第3話



 春花が体を起こしたときを見計ったようにノックの音が聞こえた。

「おはよう。今日もかわいいね」

「おはようマリさん」


 マリは寝台に乗り上げて春花を抱き寄せた。薄手の寝巻きと薄手の部屋着が触れ合う。摩擦で袖が捲られて、露出した手首同士はさらに柔らかな感触を互いに与えた。


「マリさん、今日は長いのね」

「お腹がすくまで、こうしていたいな」

「今も空いてるけど」

「もう一度お腹がすくまで」


 マリはいつになく多くを求める様子で、春花は喜んで応える準備ができている。1人で抱え込む辛さをよく知っている。頼り、頼られ、共に乗り越える経験をこれから積んでいく。その第一歩にもちょうどよかった。


「今日はどうしたの?」

「よく考えて。このあと待ってるのは作業だよ。てことは、先にかわいい分を補充する必要があります」


 春花が返事を言いあぐねていると気づき、言葉を追加した。

「砂漠を旅するときに水分が足りないと干からびてしまうのと同じで、わたしもかわいい分が足りないと干からびてしまう。そうでしょう」

「ごはんも食べなよう」

「かわいい分が先なの」


 マリお得意の言いくるめにも感じたが、春花はそんな言い草も気に入っていた。とにかく優しくしてくれる、愉快なお姉さんだ。


 春花が立ち上がったところで背中に顔を押し付けた。身長差はわずかなので、膝を曲げてもまだ歩ける。マリはその状態で大きく息を吸う。

 春花はまだ着替えていないので、寝ている間の汗が染み込んでいる。

 その芳醇な匂いがマリの鼻腔を満たしていった。「はぁーーー」と悩ましげに声を漏らす。

 小さな声ではあっても、すぐ近くにある春花の耳まで届けるには十分だ。顔が熱くなった。


 その一方で、春花の下半身を内側から押し広げる感覚があった。

 膀胱に一晩中ためていた尿意だ。

 これをマリに、どのように伝えたものか悩む。が、黙っていては掴まれたままだ。今はまだ大丈夫なものの、こうして悩んでいる間にも広げる力は強くなっていく。

 変に湾曲した言葉にしても仕方がないので、直接の言葉を使うことに決めた。


「マリさん、私」

「どうしたのかな」

「おしっこしたくなっちゃった」

 言いながら目線を泳がせた。


「そんな顔もかわいいね。ここで出しちゃってもいいのよ。お片付けは簡単だからね」


 マリは魔女だそうなので、水がまるで動物になったように動かせる。春花にも見せていたので、たしかに簡単なのだろう。見ていたどれもがもっと多くの水を動かしていたので、必要となる燃料も誤差程度にすみそうではる。だからと言って小水にまでそんな扱いをするとは思っていなかった。


「だめだよ、きちゃないです」

「じゃあ飲んじゃおう。それなら一時的にも汚れないよ」

「もっとだめ」

「仕方なしか。はやく戻ってね」


 春花は便座に座りながら、パンツを確認した。少し漏れてしまったような気がしたが、内側を見て、外側から触ったところ、気のせいとわかる。胸を撫で下ろした。

 落ち着いて考えると、マリが言った内容は、これまでの春花は考えもしなかったことだ。オムツでもない服に排泄するとか、ましてや口を開けた中になど。


 仲を育んだとはいえ、こんなに深く、春花が知らない世界まで誘うとは思わなかった。昨日までは素振りも匂わせもしなかった。躊躇いがまるでない、当たり前のような言い方をしていた。

 そんな出来事があったら、考えはやがてひとつの言葉にまとまった。。


 これは氷山の一角に違いない。

 これから日を重ねるうちに、さらに想像もつかないことを言い出す。必ず言い出すと確信した。この考えが正しくなければ、楽なままでいられる気がした。


 けどもとりあえずは、そのときに備えて心の準備を少しでもしておく。

 結論と同時に膀胱がすっきりしたので、滴を拭いて流し、手を洗った。


 居間へ向かう足音が聞こえている。追った春花を待っていたのは、両手を広げたポーズで立ち、動きを止めたマリだった。

 近寄って見つめると姿勢を維持する僅かな動きが見えた。異常ではないようだ。

 とりあえず広げた手に噛み合うように腕を絡ませた。それと同時にマリも腕を閉じて強めに抱きしめた。


「何をしていたんでしょう」

「春花ちゃんにも、いろいろな嗜好を知ってほしいなと思って。わたしのスタチュー・パフォーマンスはどうだったかな」


 名前を言われても、春花にはどの部分のことかわからなかった。静止した状態で立つことか、近づいたところで抱き寄せることか。スタチューというのだから、どちらでも想像に違わない。


