第2話

「マリさん」

「なぁに?」

「呼びたくなったの」

「うふふ、春花ちゃんはかわいいね」

「えへへ」


 2人は朝食を食べ終えてからもずっと、ソファで体を触れ合わせていた。

 お互いに渇望していた人肌との触れ合いを味わった。そろそろまたお腹も空いてくる。

 マリはこのときも見据えて、春花を迎える準備をしていた。

 時間をたっぷり使えるように、調理なしですぐに食べられるものも少ないながら用意している。

 安心して2人は互いを求め合うのだった。


「そういえばマリさん。どうしてあれもこれも準備が整っているの?」

「そりゃあもちろん、春花ちゃんと一緒に幸せになろうって所に、水を差されるのは嫌だからね。お迎えする準備をしておいたんだよ」

「私のことをそんなに?」

「そうだとも。わたしはかわいい子が幸せな顔を向けてくれるのが好きなの。これは大事だから、何度でも言うよ」

「うれしい。大好き」

「わたしも大好きだよ。あ、そうだ」

 マリは顔を向かい合わせた。

 鼻で息をしても顔にかかる間近で、目と鼻と口を正面に捉えている。


「おはようのチュウは、まだ早いかな」

「もうお昼だし、私は普通のちゅうが先にしたいな」

「それでは失礼して」

 春花の背中を両手が引き寄せた。

 肩甲骨の真ん中を優しく押しただけでありながら、吸い込まれるようにすんなりと動いた。


 これは出会った翌日の出来事だ。にもかかわらず、下調べの甲斐あってすっかり打ち解けている。

 たどたどしい水音を奏であった。


 マリの舌はごく浅い所を丹念に這いまわった。前歯の外側に始まり、犬歯の大きさを確かめる。凹凸の少ない、滑らかな歯の感触を味わった。歯茎との境目に見つけた食べかすをつついてどこかに落とす。


 それぞれに時間をかけるので、春花はたまらず押し返して、今度は舌を送り込む側になろうとした。それを皮切りに、マリも本気を出した様子で身を乗り出した。横並びに近かった2人が次第次第にと上下の並びに近づいていく。


 春花はこそばゆい感覚に身を震わせ、より強く抱きついた。目尻から感極まった雫が滲んでいる。

 ついにはソファと背中が触れ、同時に脚の先まで震わせた。


 呼吸が落ち着くまで放心してから、静かに口を開いた。


「マリさん。選んでくれた準備を見て回りたいな」

「いいとも。はなまるをお願いね」

「家の探検だ」

「すごく綺麗だよ」


 先に立ち上がったのはやはりマリだ。

「その前に、お昼ごはんにしましょうね」

 マリは調理台の棚から大きめの椀と木製の匙を出した。

 続いて瓶を、大きな袋をと並べていった。


 コーンフレークだ。椀に出し、牛乳を入れる。たったこれだけで準備が整う食卓だ。山盛りで2杯を用意したら、まずは瓶と袋を元に戻す。

 ソファで待たせた春花に渡して、その隣に座った。


「いただきます」

 両者とも、大きなひと口で頬張った。

 フレークのざくざくした食感に紛れて、いくつかのドライフルーツがさらりと崩れた。胃袋は食べ物の存在を知ると暴れ始める。口の中にまだ少し残るうちに次のひと口を運び込んだ。


 再びざくざくと音を立てる。その傍のドライフルーツは数種類が混ざっていて、それぞれが違った食感を持っている。味覚に波を作るので繰り返しても飽きることがないのだ。

 口の中が少し余裕ができるたびに匙から補充が届くので、黙々と椀の中身を減らしていった。次に言葉を発したのは、春花がひと通りを食べ終えてようやくだ。


「おいしい! フレークがこんなにおいしいなんて知らなかった」

「よかった。一緒にいるおかげかな」

 春花は残る牛乳を飲み干した。

 すぐに抱きつきたくなったが、手元を見て今は堪える。マリが持つ椀にはまだ半分ほど残っていた。


 顔に翳りを浮かべたように見えた。マリは椀の持ち方を変えて匙を抑えて、

「おいで。よく食べる子は好きだよ」と空けた片手で抱き寄せた。

「怖がりさん。ぜーんぶ安心できるようにするからね」

 春花は黙ったままで、撫でられる手と連動する、椀の中でかすかに揺れる匙を見ていた。


 食べ終えたので、家の中の探検を始めた。

 春花の部屋から近い場所からと思ったが、先に今いる部屋、居間を見ることにした。


 すでに使っていたので、目新しい見所は限られている。

 まだ見ていないひとつ、冷蔵庫を開けた。

 整った並びかたで、量が見えるボトルはどれもたっぷり残っている。

 特にマヨネーズはまだ未開封だ。


 春花のためにと言っていたので、新しいものを揃えたとも思える。

 それを裏付けるように、製造日を確認できるどれもが1ヶ月以内の日付を記していた。少し古いのは半分ほどまで減っているケチャップのみ。トーストと一緒に食べたように思った。

