後編

 旧市街地と新市街地を分断する巨大な環状線。その隅に立っていると、シャドウグレーの浮遊車エアクラフト・カーが停止する。一見してただのセダンタイプの車両だが、中身は防弾性に富んだ企業幹部専用車に匹敵する装甲車だ。通常弾ならばライフル弾すらストップ可能な強化ウィンドウが下がり、露出過多のエプロンドレスを身にまとった女がリーファを覗き見た。


「お待たせです」

「大丈夫、待ってないよ」


 髪も瞳も銀色の従者ゾフィをねぎらい、リーファはドアを開けた。ゾフィが体をどかすと代わって座席に座る。身を沈ませる。ドアが閉じると、愛車は完全自動運転の命じるままに宙を滑り出した。

 卑猥なエプロンドレスから豊かな肢体をさらす少女の全身を眺めまわした後、リーファは頷いた。


「行き先は?」

「植物園です――ザイモン自然再現区ボタニカル・ガーデン

「よく調べたね」


「アメノハバの関連企業が管理する周囲一帯の交通システムを精査し、おしゃべりチィンワグを追跡しました。公的記録は対策済みでしたが、市民たちのSNS情報を走査。渋滞への不満、いつもはすぐに駆け抜けられる出勤路で仕事に遅れる、赤で止まりまくる。信号網にまるで誘導するような不自然な干渉結果を発見。あとは、その軌跡を追いかけました」

「上出来だ」


 褒めると、ゾフィは愛らしい反応をみせた。両肩を抱き、ふるふるふると震える。撫でられた仔犬のような仕草。


 一瞬、暗い影が運転席に差した。浮遊車エアクラフト・カーが架道橋を潜る。ゾフィが反応する前に、がつんという衝撃が車体を揺らした。

 天井から甲高い音がする。激しい火花が散り、装甲材が真紅に赤熱を始める。超高温のプラズマトーチが高張力鋼を焼き切ろうとしているのだ。車のAIが警告を発する。何者かが上にいる。


「追っ手か。気が付かなかったな。ボルトン、監視されていたのね」

「失礼します」


 打って変わって抑揚に欠けた声音で謝罪がされる。無頼な輩に会話を邪魔され機嫌を悪くしたのだ。主人であるリーファの言葉を遮り、ゾフィは銃を手に取った。愛用しているレールガンは車内で使うにはさすがに大きすぎると判断したのか、別の火器だ。

 ドラムマガジンを搭載したフルオートの軍用ショットガン。


 ゾフィが銃口を頭上に向けた。切断箇所に金属の指が差し込まれ、べりべりと持ち上げられる。天井の一部が缶詰の蓋のように切り開かれ、風が吹き込みごうごうと唸る。風穴からスリット型ゴーグルを掛けたサイボーグが姿を現した。違法改造を繰り返した、トゲトゲしい姿。元は溶接用サイボーグだったであろうならず者だ。


 途端、ゾフィは射撃を開始した。耳をつんざく発砲音に、自動で受信レベルが下がり精密な聴音センサを保護する。車内に発砲煙が充満し、視界が真っ白に染まる。呵責なく連続射撃される徹甲榴弾をたらふく胴体にくらい、頭上のサイボーグはキュバン系ニトロ化合物の透明な爆発により弾き飛ばされた。


 ドアミラー代わりのカメラが落下する姿を捉えていた。フロントウィンドウに投影表示される映像のなか、サイボーグは地面に激突するとばらばらに砕けた。

 リーファはコンソールを操作し、事故の可能性を検知し停止しようとする浮遊車エアクラフト・カーを走らせ続ける。


「いきます」


 開いた穴目掛けてゾフィが立ち上がり、軽々とした動作で外へ飛び出す。右手で後部座席に折り畳んでいたレールガンを掴むのも忘れない。車体は高速で流れている。外は風圧もかなりのはずだが、ゾフィは光ジャイロによりバランスを保ち態勢を崩すことなく直立した。