「いきなりでびっくりしましたよ」

「なんだか今日はちょっと遠いなぁ。言葉からもそんな感じがする」

「そうかなぁ」

「聞いて改めたでしょ」

「否めないところ」


 朝からあれこれあったものの、その後は普段の習慣に戻った。

 唯一の違いは朝昼の間での食事になったことだ。おしゃれな言い方をするとブランチとなる。

 後始末は備え付けておいたメモ書きの呪文をなぞるだけで済ませられる。

 そのおかげですぐに作業に移れるのだ。

 これは体力の消耗が少ない利点であると同時に、目の前にいる春花からすぐに離れる結果にもなる。かといって今更、手動で洗うつもりもないので、名残を惜しみながらいつも通りにすませた。


 居間を出る前に振り返った。

「春花ちゃんを暇させちゃうの、やだな」

 マリの言葉に、初めて春花は反論しようと思った。

「やっぱり明日にしようかな。そうしたら今日のうちに、暇つぶしを探しに行けるし」

「じゃあ今日はさ」

 春花も立ち上がって駆け寄った。

「見学しても、いいかな」

「もちろんだとも! 一石二鳥だね。うれしいな」


 マリの表情が一気に明るくなったので、つられて春花も笑顔をこぼした。

 椅子が足りなかったので、食卓椅子のひとつをマリの部屋まで運んだ。マリが動く空間の四方を、作業台、ホワイトボード、棚、そして春花に囲まれる形になる。

 どの方向を向いても用事があるものが目に映るのだ。


「おっと、もう少しこっちに来て」と春花が座る場所を調整した。

 作業台の透明マットを持ち上げて、呪文が書かれた紙の隣に、依頼を受けた文書を並べた。

 楔形文字の読む順番を示すように貫く中心線が、2枚の紙を跨いで繋がるように置く。マット越しに指を添えて、蛇行した長文をなぞっていく。

 文末まで到達すると同時に、棚のそれぞれに用意されたボトルの液体が飛び出した。ただの水と同じ色をした粘性の液が、呪文の影響でさらに粘度を増して、必要な材料と道具を持ち出していく。

