第5話
マリの話では、魔法が動力源とする薬液は蓄えておけるならどんな形でもいい。試すときにはビーカーから直接使うのが当たり前で、持ち歩くときに瓶に流し込んでもいい。
それをわざわざ服を染めて使う理由といったら、常に身につけていられるからだ。手を塞ぐこともなく、持ち忘れることもない。安全策だ。
春花はその際の難点に気づいた。
先日の夜は、いくらか使っただけの様子なのに、スカートの裾がかなり短くなっていた。染めた生地ごと消費してしまうからだ。身を守るための魔法が、身を守る服を消費する。
これは目的に対して矛盾しているのだ。
そこで春花が提案したのは、染めるのを生地ではなく綿にして、その綿を服に詰め込む作戦だ。夏場では季節外れの質感にはなるものの、ポケットの場所を選べば暑くはならないと思った。
マリによると、これまでは綿を確保する手間に難があったそうだ。生地よりも大変だった。そこで春花は考えた。植物を扱う魔法を身につける。そして綿を確保し続けるのだ。
「それなら確かに、助かるね」
「でしょう。私もマリさんと協力しあえるし、一石二鳥だね」
「さすが賢い子だ。仕上がる頃には薬液も整えておくよ。この呪文の感じなら、わたしがすぐ用意できる」
春花は辞書と魔術書を広げて、ラテン語と楔文字の対応をノートに書き記していった。ここまでに解読した成果は、まず文頭で扱う事象について記すとわかった。綿を育てる際に使うのは『植物を・成長させる』で、何本もの線で書き記した。
書き方から、どんな環境で確立したかも想像していった。
直線ばかりなので道具を選ばず書けるし、岩や木を削って書くこともできる。最初と最後を明かすあたり、どの方向から見るか不確かなこともありそうだ。地面に書く場合だってあるかもしれない。
そう考えていくと、基本は縦書きにも思えた。木に書くときは縦にするほうが広いし、重力を使って起動する場合もあり得る。
他の考えも浮かんだ。改行がなく、順番を示す方法が始点から終点まで貫く中心線なあたり、縦や横ではなく中心線との位置関係を重んじていたようにも思えた。
春花がこうして限られた情報から想像を巡らせられるのは、不足ながらも説明がついていたおかげだ。ラテン語の説明らしき文章と辞書を見比べて、関連する単語がわかる状態で想像していく。
考古学者のような、断片だけの出土品から古代の暮らしを読み解く人たちは、もっともっと時間をかけているに違いない。
明日はいよいよ、書き上げた呪文を動かす。
寝台で目を閉じ、浮かんでくる思考を無理やりに押さえつけた。寝つきを邪魔する好奇心をどうにか落ち着かせて、やがて眠った。
朝食の後を、すぐに試す時間にした。
場合によっては昼食が遅くなるかもしれない。結果次第では後片付けが増えてしまうためだ。そのため、腹持ちを重視して多糖類を多く取り入れた。
裏庭の倉庫から植木鉢とシャベルを持ち出して、二階まで運んでいく。土を近くから拾おうとしたら、マリがその前に呼び止めて、蓄えていた腐葉土を取り出した。
「もうじき開けるつもりだったからね。それに、余計な種が入ってないから安全だよ」
「助かります。これなら夕飯は遅れずにすみそう」
土を湿らせて、その植木鉢にアサガオの種を植える。土に人差し指を立てて、第一関節まで押し込んだ。その浅い穴に種を落として、周りの土を軽く被せる。これで準備は整った。何もせずともやがて芽吹くだろう。
次は蔦が探す支柱だ。今回の植木鉢はつた植物用ではないので、シャベルを立てて、持ち手の部分を支柱として使う。高さは肘から先程度にも満たないが、十分ではあると踏んだ。それに、片付けの手間を減らしたかったのもある。もっと長い棒は、出し入れだけで半日を使うか、もしくはアサガオには使わせたくないものばかりだった。