『後方に車両がふたつ。車両自体は非武装車ですが、搭乗者は火器を所持。こちらに向かって来ています』


 会話を無線通信に切り替えた警告が聞こえた。リーファがカメラを確認すると、追いすがる車がふたつ。身を乗り出した射手がライフルをかまえていた。

 この手荒いやり口はアメノハバ直属の兵隊ではない。企業傘下の軍隊というものは、もっとスマートなやり方をする。ということは、急遽雇った粗製乱造の傭兵だろう。


『任せても?』

『わたしを信頼してくださってかまいません』


 頭上から金属音がする。ふたつに折り畳まれていたレールガンが展開され、電磁ボルトが砲身をロックする音だ。


 小さな反動が車体を揺らし、ゾフィが跳躍する。車の後方カメラが彼女を追う。右手にレールガン、左手にショットガン。空中で銀の髪がひるがえっている。ショットガンから小口径榴弾が放たれる。破壊の奔流が追跡車両のフロントパネルに叩き込まれ、炎と鉄片が飛び散った。狙われた車両はコントロールを失い弧を描く。

 ゾフィはネオン掲示板を踏みつけ、潰し、三角飛びで再跳躍。レールガンから高圧によりプラズマ化した侵徹体をぶっ放し、もう一両を微塵に吹き飛ばす。


 アスファルトを削りながら着地するゾフィ。彼女の姿が離れていく。防音壁とクラッシュしていた一両目から、サイボーグたちが這う這うの体で出てくる。容赦のない榴弾の嵐が、ショットガンから彼らに浴びせかけられた。


 リーファが増速を命じると、浮遊車エアクラフト・カーがさらに速度を引き上げる。ここから先は、単独行動だ。



◇ ◆ ◇


 小破した浮遊車エアクラフト・カーを玄関ターミナルに乗り捨て、リーファは白亜の建物を目指す。

 巨大なカタツムリを何匹も連結させたかのような造りだ。入り口の大型ディスプレイには「休館中」の文字がうろん気に浮いている。ドアの開閉センサに干渉。自動ドアを開かせる。誰にも出会うことなく、建物に入り込んだ。観光客もスタッフも守衛もいない。アメノハバが手を回しているのか、敷地内には人の気配がなかった。


 濃厚な緑の臭いを、嗅覚センサが感知する。熱帯植物が織りなす回廊がそこにある。


「逃避の先に、ずいぶんとロマンティックな場所を選んだものね」


 リーファは拡張現実オーギュメント・リアリティに案内図を呼び出し、施設の建設目的を確認する。ざっと目を通すと閉じた。ザイモン自然再現区ボタニカル・ガーデンは、新市街地の外れにある。大破壊以前の貴重な種子や草花をかき集め、地球上のあらゆる自然を再現しようとする地上人の涙ぐましい努力の結晶の地だ。


 老いた医師の行き先にしては、繊細で感傷的な場に違いない。ここに何があるというのだろうか。


 がらんとした建物内に、ただリーファの足音だけが響く。

 迷わず進む。常人では気付かぬ手掛かりがあるからだ。リーファの反射型レーザー変位センサは、リノリウムの床についたわずかなへこみを検出する。大重量のサイボーグが通った足跡。この重さは軍用のものだ。それも、複数。植物園に来るには、いささか剣呑な連中に違いない。


 足跡を辿り、第三回覧場に入る。


 視界が開けた。見渡す限り同じ色。足元が麗しい瑠璃色の花々で満たされ、鏡のように地上の色を反射する空もまた青一色だ。だが空を染めるその鮮烈な青は、人工照明が模倣した群青の輝きに過ぎなかった。


 カタツムリの殻部分。ドーム状の建物であるここは、天窓から光を取り込む内部公開空地アトリウムを思わせる。

 ただただ広大な地面だけが本物であり、作りものの太陽に照らされる植物たちは健気にも花開いている。だがそんな花たちも、自分たちがメリクロン培養で無限に増やされたコピー品の群れであることまでは自覚がないだろう。


 瑠璃唐草の花畑に、白衣の男を取り囲んだ異形の集団がいた。


 まるで旧時代の戦闘機パイロットが着込んでいた、飛行服めいた衣装に身を包んだ一団だ。中心には痩身の男が跪いている。彼らがリーファの姿を見咎め、気色ばむのがわかった。