 食材は野菜を中心に、広く少しずつ鎮座している。

「これね、裏の畑で採れたんだ」

「自家製ですか」

「せっかく簡単にできたからね。お肉がないのは物足りないかもだけど」

「魚もいろいろ並んでるし、充分すぎるくらいですよ」

「やさしいのね。かわいいなぁ!」


 マリが後ろから抱きしめるので、冷蔵庫を閉じながらバランスを取った。

 

 2階にある春花の部屋に戻り、近い場所から順番に案内した。

 まずはすぐ隣にある部屋。

 ここは何かと思っていたら、扉を開けたらすぐにわかった。

 トイレだ。


 春花はこれまで、集合住宅に住んでいた。トイレは全員でひとつを共有するのが当たり前で、友人の家に遊びに行っても同じだった。

 集合住宅は、外からの見た目よりずっと狭い。同じ階に2世帯や3世帯が並んでいるし、共用部も広く取ってある。その分の手入れを管理組合に任せられるが、春花にはあまり実感がなかった。


 思い返すと、一戸建ての間取りを見たことがなかった。階段があるのは共用部か、そうでなければ大きな施設だけだったのだ。


 この家は散歩道で見たような、木造の2階建だ。春花の記憶にある大きさと比べて、特筆して大きいわけではない。むしろ小さい側のような気もした。

 それでも中から見てみると、開放感のある広い空間だ。


「その顔。春花ちゃんは階ごとのトイレを知らない感じかな」

「どこにもあるのですか」

「珍しくはないと思うよ。今まで見た家にはどこでもあったから、わたしもそう作ったんだ」

「こういうのは初めてです。なんだかすごく嬉しい」

「かわいい子の喜ぶ顔はもっとかわいいよ。わたしまで嬉しくなっちゃうなあ」


 腕を絡ませて隣に移った。その部屋には何もなかった。

 窓には雨戸がはめられていて、明かりなしでは薄暗い。

 家具を置くでもなく、物置でもなく、しかし掃除はされているようだ。


「この部屋はね、春花ちゃんにやりたいことができたときに、好きに使っていいよ」

「お部屋とは別にってことですか」

「そうそう。作業部屋とか、気持ちを切り替える部屋とか欲しくなる日が来ると思ってね」

「うーん、あんなに広い部屋があるのに、もっと欲しくなんてなるかなあ」

「広さじゃないのよ」

 マリは後ろから抱きしめた。ちょうど春花の肘を押さえる形だ。

「かわいい子を捕まえたぞ。どうかな」

 春花はもぞもぞと動き、振り解けなかったと確認した。

「窮屈だけど、そこが気持ちいい」

「でしょう」


 すぐ前にも抱擁を交わして、この部屋でもそうした。

 部屋を見せるたびに体の感触と合わせて覚えていく。2人ともがこの状況に気づき、照れ笑いで語りあった。


 これで2階の部屋は全て確認したので、そのまま部屋を出て、階段へ向かった。まっすぐ南向きの窓から射す光を俯いて瞼で受け止めた。


 改めて1階に降りた。

 目の前にある玄関を含めて扉が4つあるうち、知らない扉が奥に2つある。

 片方は少し見ただけで満足した。浴場だ。

 焚きかたと道具類を確認するだけで、これ以上みるものがない。凹字形の椅子がひとつだけ置かれていた。


 最後に案内された扉は、居間の隣でトイレの向かいにある。

 扉の位置からいかにも広そうだ。先に見ていた空っぽの部屋の真下なので、すぐに想像がついた。

 屋内の扉ではここだけ、鍵がついている。縦向きで波打った鍵穴は、本来の鍵以外で強引に開ける難易度が低い。しかもマリは、廊下の角に置かれた植木鉢の下から鍵を取り出した。


 春花が向ける怪訝な目に気づいた。

「危なっかしいと、思ってるでしょ」

「そりゃもう。今どきは誰も、こんなことしないですよ」

「さすが、よく知ってるね。だけど」

 鍵を春花に渡した。

「試しに開けてみて」


 鍵穴に鍵を入れた。

 指先に力を入れる。しかし鍵は回らない。向きを間違えたかと思って、反対に力をかける。それでも鍵は回らない。中で何か柔らかいものが詰まっているような感覚があった。

 一旦、鍵穴から引き抜いた。


 すると鍵の先に、どろりとした液体がまとわりついて糸を引いた。

 この鍵は中心に小さな穴がある。

 春花が驚くよりも早く、白い粘性の液体が鍵の持ち手から噴き出して、手首まで掴んだ。咄嗟に指を開こうとしたが、その時にはすでに、さながらゴムの袋を被せられたように押さえられた。