最後に手を洗って、机の上を確認した。春花が書いた呪文と、マリが持ってきた薬液入りのビーカーだ。忘れそうだった窓も開いている。
ノートの余白をビーカーの下に敷いて、いよいよ準備が整った。
春花は小学生の頃を思い出した。夏休みは毎年、アサガオの観察をする。そのときは日ごとの同じ時間に少しずつ伸びていく様子を観察していた。
呪文をなぞる。
始まりを示す長い縦棒から、楔形の文字が連なる中心を貫く線で文の流れを示している。その線上で指を進めるに連れて、ビーカーの中では青紫色の水面で小さな泡が弾けた。進度と対応しているようで、指を早めるとまるで卵を茹でているように連続して浮かんでくる。中身は半分にも満たない少量なので、飛沫はノートを汚すことなく、ビーカーの内側で受け止めた。
今回は目盛の三つ分が減っていた。
すべてなぞり終えると、はじめにビーカーの泡が止まった。
ひと呼吸を置いて、植木鉢の土の中央で、まだ埋めたばかりの種が芽吹いた。はじめに出るのはもちろん双葉だ。種の中にあった小さな葉が、土の下で伸びていく根に押し出される。その感動を味わう間もなしに、直ちに双葉の間から次の葉が伸び始めた。
次の葉を、その次をと伸び続けて、すでに蔦が周囲を探っている。シャベルを見つけたらすぐに巻きついていった。
観察日記では、ここまで育った頃にようやくだと思っていた。それが今日は、呼吸をゆっくりと一度二度と吐き出すほどの短時間だ。あっというまに花を咲かせたのだ。
万が一に備えていたマリが両手を空にして拍手をした。
これが春花の、初めての成功だ。
夕食の準備をする間も、春花は魔術書を読んでいた。
早く動けるようになりたい一心で、ただ待つだけではいられなかったのだ。内容に集中するあまり、マリが用意している特徴的な匂いにも気づかないままだ。
「おーい、できたよ」と聞いてようやく顔をあげた。
目の前にすでに置かれていたのは、まずはコップだ。その中には水と氷ともうひとつ、大きなスプーンが入っている。もちろん何かが混ざっているのではない。かき回すために入れたのではない。こんな用意をする料理といったらひとつだけだ。
ようやく匂いにも気づいた。カレーライス、しかも甘口だ。
「いただきます」の挨拶をして、スプーンを取った。
食事のすべてを一枚の皿に盛り付けている。スプーンで掬って、口へ運ぶ。最後まで動き方はこのひとつだけでいい。何も考えることはない。雑念を排して、食事に集中する。
疲れているところに最適な食卓を用意したマリへと、いまは口が塞がっているので笑顔で伝えた。
甘口なのでどんどん進むし、ときどきスプーンで拾い上げる具材が変わって味や食感の変化もつく。野菜の混ざり合った味から、じゃがいもの内側の味へ。いつも同じなのが甘口ソースの蜂蜜だ。ルウの辛さを和らげるほか、豊富な糖分が脳の疲れに沁み渡る。
続くひと口では魚肉が入ってきた。カレイだ。華麗な結果になるようにと、カレーともあわせて縁起も担いでいる。
これが実際よく効いた。
香辛料の刺激が心境を整えて、蜂蜜は即効性のエネルギーに、米は長続きするエネルギーに、そして魚は体を構成する材料になる。それらの働きを支える野菜も十分にありながら、食べる際に迷いがないので判断力の休憩にもなる。
縁起を担ぐにもふさわしい強さが必要だ。そして、その強さを持っているのだ。
ぺろりと平らげた後は、二人のお楽しみの時間だ。
早く備える必要がある状況でも、生活リズムを疎かにしてはいけない。成就に向けて進む道中とは無関係に内側から瓦解する最大のリスクとなる。そこで夕食の後は、勉学を切り上げると最初に決めていたのだ。
