あなたの制服
猿川西瓜
第1話 妹と、現れし女の子
……やっと、妹が死んだ……と言っていいのだろうか。
戸惑いや寂しさと同時にホッとした気持ちがあった。
その日は何の変哲もない夜で、私の身体は適度にいつも通りだった。どこか遠くから、鈴虫の声が響いていた。
帰り道の空き地には、名前のわからない夏草が茂っていた。
長い散歩をした夜道を、たった一人の家族が待っていると思って歩く。そんな日々があった。
ストレスで吐きながら葬儀は済ませた。
やることがなくなってしまった。すべて、すべてにおいて、思いつく限りの、目標、指標、向上心さえも。つぎ込めるもの、全部を失った。
私は、ろくに学校へ行かず、制服を着ていたのは、中学のいつまでだったか忘れてしまった。
父や母はもういなかった。
身内にも、まともに頼れる人はおらず、私は頭が悪くて、公的なところへ相談するのも無駄だと思って、ずっとずっと家の財産を崩しながら、ただ、姉として、妹の面倒を見続けていた。
妹は雨の激しい夜、滅多に開けない二階の雨戸からベランダに出て、大声で怒鳴っていたことがあった。
トタンの屋根はネジが錆びてとっくに剥がれていたので、雨はベランダから部屋の中まで吹き込んだ。
遠くの山で、煙のようなものが立ち込めていて、これからさらに雨足が強まりそうだった。怒鳴って暴れて、錆びたフェンスを強く押そうとする妹を慌ててなだめた。
――何をそんなに怒っているの……?
四ヶ月前に桜並木の下を楽しそうな学生たちが自転車で通り過ぎて行ったことを、今、思い出して、妹は文句を言っているらしかった。私は妹といつか必ず二人で自転車をこいで、リュックを背負って、その中にお弁当とレジャーシートと水筒を入れて、両親のお墓に参ってから、帰りに……いや、ずっと帰らないくらい長く、ピクニックをしようと思っていた。テレビで観てた、散歩の番組みたいに。ゲラゲラ笑って、ほら、あんな風になれたら……。
私の頬には、その希望を妹に言いかけた時に強く引っかかれた傷が、まだうっすらと残っているのだった。
もっと前の、いつかの冬、妹の身体がとても冷えていた。心配になり、手袋や靴下を履かせようとするけれども、すぐに脱いで放ってしまう。後ろから拾っては履かせるのが、とても辛かったけれど、いまでは何だか懐かしいような感じがする。
心……というのは時間とともにどうなっていくのだろう。
家族が一人もいなくなって、とうとう一人になった時、私はこの二階建ての家のどこに居場所があるのだろう。
むかし、とてもむかし、妹や私には情熱があった。日々に喜ぶ気持ちがあった。でも、父を事故で失い、母を病で失って、妹は心を壊してしまった。心は砂に埋もれてしまい、どれだけ掻き出そうとしても、砂は砂の形になっていく。妹の心は砂に沈み、奥深くで、まどろんでいた。
「もういいや……」
と、私も妹も、どれだけ思いたかっただろうか。
世界から自分を切り離すことはできない。外を少しでも歩けば世界がある。
今日の、夏の静かな夜に、一人大きくため息をついた時、ほんの少しだけ何か熱い気持ちが灯りかけることがあった。けれど、妹はもういない。もう一度ため息を強く吐くと、妹が死んだことも忘れて、この声がどうか届いてほしい、と思う。「お姉ちゃんどうしたの」と、二階から声が聞こえる気がした。
亡くなる前の妹は、よく独り言を言っていた。両親の部屋に向かって、ちょこんと正座して、ぼそぼそと誰かに話しかけていた。私が部屋の中を覗くと誰もいなくて、正座していた妹は恨めしそうに私を見るのだった。
私は、部屋を一つ一つ、丁寧に片付けていった。
家というものは、こんなにも静かだったのだと、何度も思った。
一階の台所兼リビングの隣には両親が使っていた寝室がある。
開けっ放しにしているので、ふと目を向けた。
「うわっ」
と、久しぶりに自分の声らしい声を出した。
水色のシャツを着た女の子がそこに立っていたからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます