第9話
久しぶりのすっきりした朝だ。
迫っていた不安を解決したので、安心して枕の香りを楽しめる。窓からの日差しは遅めの角度になっていた。小麦が焼ける匂いが混ざった頃に、起き上がって着替えを済ませた。
「おはよう」
春花は久しぶりの安心しきった笑顔で扉を開けた。マリが用意する朝食を見て、お腹を鳴らしている。マリは扉が開く音と同時に、盛り付けた膳を運んだ。
「おはよう。今日はご機嫌ね」
目の前のにやにや顔につられてマリも微笑んだ。
テーブルの中央に大きな皿を置き、その上にトーストを積んでいく。この皿は深めで温めてあるので。下のほうに積まれたトーストが冷める心配なく上から食べていける。
トースト以外の、バターや生ハムなどは手元の小皿に分けられている。もっと必要になればすぐに追加できる準備もある。調理台jに生ハムの原木が鎮座するお立ち台と。その隣には肉切り包丁が目立つ横向きに立てられている。
春花は食べる途中で手が遅くなった。ついさっきまではあった空腹が、普段の半分を少し上回ったところで弱々しくなった。それでいて、満腹のときとも違う。お腹の空間にはまだまだ余裕がある。
「なんだか食欲がおかしいなあ」
春花はこれまでもやや下がり気味だたのを気にしないていた。危機が迫るストレスのせいだと思ったのだ。しかし今日は解放されている。それでもまだ食欲は弱いままだ。
マリはその理由を知っている様子で口を開いた。
「けっこう早かっらね」
疑問を浮かべる春花の目を見て、ゆっくりと説明をした。
魔女の体質では、細胞が持つ機能のうち自己の破壊をしなくなる。つまり、何もしない間の細胞分裂がない。そうなると食事も日々の修復に使う分だけになる。もし完全に傷つかずにいられるならば、何も食べずにでも生きられる。
慣用句の「霞を食べて」もここに由来していたのだ。
ただし、水だけは変わらず必要だ。見えずとも常に発散し続ける。それと生命の源だとか言うが、マリも正確なところを理解しておらず、説明からは曖昧だとのみ伝わった。
話を受けて思い返すと、マリはいつも食事が遅かった。春花を眺めるだけで満たされていた。それだけではなく、実際に食事が不要だったのだ。
それじゃあ、食事は。盛り付けていたはずで、捨ててもいない。空になった器を見た。
マリは食器に仕掛けたからくりの種を明かした。底が大きく盛り上がっている。しかも場所と角度を、春花が座る向かい側からは見えにくいようにを偏らせていた。
こんな仕組みがあって、洗うときも気づかなかった理由を探した。上げ底の端に見つけた切り欠きのあたりを押すと、くるりと回って普通の深さになった。
「ところで、だけど」
マリは話題を変えた。まだ小細工について聞きたかったが、続く話題は春花にとっても重要なので、続きは別の日でよくなった。
壁の大穴を隠していたカーテンをたなびかせて風が入ってきた。先日の人災の後始末のうち、最も大きなひとつが残っていた。
「玄関はひとつだけでいいよね」
穴が大きいので、修理ではなく新たな壁を作ることにした。その材料をどこから用意するか、春花には心当たりがある。
「あの余ってる竹を使おう」
「竹を。斧を用意してからかしら。それとも鉈がいいかな」
「マリさんは、ウォータージェット切断をご存知かしら」
こんどは春花は説明をする。言葉選びのうち新しい専門語を言い換えるつもりだったが、それほど難しい言葉を使わずにすんだ。杞憂だった。
ウォータージェット切断とは。まず小さな穴から水を噴出させる。この強い水圧が目の前にある物体に当たり、その力で切断する方法だ。ただの水とはいえ、水圧次第では金属も切断できる。
本領を発揮するのは、熱に弱いものを切断するとか、火花を出せない状況だ。
例えば、握り寿司の工場で大きな塊を細く切っていく際にも使っている。
「へえ、最近は便利になったのね」
「これも結構前の話ですよ。十年とか」
春花が計画や他の準備をするうちに、マリも新たに呪文を書いた。久しぶりの追加となる。
その甲斐あって、順調に竹を切っていった。
