一連のエッセイは、まるで心の奥底を覗き込むような静謐さと、鋭い知性に満ちています。
日々の喧騒や混迷の中で見失いがちな「本質」や「真理」を、決して押し付けることなく、やわらかく、時にユーモラスに問いかけてくれます。
戦後から現代までの日本の変遷、個人と社会の葛藤、学びの本質、そして人生の散歩道を、まるで川が大海へと流れゆくように、自然に紡いで「わかったつもり」の危うさを自覚しながら、わからなさを抱えたまま前に進むことの尊さを教えてくれます。
無用の用の章で、なぜか『最後の授業』を思い出しました。
フランス語教師アメル先生が教え子と村人に語った「フランス語は民族の魂である」という言葉に象徴されるように、
「言葉は民族の魂」であるならば、無名の人さまの描かれた緩やかな肯定そのものが、
日本人の魂を表しているのではないかと感じました。
「学ぶとは、本能のままに不思議がり、知でさまようこと。
生まれてきたのなら、不思議がって、さまよいなさい」
目的なき知の旅を、続けて楽しんでいきたいと思います。
『落穂拾い』レビュー
── 哲学をポケットに、日常を透かして考える──
レビュアー:ひまえび
注……僕よりも遥かに高い知的レベルのお方に対して失礼だとは思いましたが、笑ってお許しください。
本作『落穂拾い』は、十篇から成るミニマルな哲学的エッセイ集です。英語の一文に続く日本語の大意と考察、それらを反射的に並置する構成によって、読者は思考の“瞬間”に立ち会う感覚を得ます。
たとえば冒頭に掲げられた Time as well as money is hard to spend. というアフォリズム。
その後に続く短い補足では、「自分を変えるのは実は簡単だ」と反転する。
この一文のために、背景説明も枕詞も要らない。意味の核心だけが、静かにテーブルに置かれる。
こうした跳躍と静けさの並存が、本書の第一の魅力です。
本作は、単に知識をひけらかす知的エッセイではありません。
むしろ「考えるとは何か」「語るとはどういう行為か」に真摯であり、その語り口はあくまで透明です。
説教や主張の押し付けではなく、“考えた跡”だけがそこに残されている。この距離感が絶妙なのです。
論じられるテーマも、言語・歴史・教育・おたく文化と多岐に渡ります。
しかしどれも、「ひとつの視点で世界を全て捉えきることなどできない」という含意を前提とした上での、静かな模索の痕跡なのだと感じました。
唯一欲を言えば、全章が類似したフォーマットのため、後半では「またこの形だな」というパターン認識が起こります。
3章に一度ほど、より私的な逸話──たとえば教室での違和感や、ある議論での失敗──を加えていただけると、読者としての振幅はより大きくなったかもしれません。
とはいえ、タイトルが示す通り、これは「思考の残滓」であり、「拾うべき知の粒」です。
思索の破片を通じて、読者自身が何を見つけ、どう補完するか。
そういう余白と濃密さが両立する、知的な掌編集として高く評価されるべき一冊だと思います。
本作を現在の若者が読むと納得するか。不安を覚えます。
それでも、意図が通じればいいと願います。
失敗して初めて学ぶことがあります。当レビューを書いている僕は49歳。失敗を数多くしてきました。すると本作に納得することが多いのです。
本作の第一節は、他人を変えるより自分を変えることが容易いのが現実だと説きます。成功しているうちは他人に指図すれば物事を進められます。失敗したときに立て直すには? 学ぶとはつまり自分の言動を以前とは変えること。それが「失敗を糧にする」ということです。
第一節を読んだだけで、失敗の後に自分を変えてきた人だと分かります。その人がまとめてきた知恵は読みたくなりませんか?
成功者ではなくとも、失敗しつつ致命傷を避けて生き延びる知恵というものが社会にはあります。本作から、その知恵を学べます。
この作品は思ったよりも難解だった。少なくとも小生にとっては、難解であると同時に楽しくもあった。考えることが好きな人にとっては、必読だろう。
レヴューは本来、他の読者様にお勧めしたい点を書くだろうが、ここでは作者様の問いかけに少し耳を傾け、小生なりの考えをお伝えできれば、と思う。
小生が大学で学んでいたのは文化人類学で、アイヌの口頭伝承を研究していたので、第二外国語はロシア語だった。作者様はドイツ語だったとのこと。文化人類学は歴史的に、植民地支配と結びつきが強かった。それと同時に、自省を深く求めてきた学問でもある。例えば世界がダーウィンの進化論に沸いたとき、文化も進化するという文化進化論がもてはやされた。しかし、その後、文化進化論は否定された。文化が進化するならば、「進んだ文化」と「遅れた文化」が存在することになり、植民地支配の考え方に逆戻りしてしまうと糾弾されたのだ。
このように、世界中で持て囃された考え方であっても、よく考えれば間違いだと気づく。そして、文化は進化しないが変化はしている。今正しいとされる考え方やモノ、コトが、この先も正しいとは言い切れない。作者様の恩師の方が、今習ったことが間違いになるかもしれないという趣旨のことを仰ったのは、こうしたことを踏まえてのことだろう。
散歩一つとってみても、AIは目的地への最短ルートしか教えてくれない。しかしふらりと自分の好きな道を通れば、思わぬ発見や出会いが待っているかもしれない。よくも悪くも、AIなどは直線的であり、出会ったかもしれないモノを、余分なものと断じて省いてしまう。
果たして、人間にとって有益な散歩はどちらだろうか?
是非、ご覧頂き、思考を巡らせてみてはいかがでしょうか?
この作品は、人生や哲学、日常の出来事を通して、深い洞察と軽妙なユーモアを交えながら紡がれたエッセイ集のように感じます。一見抽象的でありながら、どこか身近で、自分自身の思考を映し出されているような感覚に陥ります。「学びとは知的散歩である」という矛盾に満ちた言葉から、誰もが経験するジレンマや偶然性を鋭く捉えつつも、それをポジティブに解釈する力強さを感じさせます。また、「おたく文化」や「道徳」を題材にした章は、日本独自の文化的背景をユニークな視点で切り取りながらも、普遍的なテーマに昇華させています。
特に印象的だったのは、「人生に目的は不要だ」と語る部分。目標や計画に縛られることのない「生きることそのもの」の美しさを語る言葉に、共感と安堵を覚えました。この作品は、理想や哲学を語る一方で、私たちの日常や感情の揺らぎに寄り添い、時には背中を押してくれるような優しさに満ちています。読むたびに新しい発見があり、自分自身の心の中で思索を深めるきっかけを得られるのです。それが、この作品の最も魅力的な部分だと感じました。
例えばね、「嫌味」を人類で最初に発明した人は「哲学の祖」といっていいかもしれません(笑)。「嫌味」というのは悪い意味に捉えられてしまうかも知れないけど、正論では論破できない世界に光を与える部分があります。嘲笑、冷笑、皮肉、他者に向けられた言葉は、知的好奇心が強ければ強い程、最終的には自己に向けられてしまうのです。おわかりでしょうか、皆様。
さて、こちらのエッセイですが、タイトルの「落穂拾い」の意味を一考してから拝読されると楽しめます。
真っ先に浮かぶミレーの絵「落穂拾い」。案外知らない人も多いかも知れないし、見た事はあっても普通に見逃している人もいるかもだし、深くディープに考察している人はそれがどうしたなんてお叱りを受けるかもしれない(笑)。ちなみにこの絵はですね、私個人の解釈だと「鏡」なんです。それは時代や立場により解釈が幾らでも出来てしまう。貧しさを誇張した愚かしい題材とも言えるし、貧困による清貧を見る事も出来るし、権力者への挑戦とも言える。現代だったら食料問題かな?
そこでお気づきになられるかも知れませんが、こちらのエッセイはそういう「鏡」です。難しい事を考えてもいいし、身近な事を思い出してもいい、わからなくて嘆いてもいいし、誰かに相談してみるなんて「はなまる」かもしれない。
僕はそうした「知のきっかけ」を提示したモノに敬意を表する訳です。このレビューのタイトルはそういう意味でのやっぱり「きっかけ」を提示してます。色々考えられてみて下さい。
さて、お勧め致します。
構えなくていいから、空いた時間にふとお読みになられると楽しいかと思います。
皆様、宜しくお願い致します( ;∀;)