曖昧な境界
南雲 皋
あなたの香り
彼が亡くなったのは、梅雨入りが宣言された次の日だった。
バケツをひっくり返したような雨が降りしきる六月、私は彼の母親からの電話で彼の死を知った。
交通事故だった。
雨で視界が悪かったのだと運転手は言ったらしい。
それならば、雨の日の死者はもっともっと多いはずじゃないか。
事故の痕跡を残さずに綺麗にされた顔で、彼は眠っていた。
棺桶の中で冷たく、眠っていた。
私は彼の家に引っ越した。
1LDK。
彼の母親は私がそこへ引っ越すと聞いて、彼の使っていた物の殆どを残してくれた。
机、本棚、本棚に詰め込まれた本、私と映る写真たち、カレンダー、ベッド、家電一式。
服はどうすると聞かれ、彼の話をしながら一緒に捨てた。
彼の香りが私の香りに侵食されきる寸前、私はあることに気付いた。
めくった覚えのないカレンダーが、七月を告げていた。
破ったはずの六月の紙は、どこにもなかった。
読んだ覚えのない本が、枕元に置かれていた。
彼の好きな本だった。
彼が、いる。
私の出した結論だった。
彼は、見えないけれど、この部屋にいる。
この部屋にいて、今までと変わらずに生活しているのだ。
私は、彼と暮らし続けるために、見えない彼の動きを探った。
何もかもが彼の手によって動かされるわけではないらしい。
カレンダーが八月に変わる頃、私は全てを把握していた。
彼が元々持っていた物が、動く。
私が新しく買った物、引っ越してきてから位置を変えた物は、動かない。
見えない彼の過ごす世界と、私の過ごす世界。
二つの世界の同じ場所にある同じ物だけが、境界を跨ぐのだ。
私は長い夏休みを利用して、ある実験をした。
ちょうど彼の好きだった作家が新作を出したのだ。
私は本屋で購入したその文庫本を、彼が置きそうな場所へと置いた。
前に本が置かれていた、枕元に。
次の日、目覚めた私は枕元にあった本が机に移動しているのを見て笑いが止まらなかった。
生きている。
彼は、私の見えない世界で、けれど殆ど同じ時間軸の中、生きている。
私はそれから、いろいろな物を試した。
彼の好きだった飲み物、アイス、料理。
偶然、同じ日に同じピザを頼んでいたことがあった。
その時は、食べようと思ったらピザが消えていて、彼に悪態をついたものだった。
私は彼との生活を楽しんでいた。
この家で、この空間で、彼と過ごせることが幸せだった。
彼の母親は、時折電話をくれた。
私が存外落ち込んでいないことに疑問を抱いたようだったが、彼のことは言えなかった。
言ってしまったら、彼が消えてしまうような気がしたからだ。
終わりは呆気なく訪れた。
彼の母親が、家を訪ねてきたのだった。
彼女は私も彼も好きだったケーキを持って、やってきた。
多分それは、運命だったのだろう。
向こうの世界でも彼の母親はこの家を訪れ、そして同じケーキを手土産にしたのだ。
目の前で消えたケーキに、彼女は驚いた。
驚いた次の瞬間、彼女の目からは大粒の涙が溢れ出した。
部屋の中から未だに香る彼の匂いが、あの頃のまま残されている家具が、目の前の荒唐無稽な事実が、彼女に涙を流させていた。
私は彼女に全てを話した。
彼女は嗚咽を漏らしながら、彼の名前を呼んでいた。
私は彼女の震える背中を撫でながら、奇妙な境界線が崩れていくのを感じていた。
彼女が泣き止む頃、部屋から彼の匂いは消えていた。
それに気付いて、彼女はまた、泣いた。
今度は私も、一緒に泣いた。
涙が枯れるほど泣いて、泣いて、泣いて。
そして一緒に、彼にさよならを告げた。
もうこの世界に、彼はいない。
彼の欠片も、残っていない。
私はベッドを新調し、家電製品を新調し、読まない本を売り払った。
机と本棚だけが、唯一残った。
めくりそびれたカレンダーは、めくられないまま、年を、越した。
【了】
曖昧な境界 南雲 皋 @nagumo-satsuki
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