 そのひとつが春花の足元近くを通った。もし最初に椅子を置いてそのまま座っていたら衝突していた。


 駆け回る粘液が持ち上げたものを作業台に並べていき、すべて用意し終えた様子で元のボトルに戻っていった。

 いよいよ作業を始めようといったところで、マリは「小休止ターイム!」といきなり叫び、春花の鳩尾に顔を埋めた。

 左右の肘を座面に置いて、尾骶骨をさすっている。

 急なことだったので春花はとっさに手を開き、頭と背中を撫でた。

 大きな呼吸音を聞かせて、匂いを充分に味わったら、すっくと立ち上がり作業台へ向かった。



「何が始まるんです」

「巻きスカートだね。今回は染め物をストックから出して、あとは縫うだけになってる」

「これも以前に言ってた、魔法の燃料が関わるやつですか」

「そうとも。頼まれ物のときはいつも、わたしのより材料が少ないんだ。だからこうしてすぐ出せるように蓄えてる」



 会話を弾ませながら型紙を生地に貼って、切るラインを描いていった。

 使い回しやすいように硬めの紙を使っているし、固定具は滑り止めつきの磁石を、生地の一部で裏へ回り込ませて挟む形になっている。

 曲げる内側の傷みがまだ少ない様子も見つけたので、新調したばかりで何度も使うつもりだとわかった。

 描き終えると生地から外して、目線は机に向けたままで、雑に放り込むための棚に放り込んだ。

 ここは上と左右が開いたU字型の、まるで傘の水滴を落とすときと兼用していそうになっている。

 いつもの楔形文字が書かれているので、あとで元の場所に戻すのだろうと想像がついた。

 裁ち鋏で余分を切り落としていく。

 捨てる部分を最低限に抑えているので、ここまでの作業は会話よりも先に一区切りがついた。

 ミシンに乗せていつでも動かせるところで、マリの手が止まった。

 しばし考え込んだ様子を見せてから、思い立ったように春花のほうへ向きなおった。

「今日はおしまいだ!」


 腰へ手を回して抱き上げる。

「かわいい子離れをして長時間なんて耐えられない」

「長時間って、まだ夕方にもなってないよ」

「おやつの時間にしよう。ティーターイム!」

 作業中に見せていた真剣な顔とは打って変わって、朗らかな語りを始めた。


 冷蔵庫からケーキを取り出した。

 小さな皿に、柄のうさぎが見えるように乗せる。

 そうして常温での解凍を待つ間に、湯を沸かして、紅茶の準備を始めた。

 ヤカンにいっぱいの水を入れて、いつものIHヒーターに乗せる。

 その隣にティーカップを用意する。

 保管庫の蓋をあけて、袋に小分けの茶葉を出す。

 まだ時間があるので、先にフォークとスプーンをテーブルに並べる。


 春花へと微笑みかける。

 その頃にはヤカンがそこそこな熱さになっていた。

 いきなり熱湯を注ぐと負担に負けたカップが割れてしまう。

 なので紅茶を淹れるときは、先にカップを温めておく。

 マリが読んだ本にはそう書いてあった。

 今の温度で大丈夫かどうかはぶっつけ本番だ。

 ゆっくりと注いでいった。

 湯気がまだないので、とりあえずは大丈夫そうだ。

 カップの様子を気にかけながら、ヤカンを再び熱する。

 カップの側面や底を触っていく。

 次第に温かさが伝わってきたので、とりあえずはよしとした。


 春花へと微笑みかける。

 口を開こうと思ったところでヤカンが笛を吹き始めた。

 カップの湯を捨てて、ティーパックを入れて、改めて熱湯を注ぐ。

 これで準備が整った。

 テーブルに持っていき、いよいよ春花と向かい合って座った。


「ティータイムをしたことはあるかな」

「いえ。マリさんも?」

「そうなの。つい最近、いろいろ用意できたおかげで、こうして楽しめる。嬉しいよ」

「私も、うれしい」


 春花は手でカップを包んでいる。親指の付け根で側面に触れたり離したりを繰り返す。紅茶はまだまだ熱い。


「マリさん、気になったことがあって」

「お、銘柄かな」

「いえ。電気がどこから来ているのかな、と」

「それはもちろん自家製だよ。水力発電機があるからね」

「家の中や外には見えませんでしたが」

「そりゃそうでしょ。川で使うんだもの」


 家の中と外よりもっと遠くがある。改めて言うまでもないことだ。しかし春花は見落とした。この家と見える範囲だけですべてが完結するような気がしていた。

 それはどこの誰よりも暖かく迎えてくれたおかげではある。だからと言って、ひとつに依存するのは危なすぎる。そう知っていながら、その危険を冒したい欲求も確かにあった。


「あー、そういえばそうですね」

「いろいろ珍しいものを見せ続けたから、常識を疑うようになっちゃったかな」

「そう、かもですね。常識ついでに、このケーキも自家製?」

「それは買ってきた。大きなケーキ屋さん・ラセンマル、春花ちゃんの近所だし、聞いたことはあるんじゃないかな」

「ああ、あの。広告は見たことあったんですが、これがそうなんですね」

「そ。おいしいよ。召しあがれ」


 フォークで三角形の先を切り分けて、口へと運んだ。

 ホイップクリームとチョコレートソースが混ざった、柔らかな甘さが口に広がった。歯を押し付けると外側のスポンジ生地が受け止めて、先に間のクリームが押し出されていく。噛む数が5度にも満たないうちに飲み込んだ。次の一口を入れる前に、今回はできることがある。