 つまり春花は持っていた右手を開けない状態で鍵穴に繋がれてしまったのだ。

「びっくりしたでしょう。もしもわるいこが忍び込んでも、こうして捕まえちゃうから安心してね」

 マリは発明家のようにはしゃいでいる。


 この白い液体は、主の手に撫でられると、掴んでいた手首を離して、元どおりに鍵穴の中へ戻っていった。

 改めてマリが鍵を回し、植木鉢の下に戻した。

「またびっくりさせちゃったね。よし、よし。もう大丈夫だよ」


 春花の手を握る。

 春花は胸が熱くなっていた。

 これまで味わった経験がない、新しい感覚だ。マリがその気になれば、自身をああして繋げたままにもできる。そうなったら何が起ころうと選択肢は自分の外にあり、選ばれたものを受け入れるのみだ。


 それは危険な状況のはずなのに、なぜだか春花を魅了する状況だ。私はどうなってしまうのだろう。この手を引かれた先に何が待っているのだろう。

 想像が膨らんでゆくが、その正体を探るのは後にして、部屋の中へ入った。


 入って真っ先に目についたのは、数々の棚だ。

 本棚、書類棚、工具掛け、材料箱、そして洋服箪笥。

 あれやこれやの道具を使う準備が整っている。

 作業台も大きく、使いこまれた形跡があった。

「何か作りたくなったら、相談してね。道具や材料をいっぱい用意してるよ」

「けっこう広いから、そのときは手伝ってくれる?」

「もちろんだとも」

 マリは誇らしげな微笑をたたえた。

 ここまで春花のあれこれに対し、いくらでも寄り添う準備と言葉を整えてある。まさに至れり尽くせりだ。


「あと、あっちの扉は」

 情報が多い部屋を見せたので、春花の目線を導いた。

「裏口だよ。虫とか動物もいるから、十分に気をつけてね。あと開けっぱなしも厳禁。カーテンも含めてね」


 あまりに見るものが多いので、ひとまずは目につく工具を確認した。

 裁縫やその他の織物に関わる道具が手前にある。これが多いのだろう。

 それだけ確認して部屋を出ることにした。


 その直前に気づいた、作業台の反対側にある、棚の隙間を通ってみた。他と違って、すれ違うのも困難な狭い道だ。

 のれんを潜った先には寝台がひっそりと横たわっていた。


 周囲となる三面を棚の背面と壁で包んでおり、作業台で扱ったものが飛び散る事態を防いでいる。

 同時に暗い空間にして眠りやすくしているようにも見えた。

 この家では整った状態ばかりを見てきたが、この寝台だけはシーツが斜めになり、角のひとつは床に触れていた。


 春花はシーツと掛け布団の隙間に、パジャマらしきイチゴ柄を見つけた。

 ひっそりと愛しい気持ちになった。マリさんにもこんな一面があるんだな、と。


 その心境を伝える前に、玄関から扉を叩く音が聞こえた。

 ただのノックとは違った2回だ。1回目は十分な音ながら、2回目は一気に小さくなった。ドアノッカーを持ち上げて、ただ落とした音だ。

 この家にはドアホンがない。誰が来たかを確認するには、窓から見るしかないのだ。


「念のため、隠れてて」

 春花の耳元で囁いた。

「ずいぶん前だけど、かわいい子を強引に連れ出そうとする人が来たことがあるの」

 裏口にも鍵があると示して、マリを見送った。


 不安になったものの、すぐに賑やかに話す声が聞こえてきた。

 内容こそあまり聞こえなかったが、顔馴染みらしき雰囲気の笑い声が聞こえてきた。


 なんだか退屈になってきたので、裏口の先を覗いてみた。

 真っ先に見えたのは生い茂る植物だ。

 半分は森林で、もう半分はよく見ると畑になっている。

 畑への獣道ができているので、歩く機会が多いようだ。


 サンダルを履き、外へ出てみた。

 見た目通りの硬い足触りだ。

 砂利がいくつか混じっていて、足を動かすと同時にザラザラと音が聞こえてくる。


 裏口を出た近くは土が露出した広場になっている。その隅には公園みたいな蛇口が見えた。

 この位置関係から推測した。まず収穫した作物をここで洗ってから家に入れる。

 そして裏口の場所はマリの部屋にある。調理場からは遠い。つまり、食べる以外の何かもあるように思った。


 少し離れたら振り返り、家の裏側を見た。

 2階に窓がふたつ。

 場所は内側から見たのと同じで、隠し部屋は無さそうだ。


 目線を下げていくと、地面の近くにある通風口が目を引いた。

 マリの部屋にある作業台の位置で、この高さは床下に通じているように見える。

 近寄って覗き込むと、奥こそ見えないものの、指を入れれば届きそうな範囲には下向きの角度がついていた。


 きっと地下室がある。

 先の感覚と合わせて、どんなものが用意されているか想像した。

 もしも檻があったら。誰も気づかないであろう場所の、しかも地下に囚われたら。

 地上に匂いは届いていない。

 再び胸を熱くした。恐ろしいはずの想像が、マリの顔を思い浮かべると、それでも受け入れられるような気がしている。


 意識を目の前に戻した。

 こうなると時間ばかりが過ぎてしまう。

 それを知っているので、気づいたらすぐに想像を切り上げるようにしている。


 見る先を求めるのもあり、畑へ歩いてみた。

 虫がいると聞いていたので、足元にも注意を向けて、ゆっくり歩いた。

 短い草が生え始めてきた。足の前半分で踏んで止まった。まだ畑は遠いものの、少しぐらいは見える。


 手前には背の低い、おそらくは野菜の葉が見えた。鮮やかな粒が小さいながらも見えたので、収穫が近いかもしれない。

 5月や6月ごろの野菜といったら、カブを思い浮かべた。他にはどんなものがあるか、収穫されるのが何なのか、楽しみだ。


 じっと見ていると、どこからか聞こえる水音に気づいた。

 耳を澄ますと前から聞こえてくる。広い川を思い起こす、ゆったりした流れの音だ。

 目を動かしていくと、植物の色をしていながら輪郭が直線になった何かが見えた。

 水音と合わせて、それは橋と予想した。

 これが正しいかどうか、確認する気は起きなかった。続く道は草が伸びていて、サンダルで歩くのは危なすぎる。それでも少しは気になるので、腰で目を動かし、その場から見ようとしてみた。