まずは膝ほどの高さで切り倒す。その円筒形をもう一度、今度は断面が半円になるように切っていく。竹の内側にある、たまに節で区切られた空洞が開かれていく。
それを春花に渡して、内側に残った節を落とす。長いアーチ型になった竹を並べて、互い違いになるように噛み合わせていく。外側になる竹の隙間から雨や風が入り込んだ分を内側で受け止めて、下に流す。
十分な大きさになったら前後から挟んで固定した。
壁に開いた大穴のすぐ外側に。まずは足元に穴を掘ってから、垂直に立てかけた。そしてその穴を埋め直す。上部がうまく壁の残りと外側の隙間に挟まっていると確認し、固定か完了した。
外観のうち一箇所だけが竹の壁になってしまい、しかも内側に回ると大穴は残ったままだ。いささか不格好にも思えたが、それも共同作業の結果として納得できた。
「春花ちゃんのおかげだよ。ありがとうね」
「えへへ。もっと馴染むようにしたいけど、しばらくはこの感じかな」
春花の自信ない言葉を受けながらも、マリの思案は別の答えを見つけた。
「この穴を少し改造して飾り棚にするのもよさそうだね」
マリは過去に日本家屋で見た、円形の飾り棚を伝えた。詳しい名前を確認していないので、家主の部屋だったとか、内側の格子に皿を飾っていたとかの情報を提示した。春花もそうした説明で何となく想像できた。
「いいかも。この大きさで飾るものは、何にしようかな」
少し考えて、いま求めているものがわかった。
「お腹がすいちゃった」
先の話にあったとおり、体力を消耗すると回復のために空腹になる。春花はそう理解していたものの、思ったより早かったので少しだけ驚いた。
「お肉にしようか」
マリは倉庫から鉄板を運び出した。まるで竈門を金属製にしたような移動式の鉄板を炭火で熱して、その隅で小さな鉄板も同時に熱している。
こりゃあずっと待たせていたとっておきに違いない。春花は直感した。
鉄板が暖まった所に、冷凍室から出した塊を乗せた。激しい音と共に匂ってくる。サーロインのステーキだ。
春花は初めて眼前にした巨大な塊をまずは目で楽しんだ。赤と白の塊が徐々に見覚えある色にk近づいていく。見知った焼き肉の大皿を上回る量を、しかも大きいままで焼いている。
手元サイズの鉄板に移して、その鉄板を木の板に載せる。こうして運びやすくして、いつもの卓まで運んだ。
「召しあがれ」
「いただきます」
左右の手で食器を握った。フォークで左端を押さえて、ナイフを前後させて切る。線維が音を立てて離れていく。あまり慣れない手つきで、力加減を探る。押すときか、引くときか。指先からの感覚が、引くときの振動を見つけた。筋肉を構成する、細く密集した柱が千切れたと伝える触覚だ。
進歩こそしているものの、なかなか最後までは切れずにいる。うっかり切りにくい線を狙ってしまい、苦戦している。
「はじめて?」
「うん。テレビや本で見たことはあったぐらい」
力を込めたり緩めたり、かける方向を調整していって、ようやく切り離した。左手を持ち上げて顔へと近づけていく。次はもういくらか小さく切ろうと考えながら、口いっぱいに頬張った。
歯と歯ですり潰すときはナイフよりもわかりやすい感触で
秘めていた汁が絞り出されて、舌に絡みつく。触れた味蕾から、これこそ動物の肉だと教える情報が脳へと送られていく。液体を飲みながら肉の塊を細かく砕いていく。
鼻腔へも刺激が届く。煤に似た刺激があり、それでありつつも心地よい。胸が躍る。まだはじめのの一口めだというのに、すでに満足が始まっている。
ただひとつ満足から遠く離れた胃袋だけが次を求めて、他の部位もそれに同調して求めている。さながら通りすがりの紳士淑女が困っている子供を見つけた時のように、気にかけながら自らの役目を探り動いている。
まだ熱いままの鉄板から上半身にも熱が伝わってきた。汗が浮かぶ。ナプキンで拭う。水を飲む。
ナイフを動かす間は口がお留守になるので、会話を弾ませるチャンスになる。
「このお肉、こればかりは自家製じゃなくて、どこかで買ったのでしょう」
