第8話
マリと老婆は、壁の大穴を挟んで対峙している。お互いに構えて、しかし動く兆候を見せないまま、穏やかな風が吹いては止む。老婆の手袋には、よく見ると楔形の文字が刻まれている。これが見えるように手首の運動をして、呪文をいつでも動かせる準備を見せつけた。
「以前ならもっと、丁寧に来ると思ったけど。修理してくれるんでしょうね」
マリは悠々と話を切り出した。目の前にいる老婆は、敵意こそあれ害意はないと知っている。
「いつも君は、そうだったよねえ。どうだいネルック。その飄々とした仮面で、今度の子は何人めになった」
マリは反論をしない。小さな赤子からしわと白髪が増えるまで熟成し続けた偏屈さと、執念に頼った素養では、変化を恐れて過去に縋り付く。はじめは反論していた。複数の方法で改善を促したことがあった。そのどれもを拒絶されたので、とうとう諦めたのだ。
「多分だけどあの子は、あなたを殺すつもりでいるよ」
「若い子に無茶をさせるつもりかい」
「魔女による魔女殺しは許されない、それをまだ教えてなかったから」
「君のことを、悪意の塊だとは思っていたけれど、もっと綺麗な手を選ぶと期待していたんだがね」
「まさか。忠告ですよ。お節介焼きのおばあさまの身を案じてね」
老婆は指先を小さく動かした。その動きに呼応して手袋を飾る花びらが落ちた。マリが使う水の魔術が止まり、固形化していた塊がただの水に戻った。服の下から滴り、壁と床にも染みができた。
「魔法の繋がりを断つ、いかにもあなたらしい。せっかく、切れない水を選んだのに」
「その説明じみた喋り。聞かせてるね」
「どうでしょうね」
「わたくしはね、保護しに来たんだよ。マリ・ネルックという名の、この悪意の塊から守るためにね」
「すでにあなたによる加害を受けているのだから、説得力が足りないですよ。それと、その善意こそが有害なんだ。手遅れになるまで抑圧された子がいくついたか。また増やしたのでしょう」
マリの長い言葉を無視して、老婆は魔術的な方法で春花の居場所を探った。裏庭の方角にいるとわかった。マリの無力化を改めて確認してから、廊下の突き当たりの壁に大穴を開けた。正午の日差しが照りつける。
裏庭に竹林が増えていた。
木々のいくつかが竹の足場で繋がれている。ほとんど枝に置いただけではあるが、斜めに生えた竹とあわせて、身軽ならば歩ける程度にはなっていた。
春花は木の最上部で、茂る葉の陰に隠れている。
高さは目の前にある屋根にも満たないが、それを見上げれば日光で陰が深まり、逆に春花からはよく見える。
相手が老齢なのもあって、高低差による地の利を普段以上に重要視した行動だ。
「暑いね、今日は」
老婆は誰に言うでもなく呟き、春花が待つ木のひとつお隣の木へ歩み寄った。
手袋で触れた側面から腐り落ちた。細くなり重心もずれた幹では上部の重さを支えきれず、春花に向かって倒れはじめた。
春花は隣の木に飛び移った。同時に老婆の技術も観察した。呪文が書かれている場所はおそらく手袋の中で、扱う事象には切断を含んでいる。加えて、倒れる角度を計算した上での行動と分かった。せっかく用意した足場のいくつかが崩れ落ちたのだ。
老婆は次の木へ向かう。降りるまで続けるつもりに違いない。春花からみて、間違いなく先輩にあたる。魔術の扱いにおいては確実に劣っている。
それでも春花には位置エネルギーが味方している。呪文書をひとつなぞると、地中からたけのこが打ち上がってきた。しかも石ころを連れている。老婆が立つ場所は、特定の一箇所を必要としている。つまり命中か失敗かの二択を迫る。どちらに転んでも春花の利になる。
春花の狙いは直接の命中ではなく、かすらせて服に傷をつけることだ。聞いていた話と求める暮らしから考えて、達成する手段として選んだのがこれだ。
小さな石ころに位置エネルギーと回転が加わり、老婆に迫る。脇腹へと迫り、角度からスカートの前側も期待できる。老婆は背後から音もなく飛来した石ころに気づくことはなく、脇腹を露出させる小さな穴が空いた。
振り返る頃には第二投の竹の子が迫っていた。咄嗟に左手で庇う。その手袋に触れると同時に竹の子が破裂した。破片はいくつかが地面に刺さり、別のいくつかが上方へ飛んだ。
それらのうちひとつが、春花が足場にするちょうど足下を削った。
このままでは折れる。仕方なしに移動するには別の足場がない。呪文書の一部ををなぞりながら、飛び降りた。
このチャンスに老婆は決めの一撃を放つ。
手を大きく開く。この動きでのみなぞれる呪文が手袋の内側にひとつだけある。手袋が直線にび、春花を掴もうと迫る。
空中では姿勢の制御ができない。重力と慣性によって予測できる動きだけをする。老婆はそう確信して放った。
しかし、春花は紙一重で逃れた。
空中での軌道を予測するにはもうひとつの要素がある。空気抵抗、特に風だ。
風がどの方向へ吹くかはわからない。しかし春花は、自在に制御する方法を持っていた。
それが植物の呼吸だ。呪文書からの働きかけにより、あたりの植物たちが一斉に大きく吸い込む。周囲の気圧が下がる。同時に、離れた植物が一斉に吐き出す。気圧が高まった方向から空気が流れ込む。こうして風を作り、軌道を変えたのだ。
春花は受け身をとって着地した。土が剥き出しの部分ではるが、服が砂利から身を守った。顎の汗を拭い、老婆を見据える。目線が一致し、睨み合いになった。
両者とも、出方を伺うばかりでいる。老婆は手袋の片方を失ったので、強気に出るには安全策がない。対する春花は、そもそも待つ自体が目的だった。
動かずとも日差しの下では暑くなる。老婆の汗が滴り落ちた。
その滴が土に触れると同時に、地中から竹が突き上げた。春花が仕込んでいた魔法によって、地下茎が水を見つけたら勢いよく伸びる。
その初撃を老婆は間一髪で飛び退き空振りにした。ただの偏屈な老婆と思っていたが、身のこなしは目を見張るものがある。着地の衝撃で次の汗が落とされた。角度から動きにくい森林の側へと追い込んでゆく。
草むらが汗を受け止めて一段落した。そう思ったところが春花の決め手となった。
植物の呼吸に働きかけて二酸化炭素の濃度をいじり回していた。老婆も激しい動気をするほどに呼吸が深く多くなる。
そうなると当然、二酸化炭素に反応する動物、つまりヒルが集まってきている。睨み合いで時間稼ぎをしている間にもすでに何匹か老婆の脚に噛み付いていた。飛び退くときも葉を押し除ける触感に紛れて肩口から入り込んだ。
すでに多数のヒルがその牙を深々と突き刺していた。加えてもうひとつ、暑さによる脱水もある。
竹林を隔てた両者のうち、春花は悠々と背を向けて、家に戻っていた。
「マリさん、もう大丈夫」
「おかえり。無事でよかったよ。汗もたっぷりかいたでしょう。おいしいお水を飲んで、お風呂にはいろうね」
「うん」
春花は元気に、無邪気に返事をする。平穏な暮らしを取り戻した。穏やかな水音と、それが落ち着く頃には夕食の匂いで満たされた。
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