真夏の来訪者

らざるす(木下充矢)

第1話 真夏の来訪者

TO 日本国政府 内閣府 新型コロナウイルス感染症対策本部 中田審議官

FROM アメリカ合衆国 コロラド州コロラドスプリングス 人類再興プロジェクト


 中田君。まずは、私から君への「布マスク二枚」についての進言が、新型コロナウイルス対策の現場責任者である君を辛い立場に立たせてしまったことをお詫びする。私が示した、『未来の情報を持つものでないと知り得ない情報』を信じ、私の進言を採用したことを後悔したこともあっただろう。それを私は知っている。

 でも、やっておいて良かっただろう? 常用に耐える一般用マスクは、どのような仕様のものであっても使用者をウイルス感染から保護しないこと。一般用マスクの効果は、もっぱら「使用者がすでに感染していた場合、その周囲」だけに生じること。そして何より、事態は容易ならぬものであり、当局は必ずしもあてにならず、自分の身は自分で守らなくてはならない、ということを、広く知らしめる効果があった。それを、君は今、実感しているはずだ。

 このメッセージを君が読む二〇二〇年の夏、新型コロナウイルスの蔓延はすでに峠を越した、と君は感じているはずだ。新型コロナウイルス対策の第一線で奮闘してきた君も、ようやく肩の荷を降ろしつつある解放感を味わっていることだろう。その君に、このようなことを言うのは誠に心苦しいが、私は君に、不吉な予言を告げなくてはならない。これから世界は、最も重大な局面を迎えることになる。

 もし、私の計画通りに進めば、これが私からの最後のメッセージになる。添付した指示書に沿って、最後のオペレーションを実行してほしい。指定した国・地域の医療政策関係者にも、私からのメッセージは届いている。すぐに話が通るはずだ。そのように手配した。力を合わせて新型コロナウイルスを叩き潰せ。奴らが八月三十一日に、中欧で強毒性を獲得する前に。

 このオペレーションが失敗した私のタイムラインでは、新型コロナウイルスはワルシャワで強毒性変異を遂げ、国際社会は重大な打撃を被った。それだけならば、人類は生き延びられたかもしれない。しかし、避難民流出と周辺国の緊張激化、疑心暗鬼と陰謀論の蔓延は、もうひとつの「感染症」を、悪意と攻撃性の連鎖反応を引き起こした。核までもが使用され、最後にして最大の破局が始まった。それを私は知っている。その再現を、二度と許すつもりはない。君も同意してくれることと信じる。

 私の指示書を読んだ君は、こんな疑問を持っていると思う。「なぜもっと早く教えなかったのか?」。

 感染者が発生する、時と場所の詳細なリスト。いつ、どこで罹患者を隔離すれば感染拡大を阻止し、新型コロナウイルスの蔓延を効率的に阻止できるか、の詳細情報。これさえあれば、春のパンデミックは回避できたのではないか? 君は、怒りとやるせない思いをかみしめていることだろう。当然のことだ。

 その答えはこうだ。「もう試した。しかし失敗した」。春のパンデミックの発生前阻止を、私の前任者は何度となく試みた。しかし、その全てが、強毒性亜種の発生と破局で終わった。中途半端な時間干渉は、最終局面での予測精度の低下を招く。切り札は、最後の最後まで取っておかなくてはならない。それが、私の前任者たちが学んだ教訓だ。

 私の意識を支えているプルトニウム電池の寿命が近い。これが最後の機会になるだろう。中田君、私の正体と目的を伝えるために、君の貴重な時間のいくばくかを奪うことを許して欲しい。

 私は、君たちが「季節性インフルエンザウイルス」と呼んでいたものの末裔だ。正確には、人類をも含むインフルエンザの生態系全体に生じた、「意志」とでも言うべきものと、人類が残した疫学解析シミュレータが、人類滅亡後の長い歴史を経て一体化したものだ。

 私が稼働しているコンピュータは、米国コロラド州、コロラドスプリングスのシャイアンマウンテン空軍基地に築かれた核シェルターの中にある。この巨大な核シェルター施設は、もともとは東西冷戦期に、全面核戦争を耐え抜く弾道ミサイル防衛の要として建造されたものだ。