「そうね。保存が効くようにして売り歩いてる子がいるのよ。ほとんど嗜好品だから、そのひとつとしてね。長期保存は大前提で、そのためのあれこれを用意してる子」
「買うって、お金で?」
「いいえ、必要なものは限られてるから、呪文の燃料を直接だね。あとは物々交換もときどき」
「で、この肉は訳ありですごく安くしてくれたの。調理が済んだら普通の肉と同じなんだけど、その前の見た目だけはひどかったね。偶然、目の前で荷車から落ちてさ」
マリは饒舌に話した。迫真の語りに、春花は血の匂いを想起した。
話の中でひとつ、生きた状態で運んでいたのか、加工してから運んだのかだけは、触れる気配がなかった。春花の想像では、興味がないように見える。血抜きだとか皮を剥ぐとかの話が出ないので、すでに加工されていたと考えるほうが有力だった。
「それじゃあ、運ぶのも大変だったでしょう」
「ところがどっこいしょ。幸運にも雨の日だったから、わたしの呪文でちょちょいとね」
マリが扱う水の魔術を活用するにあたって、雨の日は絶好の天候だ。
多少の無茶をして蒸発しても次が無尽蔵に供給されていく。そんな日なら、重たいものを運ぶにも消耗を抑える部分が不要になる。燃費がさらに改善されるのだ。
春花と出会ったのもまた、雨の日だった。
あの日は公園を通りがかったころに雨が降り始めて、そのまま雨宿りをしていた。水たまりを門にして空間を繋ぐのも膨大な負荷がかかる。なのであの門を開けるのは必ず雨の日だ。
「なんだか運命的」
春花は深い息の後でしみじみと呟いた。
「雨の日って。いいよね。人気はいまいちだけど、そのおかげでいいところを独り占めできる」
沈黙を楽しむときが始まった。ソファで体を寄せる。肩にもたれかる。背中をさする。
いつもこうしていた気がする。それと同時に、すごく久しぶりのような気もする。お互いに情を確かめ合った。
「眠くなっちゃった」
春花は呟いた。気分は充実した日の夜だが実際は、まだ夕方にもなっていない。空は青いままだ。
昼寝だったら、このままでもいいか。春花はソファで肩を寄せて、少し眠った。
マリはその寝顔を眺める。自然と口角があがる。髪のいくつかが口にかかっていたので横に流す。
やがて、一緒に眠った。
起きたと同時に。
春花の脳細胞にひとつのいい考えが浮かんだ。辞典にひとつあったものを使う。ここまでの話を思い出して、まとめていった。魔女は体が壊れるまで食事が入らない。
水は飲む必要がある。多くの自然物は味方する。特に植物は長い付き合いである。マリと出会う前にどんな状態だったか。
これらを総合して、春花が考えた安全の地をマリに伝える準備をした。
きっと、そうだと思い当たった。
マリは長い長い時を生きてきたと聞いている。そうなると春花以上に求めているに違いない。
ふと改めて壁を見てみた。
離れれば見えないでいた、傷を補修した跡を見つけた。一部が壊れて、付け替えた形跡がちらほらと見つかっていく。木の板をよく見ていくと、そっくり似た色や模様に、年輪の様子や目の方向が違う部分を見つけた。
規模が小さい様子なので、ただの経年劣化に見える、それでも修繕の手間は確実にかかっている。
加えて先日のように、何かを企てた誰かが話も聞かずにやってくるかもしれない。聞こえた話によると、初めてではないそうだ。
身を守る術がほしい。誰にも気づかれな
い場所か、守りやすい場所か。とにかく安心できる、なおかつ安全な場所が。
そこにいるとわからなければ攻めようがない。ならば、そこにいないように見せる方法はなにか。
外に出て確認するべきことがある。正確な確認は後にして、記憶の限りでは水源の場所はそこそこ近い。進めていこう。予想通りならば十分な状況が整っている。
あと考えるべきは、
仮に受け入れられなくても構わない。
呪文を書いておけば、別の機会に使えるから、無駄になることはおおよそない。
まずは大樹を建てる。その中に埋まるように閉じこもる。
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