「おいしい!」

「でしょう。喜んでくれてよかった」


 談笑を交えながら味わう甘味は格別であった。

 舌から鼻からの甘い刺激と、耳から目からの穏やかな刺激が混じり合う。それらの合流点で生み出される、混ぜ合わせた結果の充足感を、さらに新たな材料として混ぜ続けていく。時と共に4代目5代目と材料が増えていき、やがて皿が空いてもまだ味わい尽くすまでの時間を愉しんだ。


「おっと、ついお話ししてたら日が傾いてきましたが、続きの作業は」

 春花の心配をよそにマリは楽観的な返事をした。

「明日と明後日があるからいいの」


 この一言に納得し、2人は寝る時間までケーキの品評会を続けた。一致した見解は『チョコレートを含むフルーツは、3種類以上を使うと味が曖昧になる』だ。


 風呂を済ませてあとは寝るところ。

 春花の部屋にマリもついてきた。

 寝台は2人でも十分な大きさなので、腕を絡ませあったままで転がりこんだ。薄い服の2枚だけを挟んで、なだらかな曲線が触れ合った。ごく小さな隆起が巻き込まれると、反射的に脚が内向きに跳ねる。

 首の後ろに手を触れてから頭を降ろした。髪が体の下に挟んでいないと確認したのだ。隣でも同様に済んだと手を握りあって確かめた。

 暗い部屋には空気の流れもない。


 顔を合わせてお互いに小さく頷く。

 この合図で世界を2人だけのものにした。普段は聞き逃すような、呼吸と心臓の音も大きく聞こえた。


 マリは手を開いて、中指がぎりぎりで春花のへそに触れた。

 掌をゆっくりと滑らせて、腰にある骨の隆起を小指で見つけたら、再びはじめの場所へ戻っていく。

 春花も負けじと手を伸ばし、マリの肋骨の凹凸を撫でていった。


 聞こえていたふたつの音が大きくなる。姿勢を変えるときには足元の側から湿った音が聞こえた。

 まるで生まれついてからずっとそうだったかのように、思考が、そして欲求が重なりあう。

 寝台に入ったのは早めだったが、眠りにつくのは遅くなった。

 布団と枕に汗を吸わせて、そのまま眠った。


 朝日を見て目を覚ました。

 先に起きた春花が窓に背を向けているマリの膝を揺すった。

 指が絡まっていたので、脚を側面から押し付けて、回すように揺する。その触れ合う感覚を愛しみながら起きるまで待った。マリは目を閉じたままで、されるがままにしていた。

 なかなか起きてこないので、春花は動きを止めて、脈と呼吸の確認をした。大丈夫、ちゃんと動いてる。


 心音が大きいのに対し、呼吸音は静かすぎた。


「起きてるでしょ」

「ばれちゃったか」

「もうお寝坊だよ。昨日よりも陽射しが高くなってる」

「え!」


 マリは急いで起き出した。

 窓の方を見ると、枠の影に重ねて人形たちが置かれている。

 この小さな点のうち、誰まで陽が当たっているかで朝の時刻がわかるようになっていた。

 寝台の反対側に回ってから春花に抱きついた。

「すごいよこれ! さっそく用意したんだ。賢い子だね」


 せっかくなのでそのまま、どうせ起きるのが遅かったので、もうひと勝負をした。


「そろそろ、お昼ごはんにしましょうか」

「わーい」

「今日はハンバーグにしよう」

 珍しくマリはエプロンをつけた。さらに今日は、春花を食卓に座らせてから調理台へ向かった。

「背中を見ててね。他のときはなかなか見られないから」


 春花は食卓からマリの背中を眺めた。

 少しずつ聞こえてくる熱そうな音と、次第に香ってくる匂いがたまらなく好きだ。

 何年も味わったことがない。もしかしたらそれも気のせいで、今日が初めてのような気さえしていた。


 マリが作る料理は、贔屓目に見ても手を掛けているとは言い難い。

 整った外見は手を掛けずとも得られるもので、おおよそ全ての食材は冷蔵庫やその他の保管庫から取り出すだけでいい。

 それでも春花のこれまでと比べたら、何倍もの時間をかけている。古い漫画やドラマでしか見たことがなかった空間が目の前に広がっている。


 こうして得られるものといったら、側から見れば一時の胸の高鳴りにすぎない。