 確信にはまだ届かないが、視界を左右にずらすと太さが少しだけ変わる様子から、ここから直線に近い位置関係で並んでいるとわかった。


 もっと遠くに、同じく直線の何かが見えた。

 こちらは離れてもなお大きく見えるので、高さは春花の肩か胸かに相当するようだ。

 幅はさらにずっと大きいように見えたが、縦長に並ぶ色違いが見える。隙間を開けて並んでいるほうかもしれない。

 これ以上は近づいてからにしよう。

 春花は足を下げてから方向転換をした。


 その時、右脚のふくらはぎの内側に、何か柔らかなものが当たった。

 赤くて、細長くて、うねうねした姿。

 ヒルだ。

 すでに左のふくらはぎに噛み付いている。まだ小さいので、噛まれてからの時間は短そうだ。


 春花は深い呼吸をして、対処法を思い出した。

 まずは確認だ。

 服のポケットを、サンダルの内側を、スカートの裏を。

 幸い、登ってきたのはまだ1匹だけのようだ。

 他のヒルがこれから増えたらたまらない。


 走らずに急いで家へと引き返す。

 足を上げる度に周りの地面を確認しながら歩いた。

 指先を舐めて風向きを確認した。

 家に向かう状態では微かな追い風になっている。これなら呼吸は草むらに届かないだろう。

 どれだけ有効かはわからないが、ヒルが獲物を探す方法は二酸化炭素の濃度だと聞いたことがあった。


 裏口に着いた。

 改めて他のヒルがついていないと確認した。

 ヒルの大きさは気づいたときの2倍まで膨らんでいた。


 マリの部屋を出て、居間にある調理台へ向かった。

 必要なものは冷蔵庫で見つけている。


 マヨネーズを取り出して、再び裏口へ向かいながら封を切った。

 スカートを持ち上げ小脇に抱えて、ヒルを包むようにマヨネーズをかけた。

 冷たいドームになった。しばらくすると、中から微かな動きが伝わってくる。

 やがてヒルの体が表面に出た。

 そこを狙って、封をしていたビニールでマヨネーズごと取り除いた。


 屋内に戻り、今度は浴場へ向かう。

 残りのマヨネーズを洗い落とすのと、もうひとつ。

 ヒルが注入した毒を搾り出すのだ。

 すぐ近くの水道を使おうとも思った。しかしここは、もしかしたら水質が違うかもしれない。

 だから確実に体に使うための浴場を使う。血を落として汚したくないので、下で受け止めるように押さえながら歩いた。


 春花は知識として知っているだけで、試したことはなかった。

 搾るべき量がわからなかったので、とりあえず上下左右をつねって止血を待つ。

 その間もシャワーの音が続くので、マリも異変に気づき、立ち話を切り上げて駆け寄った。


「何かあったの」

「ヒルに噛まれたんです。ちょうど血が止まったところなので、もう大丈夫」

「大丈夫って、ヒルはどこに?」

「とりあえず裏口の前で捨てちゃった。あとマヨネーズを勝手に開けちゃいました。このあとで掃除もします」

 シャワーヘッドを元の場所に戻し、手を洗ってから水を止めた。

 マリと抱擁を交わすためだ。

 すぐに理解し、応えた。震えている背中をさする。


「もう大丈夫だよ。何が来ても守るから」

「怖かったよう」

「強い子だね。それにとっても物知りだ。さみしい思いをさせて、ごめんね」

「いまは、もう嬉しい」


 落ち着くまでは存外に早く、呼吸の音で伝わった。そのままで落ち着かせる抱擁から愛を示しあう抱擁に移た。