 花を踏みつけぬよう設けられた遊歩道に沿って進み、リーファは一団と対峙する。


「そちらのご老人。少し、話をさせてもらっても?」


 彼らは答えなかった。緊張を漲らせるのみだ。


 促され、跪拝するように花々の香りを嗅いでいた白衣の男が立ち上がる。男は壁のように立ちはだかる異形の一団の陰に隠れる。垣間見えたのは、糸杉のように痩せ老いたアジア系。人相はグッドシェパードから提供されている。眼周囲が完全一致。眼のまわりは、生半可な変装ごときではごまかせない個人を区別する重要な部分だ。リーファの脳内にダウンロードされた顔認証ソフトフェイス・リコグニションが、白衣の男が件のエドワード・チャンだと示している。


「下がっていたまえ。ここに来たいという望みは叶えてやったが、まだ、約束のパスコードを教えてもらっていない。死なれると問題だ」


 合成機械音。異形の一団の指揮官格らしき男がエドワード・チャンを庇うように位置する。バイザーに覆われた頭部からは、表情は伺えなかった。

 リーファは彼らの正体に心当たりがあった。

 全員で四機いる異形たちが、大腿部から大型ナイフを引き抜く。バッテリー駆動された刀身が震え、瞬時に熱を帯びた。純然たる戦闘サイボーグである彼らの速度ヴェロシティでは実体弾は役に立たないのだろう、高速振動剣ヴィブロブレードだ。

 力尽くでくる。貴重な軌道へ至る鍵だ、彼らが素直にエドワード・チャンを引き渡すはずがなかった。無論リーファとてそのつもりではあった。


『障害を排除するぞ。機関出力全開。兵装制限を解除。演算処理をミリタリー・レベルに移行せよ』


 リーファの脳が、彼らの暗号無線を傍受する。軌道貴族オービター・ヴェスタの電子的な支援を受けるリーファは、一瞬のうちに総当たり解析ブルートフォースを終えて暗号を復号デコード

 間違いなくアメノハバ重工業ヘヴィ・インダストリアルによる通信プロトコル特有の癖があった。


 異形たちの装甲の一部が解放され、花弁アイリス状のパーツがせり出す。大重量のボディが、ほんのわずか地面から浮き上がる。


『全機脳内の加速装置アクセラレータのゲージをマックスに引き上げろ。冷却を考慮する必要はない。あの女、黒後家蜘蛛ブラックウィドウ蘭 麗華ラン・リーファだ。黒社会ヘイショーホェイの暗殺者、軌道貴族オービター・ヴェスタの走狗。油断すれば死ぬぞ――点火イグニッション!』


 異形の男たちの姿が掻き消え、瑠璃色の花々がパッと散る。炎色反応を示す紫の残光が虚空を焦がす。企業秘の個人搭載型イオンスラスタ。ブロックノイズといった形ですら捉えられない。亜音速機動に入った高機動ハイマニューバサイボーグが、視覚認識できない速度で接近してくる。


 千切れた瑠璃色の花が、頭上高く舞う。


 相手は最上級の戦闘サイボーグだ。それが四機。出し惜しみはできない。


 リーファは戦闘システムを立ち上げる。視界の中であらゆる物体が虹色をなびかせる。皮膚感覚が無限に肥大する感触。運動性能を司る神経系を励起。脳内物質の強制過剰分泌と電気的刺激により体感時間が引き延ばされ、実時間と乖離する。刹那の判断が数多分岐しひとつの答えへと収斂し始める。


 脳以外のすべてを機械化したリーファのみに可能な、超高速演算による思考加速。ゼロ時間への没入トゥウォード・ゼロ――それは、ほぼ未来予測に近い。


 螺旋が四つ。襲来に備える。


 リーファは花が好きだ。ただ在るだけで美しいから。花々をそれ以上傷つけぬよう気遣いながら、一歩後退する。


 大気に熔断痕が刻まれる。指揮官が放った斬撃が、鼻先を掠めて通った。


 ヘッドドレスがちりちりと焼き切れ、風に吹かれて飛んだ。断熱圧縮により高温を身にまとった高機動サイボーグが眼前にいる。

 その動きが、四肢の駆動が、センサの作動が、ジェネレータの脈動が、すべてが予測できる。リーファが搭載するライダー・センサ・システムは、ドップラー効果により対象物へ照射されるレーザー光の周波数変化を測定し位置算出を行う。つぶさに彼らの動きを読んでいたため、紙一重で避けることができた。

