最終話
目を覚ますと、海辺にいた。どこかで、いつか見た気がするけれど、思い出せずにいた。
私は砂浜に流れ着いた太い木の枝を杖にして、立ち上がり、波に向かって歩いた。
それほど歳はとっていないつもりでも、目がほとんど見えなくなっていた。
近いような遠いようなところに女子高生は立っている。
(今まで、ずっと一緒に、連れ添ってくれてありがとう)
でもここからは一人で歩ける。一人で歩かなきゃ。歩かなきゃいけないんだ。一人で歩いて、どこかに、たどり着かないと。たどり着いたと思えるところに、たどり着かないと……。
砂浜にタイヤの擦れる音が聞こえる。
私は海の方に手を伸ばした。
杖は音もなく倒れた。ふらつきかける。と、咄嗟に手で何かを掴んだ。
真新しい感触があった。
ぼんやりと、自転車の前の部分が見えた。
(自転車のハンドル……かな)
ずっと女子高生の後ろに座っていたから、グリップは想像していたよりずっと大きく重かった。もうサドルにまたがる力はないけれども、自転車を押して進められるのは、きっと反対側のハンドルを彼女が支えて一緒に押してくれているからだ。
結局、一人は無理だったな……全身全霊を込めて押しているけれども、ますます自転車は重くなった。
肩から、何かが覆いかぶさってきた。
私はそっとそれに手をやる。
私の肩に着せられているものは、懐かしい匂いがした。ずっと行きたかった高校の制服だ。
私はあの制服を、いま着ているんだ。
ブレザーを羽織っているだけなのに、お母さんやお父さん、妹を前に、パリッと着こなして、行ってきますと言っている気がした。
私はため息を何度も付くように、泣いていた。
先に涙があふれ出て来て、それから気持ちが高ぶった。
「いまから、いまから、学校、行っていいですか……?」
かすれた独り言に、誰からも返事はなかった。
私は自転車をおして、少しずつ進んでいく。砂浜の波打ち際に、細いタイヤのあとがついて、すぐに掻き消えてしまう。
……。
家の窓が開いていた。妹の布団は時間が流れていなかったように、白いままだ。女子高生は布団に寝転んで天井を見上げた。役目を終えた彼女は静かに消えていった。
……。
そして、私は海辺で我に返った。
彼女の瞳をどれくらいずっと見つめていただろう。
波の音が現実に引き戻す様に鳴っている。
女子高生が見せてくれた夢のようなものに対して、私は頭の中で、彼女に話しかけた。彼女の瞳の中で、私は必死になっていた。心に何かを灯そうとしていた。ボロボロの体になって握ったハンドルの感触は、まだ手に残っていた。
(どうしよっか)
心の中で話しかける。もちろん返事はない。女子高生は、この前みたいに人差し指で乗れ乗れともしない。
私は波打ち際まで歩いて、大きな伸びをしてから、女子高生と自転車のもとへ戻った。
彼女から自転車を奪うと、堤防の出口まで進んで、自分からペダルを踏んで、サドルにまたがった。
人差し指で、後部に乗れ乗れと合図する。
女子高生はゆっくり頷いて、私の腰に手をまわして座る。
今、彼女は何を考えているのだろう。
すっかり青空になった。海鳥が鳴いて、楽しそうにおしゃべりしている。
ギアも調整できるし、坂道でも疲れない、高級な自転車だ。とても遠い過去に、妹は、これで二人でどこへでも行けると、本当に喜んでいた気がする。
冷えた身体はまだ温まらない。
「制服、上から着させてよ」と思った途端、もうすでに肩から掛けてもらっていた。
私はそれを一度脱いでから、自分できちんと袖を通した。
あなたの制服 猿川西瓜 @cube3d
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