 しかし春花にとっては。

 自身にそうするだけの価値があると言外に伝えている。強く意識するほど、胸の奥から脳の後ろへと温まった血液が送られていく。頬と口角が持ち上がる。

 静かな恍惚を愉しんでいる所に、鉄板の上で脂とタンパク質が弾ける音が聞こえた。

 まるで豪雨のように細かな音が連続して弾け続けている。その勢いに乗って香ばしい白煙が小鼻をくすぐっていく。耳で、鼻で、目で、そして心臓で溢れる喜びを噛みしめた。

 マリが振り返り、いよいよ食卓に運ばれるころには、食欲が喉から手を伸ばしていた。


 そうした甘酸っぱい出来事を2日3日と繰り返し、織物を期日通りの4日後に渡せるよう仕上げた。


 いよいよ渡す日がきた。春花にとっては、はじめましての挨拶をする日でもある。

「怖くなっちゃったのかな」

 春花は小さくうなずいた。

「よしよし。それじゃあ手を繋ごうね。これで怖くてもすぐ助けられる。大丈夫、わたしがいるよ」


 小さな足音が止まり、ノックの音が主張した。

 それを聞くと、ゆったりとした足取りで玄関へ向かった。

「こんにちは。仕上がってますよ」

 マリは織物を見せた。いつも通りの長い巻きスカートだ。色はマリのものとは異なるインディゴで、ポケットの位置もやや下になっている。

 仕上がりの確認を済ませて、手早く折りたたみ、袋に入れる。

「いつもありがとうね。今回も大事に使います。ところで」


 客人は目線をマリの後ろに向けた。

「はじめまして。聞いてた通りのかわいい子さん」

「初めまして、春花ともうします。このごろマリさんのお世話になっています」

「春花さん、よろしくね。私もマリさんには、小さいときからお世話になってるのよ。マリさんに頼んだやつは本当にいい」


 春花は首を傾げた。

「小さいときから?」

 目の前にいる人物は、どう見ても老婆に見えた。

 対してマリを同年代と思っていたので、少なく見積もっても3倍の差があるように見えたのだ。

「あら、あなたご存知でない?」

「すみません、まだ越してきたばかりで、お得意様とお顔を合わせるのは初めてなんです」

「そっちじゃなくて、マリさんが何者かって」

「ええと、綺麗なお姉さんってことですかね」

「ふふ、そうではあるけど」


 客人は笑って話を切り上げた。

「それじゃあ、また来ますね」

「お待ちしております。今後ともご贔屓に」

 手を振って見送った。春花はその背中が小さくなってももう少し眺めていた。

 ここに来る際に、水たまりを魔法の入り口にして入ってきた。他の誰もいない隠れ家だと思っていた。

 そこにこうして客人が来た。しかも、別の方向へ歩き去った。この道の先に何があるかをまだ知らなかった。


 加えて客人の名前を聞いていない。

 顔立ちと言語から日本人と見て話したが、実際どうなのかは一瞬の邂逅ではまだわからない。

 つまるところ春花は、この空間がどこなのかを何も知らないままだった。

 非現実的に思っていた出来事が相次いだので、当たり前のことを見落としたのだ。


 居間に戻ってマリに教わることにした。

「マリさん、いろいろ教えてほしいことが」

「おお! 世中にあるいろんな嗜好に興味を持ってくれたか」

「いや、それはまた今度にして」

「うんうん、また今度しようね。また今度、待ち遠しいなぁ」


 しまったと思ったが、どちらにせよ知る準備をしていたことだ。

 それよりも今は知りたいことを訊いてからだ。

「まずは今日のお客さんが言ってた話」

「広田さんね」

「子供の頃からマリさんの世話になってるって言ってた。どうみてもあの方のほうが歳上に見えたけど、どういうことなの」


 この質問に対し、マリはあっけらかんに答えた。

「え、だってわたし、魔女だし」

 これはすでに知っている。しかし改めて言われて、外見年齢との関連を考えもしなかったと気づいた。春花が過去に読んだ物語にも、魔法でいつまでも若々しい登場人物はたくさんいたのに、だ。