マリが後片付けをする間に、春花は辞書と魔術書を部屋に戻して、寝台や小道具の準備も整えた。
浴場へ向かう。先に着いた春花がタオルと椅子を取り出した。
湯船は二人でも広々と使えるし、滑りにくいよう簀子を敷いてある。そう調えていたおかげでこうしてたっぷりと時間を使って仲を育めるのだ。
この日のマリは体を洗いあう提案をした。直前に作業をしていたのは風呂場を整えていた春花なので、後ろにマリが座った。春花の考えでは、洗うのは自分でやって、仲を深めるのは別にやる方がいいと思った。横着すると両方が中途半端になると考えたのだ。
とはいえ試しもせずに答えを出すのは筋が通らないので、ひとまずは試すことにした。普段の洗い方を説明する春花に対し、マリは「その辺はいつも見てるから大体わかるよ」と答えた。
マリに任せるのは首周りよりも下にした。顔は少しの不協和が大惨事になってしまうし、洗い方に宗派がある。
まずは鎖骨を指の腹で軽く押さえて、左右に擦る。骨の周りは硬さのおかげで力を加えやすくて、骨から離れると弾力のおかげで力を加えやすい。剥がれた垢がお互いにわかった。骨を辿って肩甲骨へ、そして肋骨の周りへと進んでいった。
脇腹に近づいたとき、春花は声をあげた。くすぐったい感覚ともうひとつが混ざり合う。普段ならば浴場ではなく欲情した時に馴染みの、あの感覚だ。その頃ちょうど春花は髪を洗い終えたので、すぐにマリの手を払い除けた。
「背中。いまはお腹より先にやって」
「ごめんよ。それじゃあ失礼して」
マリの指が背中を、左右に往復しながら少しずつ下へ進んでいく。肋骨の流れに沿って、自分では腕の位置から力を入れにくい部分をこそ念入りに、新鮮な皮膚組織を露わにさせていく。あとで触れるときに柔らかで滑らかになる期待がどんどんと膨らんだ。
その指が骨盤へたどり着く頃には、春花は足の先まで洗い終えていた。臀部で合流した互いの手が追いかけ合うように揉みしだいた。
シャワーで流す前に、春花はひとつ思いついた。振り返り、マリも背中を見せるよう促す。
「今度は私の番」
同じようにマリの体も柔らかくしていった。
その仕上げに今度こそシャワーで流す。ここが春花の思いつきを使うところだ。
シャワーヘッドの真下、ちょうどいい場所に立って、二人で同時に浴びた。
柔肌が触れては離れる。そのわずかな隙間も水は見つけて、通り道に転がった不要物を押し流す。春花はさりげなく首筋に顔を埋めた。流水が鼻に入りそうになるが、これは必要なので押し流すには至らなかった。
この日の湯船は水温を少し下げた。
翌朝も、春花は本を読み耽った。
植物を扱う呪文の書き出しはわかったので、次はできる範囲を広げていく。成長の仕方をいじり回すとか、虫害への耐性をつけるとかが書かれていた。なるほどこれは便利だ。
虫が嫌う悪臭をもたせた蔦があったら。部屋や外壁を飾って、思わぬ侵入者を防ぐ。有名どころでは、蚊は様々な病気を運んでくるし、本や袋を食い破る虫もいる。
それでも本命の望みは見つからない。
服を作りやすくしたい。春花が生地を用意し、マリが服を織る。その共生関係を盤石にするため、加工しやすく育てる方法を探しているのだ。
たとえば、蔦が育つ際にそのまま服の形に絡み合う方法を見つけたら。アームカバーか、せいぜいマフラー程度ならすぐに用意できそうだ。
細かな糸を
ここで生産力が高まれば、身に付ける薬液をもっと増やせる。その場合の素材選びは、乾燥させる時間やその後を加味して決める。
これらを果たした暁には、もっと褒めてもらえるに違いない。春花は小休止のたびにその想像をしては笑顔になった。
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