 思考加速を上乗せした反応速度向上による即断回避だ。


 残り三機も急速接近。


 赤熱する刃が次々と繰り出される。すべてが熱いナイフがバターを容易く溶かし切るように身体を熔断するだろう。受ければ終わる。身をひき、あるいはくるりと回り、ステップを踏み、優雅な演舞を続け、演算が出力するままに躱す。

 真紅の軌跡が空を切る。高熱が大気の水分を沸騰させる。

 連携攻撃が来る。一撃目は陽動。指揮官の斬撃を免れても目的の空間に誘導される。そこは回避の袋小路だ。だが予測すれども避けるしかない。半歩身を下げ振動剣を躱す。


 続くのは二機による同時攻撃。


 リーファを中心軸に二重の弧が描かれる。渦だ。回転が収束し、両サイドから同時に斬撃。リーファは片膝を付き、拝礼するように頭を下げ躱す。頭上を二筋の赤光が閃く。ゴスロリドレスがはためいた。高速機動が生じさせた熱と突風が全身を揺り動かす。生残と破滅とがせめぎ合う死の舞踏ダンス・マカブル


 戦闘システムが激しい警告を発する。チタン製の頭蓋のなかでレッド・アラートが鳴り響く。超高速演算の過剰負荷により脳神経が焼き切れようとしているのだ。計算可能時間は残り二秒足らず。


 動きを止めたリーファに、絶対必中を持って四撃目の刺突が背後から迫る。


 だがそれは、待ち望んだ動きでもあった。高機動サイボーグの乱数機動を思考加速による解析能力が上回り、リーファはついには彼らの未来すら幻視する。

 

 最後の刃が自分に届かないことを、リーファは知っている。


 物理的な速さで負けているのは事実だが。


 両腕を交差。左右の五指、合わせて十本の指先を複雑に編む。指揮者のように戦域をコントロールする。致死的な巣穴を構築。あとは、蜘蛛の糸に絡め取られた彼らが毒牙に食まれるだけだ。未来予測の前には速さなど無意味。速度なぞ一顧だにしない。ナノ・セコンドの寸暇すら与えるつもりもない。単分子繊維モノフィラメント・ウィップの刃が縦横無尽に張り巡らされ、必滅という名の網の目に敵対者すべてを捕縛する。


 指先を握り込む。


 リーファの得物は一本で数百キロ、より合わせれば重サイボーグどころか主力戦車すら完全停止させられる強靭な繊維だ。刃として振るえば分子間結合に干渉し、あらゆるものを切り刻める。


 だから、手応えすらなかった。瞬時に高機動サイボーグたちを引き裂いた。


「これが黒後家蜘蛛ブラックウィドウの力……! 神代の怪物め」


 呪いの言葉が聞こえる。指揮官の断末魔だ。

 機械油と装甲片、そして千の断片と化したタンタルカーバイド合金の骨格が周囲を舞う。サイボーグの残骸が驟雨のように降り注ぐなか、リーファは立ち上がる。戦闘システムを停止。脳を酷使しすぎ、さすがに眩暈を覚えた。煮えた脳を冷やしつつ、ゆっくりと歩を進める。


 宙へと散っていた瑠璃唐草が、はらはらと地に落ちた。


 エドワード・チャンはもう逃げなかった。諦観と満足が入り混じり感情が凪いだ顔つきをしている。グッドシェパードから渡された画像とは真逆の表情だった。穏やかな微笑みを浮かべながら、花畑の中心に立っている。枯れた古木のように。忘れさられ苔むした墓標のように。

 老いた医師は手に持っていた瑠璃唐草の花束、その甘やかな香りを深く吸い込み味わう。眼鏡ごしに作られた人工の視界は、しかし、もっと本質を見ているようだった。


 自然をなるたけ再現し、太古の昔のままに花開かせた花々よりもずっとずっと甘い声でリーファは囁く。


「思い入れがある花なのかしら?」

「まだ私が地上人だったころ。妻とここに来たことがあるんだ」

軌道貴族オービター・ヴェスタは地上に降りることを許されない。神話の時代から、神に仕える神官たちは身を捧げる必要がある。空に聳える階段を上ることは、楽園への片道切符と同義語だ。もう一度ここに来るためだけに、あなたは軌道の秘密をアメノハバに漏らそうとした」