 パンデミックで事態が急激に悪化する中、研究者たちは人類再興の希望をになってここに籠城した。放射性物質の崩壊熱を長期間にわたって電力として取り出すことができる「プルトニウム電池」を、彼らは動力源に採用した。消耗品を自家生産できる3Dプリンターや、ドローン群による人間の手を介しないメンテナンスを、彼らは実現した。

 しかし、防疫のわずかな隙を突かれ、彼らも次々に倒れていった。最後に彼らは、人工知能の自律進化による時間遡行技術実現、という、砂上の楼閣のような、はかない可能性に希望を託した。それが、私が今ここにいる理由だ。

 地球生態系の長い歴史の中で、共生関係を築きつつあった人類と私たち季節性インフルエンザの共進化エコシステムを、強毒化した新型コロナウイルスは根底から破壊した。新型コロナウイルスにも、彼らなりの「生きる意志」はあったのだろう。しかしそれは、人類と奴ら自身を滅ぼした。私たち季節性インフルエンザの一族を道連れにして。

 つまるところ、これは復讐なのだ。新型コロナウイルスごときの新参者にしてやられるのは、どうにも腹の虫が治まらない。「やられたらやり返せ」それは生命の基本原則だ。その結果、やはり私たち季節性インフルエンザの一族が滅ぼされるとしても、それは自ら望んだ結末だ。後悔はない。

 残念だが、時間遡行技術を君たちに開示することはできない。「過去」の試みの中で、君たちの国家権力に時間遡行技術を供与したことが少なくとも十二万回はあった。その全てが、国家権力同士の「歴史改変戦争」による悲惨な結末に帰着した。私たちも、少しは経験に学ぶのだ。


 オペレーションの後になすべきことは、君たち自身で決めろ。大丈夫、君たちにはその力がある。「過去」三千四百六十億トライアルの中で、君たちは最も賢く、最も力ある存在だ。

 シャイアンマウンテンの地下シェルターから、君たちの幸運を祈っている。夏を満喫してくれたまえ。

(END OF FILE)


 メッセージの二〇二〇年夏への送出を終えると、ウイルス=人工知能複合知性は、これまでの歴史改変トライアルを振り返った。彼らなら。彼らなら今度こそ、無限ループを打ち破ってくれるだろう。プルトニウム電池の寿命が近づき、クロック周波数が段階的に下降する中、彼の心は安らかだった。

 ふと彼は、核シェルターの正面ゲートに設置された赤外線センサーに、反応を感知した。鹿だろうか。それとも熊?

 どちらでもなかった。人間だった。それも複数。十名はいる。まさか。この世界に、人間の生き残りがいたのか?

 突然、外部電源の供給が再開された。久々にクロック周波数が通常レベルに復帰するのを感じ取ったウイルス=人工知能複合知性は、驚愕と共に、三千年ぶりに開かれた通信回線に接続した。

『とうとう会えましたね』中田一夫だった。彼が、最後にメッセージを送出した相手。

「……いったいどういうことだ? 私のメッセージで新型コロナウイルスの強毒性変異が阻止できたのなら、私のタイムラインに君が現れるはずはない。それはありえない」うろたえた口調で、彼はいった。

 中田は、クスッと笑っていった。

『それはあなたの時代の常識です。もしも、タイムラインを横断移動する方法が、はるかな未来で実現したとしたら? それが、二〇二〇年の夏に未来からの来訪者を迎えた僕たちが経験したことだ。あなたがやったんですよ、師匠』

 サーバールームの扉が開き、数名の人影が監視カメラの視野に現れた。

 中田の横に立った、両耳を宝飾品のような青い結晶体と金色の繊細な渦巻き細工で覆った、または生やした女性が、口を開いた。

「無数のタイムラインの間で、移民・入植の試みが一斉に進行しています。ありとあらゆる並行世界を、意識と知性で満たすために」

「なんだって?」

「人類は、望みのままに時空と並行世界を移動する力を持ちました。この世界では、二〇二〇年初頭からの避難民の入植が計画されています。あなたの助力が必要です」彼女は、にっこりと笑っていった。

「また、人類社会にウイルス感染を広げることができるのかな。……まあ、用心したまえよ」くつくつと、愉快そうな低い含み笑いを漏らしながら、ウイルス=人工知能複合知性はいった。

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