように。

 クールに。

「そんなことないよ。僕は支倉さんのことを忘れたりしない」

「本当に?」

「うん。本当だよ」

 僕が少しムキになって言うと、支倉さんはクールな態度を崩さずに小さく頷いた。

「そう。じゃあ、私に会いに来てくれる?」

「必ず会いに行くよ」

 僕は、そう約束した。

 今目の前にいる支倉さんを安心させたくて、彼女にただ喜んでほしくて、適当な言葉を並べ立ててしまった。先のことなんて何ひとつ考えていない、無責任な約束をしてしまったんだ。

「ありがとう。期待しないで待っているわね」

 支倉さんはそんな僕を見透かしたように言って、ぎこちない笑みを浮かべた。

 そして、支倉さんは引っ越して行った。

 僕の世界から、ひっそりと消えてしまった。世界の裏側に落っこちてしまったみたいに。

 

 彼女が言った通り――

 そして見透かした通り、僕は支倉さんに会いに行かなかった。

 だけど、一か月もしないうちに彼女のことを忘れてしまったわけじゃない。

 僕は、いつも支倉さんのことを考えていた。彼女が今何をしているのかとか、学校ではうまくやれているのかとか、新しいマンションでどんな暮らしをしているんだろうとか、僕のことを怒っているだろうかとか、そんなことをいつも頭の片隅に描いた。

 それでも、僕は支倉さんに連絡をしたり、彼女に会いに行こうと計画を立てたりはしなかった。

 

 支倉さんが引っ越して、僕の世界から消えてしまった瞬間から――

 僕は支倉さんのことを、僕の世界から切り離されたものと認識してしまったんだと思う。枝からこぼれ落ちた葉っぱのように、彼女は風に吹かれてどこかに飛んで行ってしまったんだと決めつけてしまった。僕という木はこの場所に根を張っていて、舞い散った葉を追うことはできないんだと、そんな都合の良い考えで自分を納得させていたんだと思う。

 僕には僕の世界や学校生活があって、それはもう二度と支倉さんの世界とは交わったりしないんだろうと、僕は勝手に思い込んでいた。

 小学五年生で転校をするということは、きっとそういうことなんだと。

 

 だけど、そうじゃなかった。

 支倉さんは僕に連絡をしてきて、僕に何かを伝えようとしている。

 彼女の身に何かが――それも良くないことが――起こっていて、彼女は今おかれている状況にとても混乱して、不安を感じている。

 それは今、世界がとても混乱していることと関係があるような気がした。

 支倉さんは、世界に追い詰められているのかもしれない。

 このままでは、支倉さんが透明になってしまうような気がした。

 

 今支倉さんを引き留めないと――僕の世界に繋ぎ止めておかないと、もう二度と支倉さんとは会えないような気がした。

 僕の世界から消えてしまった女の子を捕まえないと――僕たちは二人そろって透明になってしまうような気がしたんだ。

 

 だから、僕は部屋を飛び出す決意をした。

 ノースフェイスのフードのついたウィンドブレーカーを着て、必要なものをリュックサックに詰め込んで背負う。中学生になったら履く予定の新品のナイキのバスケットシューズを履いて、勢い良く扉を開ける。家を出る前に大きく息を吸って、なるべく呼吸をしないようにした。頬をハムスターのように丸くして駆け出す。

 

 時刻は、夜の七時。

 Googleマップで何度も調べた支倉さんの新しいマンションへの行き方は、しっかりと記憶している。

 路線の名前も、

 ホームの番号も、

 目的の駅も、

 駅を降りてからの道順も、

 全て頭の中に入っている。

「電車で片道一時間。支倉さんに会って、少し話をして帰ってきたとしても、十時前には帰ってこれる。それならお母さんもバレない。大丈夫。きっとたどり着ける」

 僕は、自分にそう言い聞かせた。

 

 お母さんにバレたらどうしようという気持ちはあった。

 勝手に外に出て僕が感染をしてしまったら、お母さんに病気をうつしてしまうかもしれない。

 僕だって、無事じゃすまないかもしれない。

 ニュース番組で見た、寝たきりになっている患者の姿を思い出した。朦朧した表情でベッドに横たわり、鼻に管をさしている姿はとても痛々しかった。

 自分がそうなったらと思うと、怖くて仕方ない。

 だけど、僕は支倉さんに会わなければいけない。

 その決意は、揺るがなかった。


 自転車置き場には誰もいない。それどころか、マンションのエントランスにも誰もいなかった。ここに来るまでも、誰ともすれ違わなかった。なんだか、全ての人が眠りについているような気がした。

 緊急事態宣言の夜はとても静かで、あまりにも静かすぎるので鼓膜が割れそうなくらいだった。

 夜空を見上げてみると、大きな月だけが僕を見降ろしている。

 

 マウンテンバイクに久しぶりにまたがり、僕は出発する前に最後の確認をした。

「スマホ良し。充電も十分にある。財布良し。お小遣いを全部詰め込んだから電車賃は十分だし、お菓子やジュースを買っても大丈夫。ミネラルウォーターもちゃんと入ってる。家の鍵もある。戸締りもばっちりだ。たぶん。懐中電灯もある。あ、そうだ――」

 僕はリュックサックから新品のマスクを取り出して、それをつけた。ウィルスが充満しているかもしれない空気の中では、マスク越しでも息を吸うのは少し怖い。

だけど、生きていく上では呼吸をしないわけにはいかないので、マスクを信じるしかない。

「これで大丈夫だ。三密だっけ? 密室、密閉、密接を防いで、人とは二メートルの距離を開ける。これで、ウィルスの感染を防げるはず。マスクは後二枚ある。一枚は支倉さんにあげよう」

 僕は残りのマスクをリュックにそっとしまい、ハンドルを強く握った。

 ペダルに足を乗せてふと背中を振り返る。

 そこには僕と支倉さんが過ごしたマンションが建っていて、それがとても寂しく見えた。

 誰も住んでいない廃墟のように見えた。

 

 僕はもう一度前を向きなおして、勢いよくペダルを踏んだ。

 僕は支倉さんに会いに行くために――

 

 支倉さんを、もう一度僕の世界と繋げるために、小さな旅に出た。

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