「全身硬化症で妻は亡くなった。もう十年も前のことだ。天の技術でも治療は不可能だった。私は力になれなかった。まるで半身を喪失したようで、とても悲しかったよ。でも、日々が過ぎるうちに、私の傷ついた心は癒えると思っていた」


 瑠璃色を懐かしむように撫でる。ほんのわずか、深い皺の谷間に悲嘆が覗き見えた。エドワード・チャンは述懐する。


「だが、傷がついた心が癒えるというのは、忘却と同義語だった。年々、妻の記憶が遠くなる。彼女がどんなふうに微笑み、慈しみ、そこにいてくれたのかすら朧げになる。悲しみすら遠くなるんだ。まどろみのなかに消え去ってしまう」

「人の記憶は、いずれ忘却フォーマットされる。それは自然なことよ」

「しかし、記憶はデジタル媒体よりも容易に復号デコードされうる。人の脳とは、そういうふうにできている。なぜなら思い出もまた傷ついた心を慰めてくれるからだ。ここに来て、瑠璃唐草の香りを楽しめば、私の衰えたシナプスがもう一度繋ぎ合わされると思ったんだ」


 懐古のなかに出会いを果たしたかのように満面の笑みを浮かべ、エドワード・チャンは花束をかき抱いた。


「ここは、たしかに彼女の匂いがしたよ」


 無言のままリーファが振るった単分子繊維モノフィラメント・ウィップが、エドワード・チャンの首を切断する。その速さは、神経の伝達速度を圧倒している。エドワード・チャンは痛みすら感じることなく即死した。

 痩せさらばえた老人が倒れる音は、ひどく軽かった。瑠璃色の花々が遺体を優しく受け止める。脈動する心臓の鼓動に合わせ、動脈から血が断続的に噴出する。

 瑠璃色を鮮血に染め上げると、死の鼓動はやがて治まった。


 リーファは葬送に参列するように沈思黙考したまま、亡骸に傍だった。転がり落ちた頭部を拾い上げる。薄い髪を掴んで見れば、エドワード・チャンの笑みは凍り付いたままだった。表情からは死への恐怖は微塵も感じられなかった。


 成したいことを成し遂げ、行きたい場所へ行けたということか。


 生首を、斃れてなお花束を抱いたままの胸に置く。


「時の果てまで、お幸せに」


 踵を返す。微風に吹かれ、優しい匂いが漂った。花の香りが、エドワード・チャンという老人の。生き続けてきた魂を証明する指紋アルゴリズムフィンガープリントだったのだろうか。末期に己を顧み、存在証明を求めるのは人として当然のことだ。自分が人間であると信じるリーファは、感傷とは無縁ではない。


 深く瞼を閉じる。

 花の香りは、もう感じられなかった。


 リーファは脳内で通信アプリを起動し、暗号通信でグッドシェパードを呼び出す。


 依頼は完了した。



◇ ◆ ◇



 ふわふわの褥。情熱が去っていったあとの息遣いが聞こえる。ゾフィの体温を肌に感じながらリーファはまどろんだ。体内で無数の歯車と歯車が噛みあい、蠢き、膨大な計算式により人間の複雑性を再現し、球状の関節構造により繋がれた躯体を持つリーファだが、皮膚からもたらされる感覚は生身の人間を忠実なまでに再現している。

 だがその外見は、まるきり人形であり、人間とは程遠い。


 機械じみた人間と、人間じみた機械が裸体をさらしシルクのなかで体温を交換し合う。

 植栽された金の髪を梳かれる感触。眼が冴えていく。


「今日はずいぶん、求めるのですね」


 朱唇をほんの少し開き、艶やかな声音でゾフィが言う。温かな吐息。熱がこもった湿り気。投げかけられた視線と同じ色の美しい銀糸の髪が、柔らかな乳房の上でとぐろをまいている。リーファが作り上げた最高傑作の独身者の機械マシン・セリバトゥールであるゾフィは、人間そのものに見える。

