約束を果たしに

デッドコピーたこはち

第1話

 かつての母校はすっかり変わり果てた姿になっていた。野球部が白球を追いかけていたグラウンドは草が伸び放題になっているし、校舎の窓ガラスは開け放たれたままだった。たった一年でまるで異世界に来てしまったようだ。中学生たちでにぎわっていた校内は静けさに包まれ、見る影もない。だが、私はフルフェイスのヘルメット越しに、校内に潜むヤツらの気配と腐臭を嗅ぎ取っていた。

 自転車を校門前に停める。鍵を掛ける必要はないだろう。私は自転車から降り、自分の装備をチェックした

 ヘルメット、よし。ジャケット、よし。プロテクター、よし。革グローブ、よし。ブーツ、よし。ジャケットとグローブ、ズボンとブーツの間などもダクトテープでぐるぐる巻きにしてあり、皮膚の露出は全くない。

 紐を解き、自転車のフレームに括り付けておいたスレッジハンマーを担ぐ。ホームセンターに行って7000円で買ったものだ。ハンマーの頭は鉄製でかなり重い。バイクか自動車で来られれば楽だったのだが、エンジン音はヤツらを引き寄せてしまう。静音性という観点から言えば、自転車は最高の乗り物だった。封鎖区域の外からここまで漕いで来るのは少々骨だったが。


「マコ、今いくからね」

 私は卒業できなかった母校に足を踏み入れた。


 毎日通っていた昇降口のガラスはほとんどが割れてそのままになっている。私は散乱するガラス片を踏まないように気を付けながら、昇降口に入った。物陰に注意し、スレッジハンマーをいつでも振るえるように下駄箱の間を通っていく。

 ふと、横目に下駄箱を見ると『吉田香奈』の名札が目に入った。自分の名前。私は無意識的に通学の順路を辿っていたようだ。そこには、一年前まで履いていた私の上履きがあった。あの日私は風邪をひいていて、学校には行かなかったのだ。それが、命を救った。

 私の下駄箱から、視線を下に動かす。『山本麻子』。彼女の上履きはそこにはなかった。彼女はまだ、ここにいる。

 私の意識が追憶に呑まれそうになったその時、足音が聞こえた。右斜め前方、手洗い場の方だ。私は下駄箱の角から少し頭を出して、手洗い場の方を伺った。

「……うぁああああ」

 足音の主は、手洗い場の前の廊下をふらふらと歩き、呻いていた。この学校の学ランを着ており、胸に青色の名札を付けていることから、彼が一年生だったことがわかる。彼の顔は腐り、半ば融けていた。頭部には、頭皮の残骸と思われる黒い毛の生えた塊が乗っかっているだけで、白い頭蓋骨の一部が剥き出しになっていた。ワエラヒィ・ウイルス感染者――いわゆるゾンビというヤツだ。

 私は意を決し、スレッジハンマーを上段に構え、下駄箱の陰から飛び出した。

「ふっ!」

 彼がこちらに反応する前にスレッジハンマーを振り下ろす。渾身の一撃を受けた頭部が腐ったスイカみたいに潰れ、中身が飛び散った。返り血は思ったほどではない。彼はこの一年間で随分乾いてしまっていたらしい。

 力を失い、崩れ落ちる彼の身体を受け止め、ゆっくりと床に下した。他のゾンビに聞こえていないだろうか?私は耳を澄まし、辺りを見回した。……他の気配はない。

「ふーっ」

 私はため息をつき、ヘルメットの前面に付いた肉片と体液をグローブでぬぐった。

 ゾンビは正気だった頃の記憶を僅かに保っており、関わり深い所に留まろうとする。この学校にどれほど動けるゾンビが居るのかわからないが、音で気付かれて大量のゾンビに囲まれる状況は避けたい。