「そうでした。けども、それが理由になるのはどうしてです」

「いろいろあって時が止まっちゃうのよね。もうずっと生きてるけど、体は19歳のまま」

「え、歳下だったの?」

「いや外見と臓物だけだよ」

 春花が驚いたのは落ち着いた振る舞いのほうだ。自分が19歳だった頃を思い出した。同年代の者らは、どんなに顔や体格が大人びても、行動や喋り方が大人とは似つかなかった。誰かの指示を受けるまで動けないとか、曖昧な言葉をさも雄々しいように扱っていた。つまり、頼るには不安があったのだ。


「若返るとか、維持してるんじゃあないんだ」

「そうだね。変な使い方はできないかな。あと、もしも」


 マリの表情が翳った。

「身につけようとするなら、いつの体で止まるかにも気をつけて」

 すぐに春花が手を握ると、少しだけ和らいだ。


「昔の友達にね。すごく賢い子がいたんだ。何を見てもすぐに覚えて使いこなしちゃうから、いまの言葉で言う神童って呼ばれてた。魔術もすぐに身につけたんだ。のせいで、10歳にも満たない体で止まっちゃった」

 空いている手を下に向けた。

「背がこのぐらいしかなかったから、飛びかかってきたニホンオオカミにちょうど頭をやられたんだ。魔術なんて言っても咄嗟には使えないからね。体が小さいと、腕は受け止めるには短いし、もし届いても力不足だったろうね」

 上下の睫毛を近づけた。

 春花も耳と鼻の奥を揺さぶられるような感じがした。

「ごめんね、話を逸らしちゃった」

「色々あったんだね。私が産まれる前にも」


 現代は平均寿命が伸び、人間が60年や70年を生きることも決して珍しくはない。しかしニホンオオカミがまだいた頃を知り、それよりも前から生きているとあれば、19歳は年長者としての振る舞いが求められたのだろう。春花はそのように想像した。


 湿った雰囲気を上書きするためにも、春花は次の質問を絞り出した。

「じゃあ次に、ここがどこなのか」

「ここは、んー、2人の愛の巣だよ」

「そうだけど、その外の話。地名とかさ」

 マリの返事が存外に明るい声色だったので、春花は少し安心した。


「地名かぁ。特に決めてないや。わたしが作ったんだよ」

 マリは表情で「すごいでしょう」と誇った。


「それじゃあ広田さんの帰り道は?」

「向こうの森はどうなってるかよく知らないんだ。たぶんどっかで、同じように作った人と繋がってるんじゃないかな」

「知らないって、他の人が来ることは?」

「あんまりないから覚えてないな。それよりそろそろわたしの番だよ」

 春花に飛びつき、頬擦りをした。

「かわいい子がいて、お邪魔がなくて。わたしはそれだけでいいの」


 マリはしみじみとした顔で深呼吸をした。

 春花は気になることがまだまだあった。これまで一度も気にしたことがなかったのか、とか。自分より前には誰かがいたのか、とか。

 けれども先の話を思い出すと、それを尋ねるのは不躾な気がした。思い脱したくないことだってあろう。春花自身と同じように。


「だけどもし、春花ちゃんが刺激を欲しがるなら」

 マリがあまりに重々しい言い方をするので、穏やかな顔の裏に寂しさを隠している気がした。

 ひと息あけてから続けた。

「おでかけできるようにゲートを増やすよ」


 過保護とも思える扱いは、春花にとって新鮮なものだ。かねてより求めていた関係を、より濃く強く味わわせてくれる。

 それは単に春花のためではなく、マリこそが求めているのでもあるに違いない。

 共に歩む誰か。

 部屋を用意しているのも、食器の数が多いのも、そう考えればすべてが繋がった。


「当分はいらないよ。一緒にいられるだけで刺激的だもん。薄めたらもったいない」


 マリの目蓋が離れる勢いで水滴が落ちた。

「優しい子だね」

 夕食どきまでずっと、顔を互いの肩に埋めあった。

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