「春花ちゃんはこのままお風呂でゆっくりしておくれ。掃除はわたしがしておきます」

「じゃあお言葉に甘えます」


 春花が脱衣所に戻り、その間にマリは裏口を出た。

 通り道となる部屋で小瓶ひとつを手にした。

 土色の上にマヨネーズはよく目立つ。出てすぐに見えた塊から少し糸を引き、その先に件のヒルがいた。ふっくらとした体には春花の血がたっぷり詰まっている。


 瓶を回しながら、ラベルに蛇行して書かれた呪文を指でなぞった。

 最後までなぞってからヒルに向けて瓶を開ける。すると中に入っていた水が飛び出し、ヒルの体を包み込んだ。


 体内から血液を絞り出して、血混じりになった半分が瓶に戻ってきた。

 残りの半分はヒルを森林へと運び、役目を終えたらただの水として土に吸われていった。


 蓋を閉めて、瓶を部屋にしまう。

 元の置き場所の下に、材料を入れておく引き出しがある。

 手前に横並びにした瓶を数えて、右端に置いた。

 浴室ではそろそろ春花が寛いでいるころだろう。


 ひとつ問題に思い当たった。

 ヒルに噛まれたならば、当然ながら出血している。

 その状態で風呂に入るとどうなるか。

 傷口から菌が入り込んだり、そうでなくても水中では出血を止められないじゃあないか。

 ヒルへの対処ができた春花なら、こっちも知っているに違いない。

 

 ほとんど自分が傷つけてしまったも同然だ。

 それだけに留まらず、おかしな対処を口走ってしまった。

 その動揺を見透かされて、気を遣ってくれたのではないか。そうだとしたら、一瞬で3度の失態を重ねたことになる。野球だったら攻守交代だ。

 

 部屋の扉の前から浴場の扉を眺めた。耳を傾けてしばらく待つ。水音が聞こえた。

 心配は杞憂に終わっているか。


「湯加減はどうかな」

 扉越しに声をかけた。

「いい湯です。温かいし、お話ができるのはうれしい」

「よかった。わたしも春花ちゃんが無事でうれしいよ」


 マリはほっとひと息をついた。

 言いようのない不安に駆られた所を、交わす声が落ち着かせてくれる。

「マリさん」

「なにかな」

「一緒に入りましょ」

 返事が遅れたので、先に春花が続けた。

「なんだか少し、寂しい感じがしてきたから」

「すぐ行きます。つくづく、春花ちゃんはかわいいな」


 脱衣所に追加の籠を出し、服に指をかけた

 その間に、つまり脱衣所でもぞもぞしながら済ませておきたい話題がある。

 湯船に持ち込むのは穏やかな話だけにしたかったのだ。

「さっきの人はね、いつものお客さんだったよ。また織物の依頼をしにきたって」

「あの作業台の使い先ね。何度も来る方なら、私も挨拶したほうがいいかな」

「そだね。来週も取りに来るからその時にね」

 

 服をまとめたので浴室に入った。

 さっそく春花が腕を絡めようと伸ばした。驚きながらも受け取り、反対の手で濡れた頭を撫でる。

「いきなり、どうしたの」

「今日のうちにいっぱい味わっておかなきゃ。明日は作業をするんでしょう」

「大丈夫、わたしだもの。でも今日もいっぱい味わわせてあげちゃうぞ。水も滴るかわいい子だものね」

 少し狭くなった湯船に並んだ。

 上がる前に、追い焚きしたくなった。

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