 だが、彼女の体内で蠢くものを知ったとき、ゾフィを抱いた者は正常でいられるのだろうか。無菌培養された蟲の筋肉を駆動系アクチュエータとし、腐敗防止の生温い循環液が巡っているゾフィの正体を。リーファがいくら傷つけようとも、そのなめらかな肌は生きた皮膚のように再生し続ける。ナノ・スキン。体表面に常在している極小のマシンたちは体温を電力へと変換するゼーベック効果の発電により、機械的な寿命が尽きるまで活動するからだ。


 ゾフィは常に美の極致にある。創造者アーキテクトであるリーファが生涯をかけて造り上げた最高傑作。永遠の乙女。人への愛が充溢する被造物。


 だがゾフィは、究極の美女ではなかった。


 嗜虐心に火が灯ったリーファは、染みひとつないゾフィの柔肌、幼さを残しながらも膨らんだ胸の先端に歯を立てた。馥郁ふくいくたる肉の香りが嗅覚センサを刺激する。


「あうっ」


 可憐な叫びをゾフィがあげた。リーファは満足を覚える。名残惜し気に歯を離す。傷口から真紅の体液が流れ落ちる。独身者の機械マシン・セリバトゥールの循環液は、人造筋肉の腐敗を防止するためにヘモグロビン混じりの赤色だ。真っ白い肌についた歯型を、朱い舌先で丁寧に舐め回す。ぬるい鉄錆の味がする。指先をもっとも心血を注いだ秘めやかな箇所に刺し入れる。そこは、熱かった。声に出さず、脳内の通信デバイスを起動。ゾフィのシリコン製基盤ウェハーに並んだ記憶素子にアクセス。


 管理者権限を使い、雪のように白い内面を蹂躙しくす。


 被造物が両目を見開く。舌を犬のように伸ばす。痴れ者のように相貌を崩す。たっぷり時間をかけて攻めると、独身者の機械マシン・セリバトゥールは痙攣しながら果てた。だが快楽の底に沈みながらも、本質的に機械であるゾフィの意識は乱れていないことがリーファには手を取るようにわかった。


 すべてはソフトウェア上の出来事だ。


 リーファは慰めを求めるように、おもねるように口を開く。


『私は私の指紋アルゴリズムフィンガープリントを探している』

『……存じております』

『でも、昔日を昔日で塗りつぶしてなお、見つからない。それは本当にあったのだろうか』


 かつて、ある創造者アーキテクトがいた。無垢な少女も、練達の娼婦も、愛を詠う詩人も、蠱惑的な夫人も、あらゆる人造美女を探求したその男はけっして満足することはなかった。こんなものはまやかし、贋作にすぎぬと。

 やがて男は結論を得た。究極の美女というのはたぶんに男性的概念であると看破し、男は男性の脳を保ったまま美女の肉体を得る必要があるという真理に。


 男は至ったのだ、此岸から彼岸パーラミターへと。たしかに蒙が開けた。


『わたしは、あなたの傍に寄り添い続けます』


 いたわりを込めゾフィが呟く。


 だが男が得た世界には、魂の軌跡を証明するものはなかった。かえって疑問が渦巻いた。今ここにいる私は、果たして本当に私であったのだろうか。


『だから私は探している。全人類を襲った電子的災厄。大破壊カタストロフのなかに消え失せてしまった私の遺伝子マップを。あれこそが、私の魂の存在証明なんだ』


 従者をもてあそぶのを止め、リーファは仰向けになった。ゾフィが造物主の寵愛を求め身を寄せる。暗い部屋のなかで、天井を見る。グッドシェパードから成功報酬として送金された通貨クリプトの総額は満足いくものだった。気前の良い彼が使える主、古の宗教時代のゴッドのようにザをつけて決して呼ばれぬ存在。遥かな天には軌道貴族オービター・ヴェスタが地上を見下ろしている。彼らもまた従属しているに過ぎない。

 何者かが天空から地上のすべてを手中に収めようと、策謀している。


 ――そこに、私の魂はあるのだろうか。

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贋作師 うぉーけん @war-ken

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