「ちょっとごめんね」

 私は小声でいい、彼の名札を外して手に取った。

 『一年C組 小林卓也』

 彼の家族はもしかしたら今も彼の帰りを待っているかも知れない――生きていればだが。彼の死を伝えるべきだろう。私はジャケットのポケットに名札をしまった。


 私は校内を徘徊するゾンビを倒し、名札を回収しながら、私たちの教室に向かった。

 『三年B組』の教室前まで来た私は、教室への扉が開け放たれていることに気が付いた。そっと中を覗くと、机や椅子が散乱し、赤黒い血が床にこびりついているのが見えた。だが、その中には誰も居なかった。

「ここじゃないとすると……」

 私は彼女が居る場所にもう一つだけ心当たりがあった。


 私は階段を上り、屋上に通じる扉の前に居た。扉には鍵はかかっていない。

 私とマコは人気の少ないこの屋上でよく一緒に昼食を食べたり、放課後集まって遊んだりしていた。屋上は私とマコの秘密基地だった。私は一度深呼吸し、ドアノブを捻って扉を押し開け――ようとした。重い。扉の向こうに何かが積まれているようだ。屋上に立てこもった何者かがバリケードを作ったのだろう。

 大きな音を立てることになるが、仕方がない。思ったよりもこの校舎の中に居るゾンビは少なかったし、そのゾンビも道中でかなりの数を始末した。ここで大きな音を出しても、処理しきれない量のゾンビが大挙して押し寄せて来るということはないだろう。

「はあっ!」

 私はスレッジハンマーを振り上げ、思いきり扉に叩きつけた。轟音と衝撃。扉の向こうで何かが転がる音がした。積まれていた何かの一部が崩れたようだ。私は身体を扉に押し当て、全身を使って少しずつ扉を押し開けていった。何とか人一人が通れる隙間を作り、私は屋上に出た。

 扉の前には様々なものが積まれていた。赤レンガ、プランター、シャベル……扉は私たちが入学する前に廃部になったという園芸部の遺産で封鎖されていたようだった。

 私は人の気配を感じ、扉の前から目を放してそちらを見た。


 彼女が居る。


 一年前と同じように、手入れのされていない花壇の縁に座り、グラウンドを見下していた。

「マコ」

 私の声に反応するように、彼女は振り返った。

「……ぁ……ぁ」

 白いセーラー服や黒いロングスカートはタダの布きれの残骸となっており、彼女の腐敗した身体をほとんど隠してはいない。ずっと、外に居たからだろうか。校内に居た他のゾンビより身体の損傷具合が激しい。こちらに近寄って来る動きも緩慢だ。顔はグズグズに崩れて、眼窩には黒い洞があるだけだった。

 それでも、名札を確認するまでもなく。確かにマコだと私にはわかった。こんなにどうしようもなく腐り果てていても、好きな人の面影があった。

「約束を果たしに来たよ、マコ」

 私はスレッジハンマーを構えた。この屋上でした会話を思い出す。

『わたしがゾンビになったら、カナが殺してね』

 マコはそういって笑った。ゾンビ映画を一緒に見た次の日の何気ない会話だった。まさか、本当に世界がこんな風になってしまうなんて思ってもみなかった。私たちはその後、学校でゾンビが現れたら、一緒にホームセンターへ逃げて、立て籠もろうなんて話をしていたのだ。

 あの日、私たちは一緒に居なかった。

「……ぁ……ぁ」

 マコがあらぬ方向に曲がった右足を引きずりながら、さらに近づいてきた。はっきりとした腐臭がフルフェイスヘルメットの中にも漂って来た。

「マコ、ごめん。一緒に居てあげられなくて、一緒に死んであげられなくて。本当にごめんね」 

 自分の頬に温かいものが流れているのがわかった。

「さよなら、マコ」

 私は、マコの脳天にスレッジハンマーを振り下ろした。

 

 私は自分の自転車にスレッジハンマーを紐で括り付けて、サドルにまたがった。私の手の中には名札があった。

『三年B組 山本麻子』

 私はその名札をジャケットのポケットに入れ、自転車を漕ぎ始めた。

 


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