「こんな夏でも悪いことばかりじゃないよね」。僕は思った。彼女は?
天野橋立
2020年8月8日
夏休みだから授業なんかないのだけれど、島の中に居場所なんてあんまりなくて、結局高台の学校に来てしまう。
この2020年になっても、教室にはまだクーラーがない。
湾の向こう側にある街の役所では問題になっているそうだけど、小・中学校兼用のこの校舎に、生徒なんて全部合わせてもたった十五人ほど。海からの風も涼しいから、そんなものいらない。と僕は思っているのだけど。
「えー、そう? やっぱりクーラーあるほうがいいと思うよ、あたしは。公民館の図書室行ってみ? あそこどんな涼しいか」
窓際の自分の席に座った
夏服のシャツの胸元が大きくはだけられて、焼けた素肌と白い肌着が見えているのが、何となくちょっと困ってしまう。
短い髪を無理にポニーテール風にしているのは、島の女の子はみんな一緒だが、きりっとした彼女の顔には特に良く似合っていた。
「
「かあー、涼しい図書室で寝る、あの気持ちよさが分からんかねえ、真面目な
そう言いかけた彼女の声は、頭上を走り抜けていくトレーラーの轟音にかき消された。僕と、同じく
「それにしても、減ったよね。『興産』のトラック」
彼女は、ぽつんとそう言った。
この島――
それが、まるで島を踏み台にするように、「興産」専用道路の橋脚が建設されたことで、島の様子は全く変わってしまった。
かつての綺麗なおにぎり型の島は、今や太い柱の足元にへばりついている、へしゃげたお饅頭のような有様だ。
しかも、この巨大すぎる専用道路からは、島へと降りることはできない。単に、資材を積んだ巨大トレーラーが上空を行き来するだけなのだ。
だから、湾の向こうの街へは、今でも小さな連絡船で渡るしかない。島民にとっては、単に騒音をまき散らすだけの、全く役立たずの橋なのだ。
もちろん、その引き換えとしては十分なものが用意された。
潮風を長年浴び続けて朽ち果てていた役場と公民館はピカピカに建て替えられたし、信じられないことにコンビニの「メープル」の支店まで併設された。島唯一の雑貨屋である、「磯屋」の娘であるはずの
実家の経営がダメージを受けないわけもないのに、それでもコミック誌が今までよりも三日も早く入ってくるようになったのが嬉しいそうだ。
例の連絡船も新造されて、「興産」の直営の下、先代の倍以上の速度で運航されるようになった。他にも有形無形、さまざまな形で、大企業からの恩恵が降ってくるようになった。
だから、まあ、多少トレーラーがうるさいくらいは、みんな文句も言わなかったのだ。それが。
「興産、まずいって噂だよ。ほら、やめになっちゃったオリンピックで大儲けって話だったのと、例の緊急事態宣言って奴? ダブルパンチだって。まあ、今まで儲けすぎだったからみたいだからね」
他人事のように、彼女はそう言った。
しかし、どうやら噂は、本当のようだった。
トレーラーの轟音が減って行くのに合わせて、海の向こうに見える工場群が吐き出す煙も日に日に弱々しくなって行った。
「緊急事態」以来随分と暗くなっていた、湾の向こうの夜景もさらに淋しくなり、地元の百貨店が運営していた「ラッキータウン・テンジンヤ」のピンク色のネオン塔が消えてしまってからは、そもそもどこがその街の真ん中だったのかさえ、分からなくなってしまった。
「ねえ
あれ以来、さらに静かになってしまった教室で、今日も僕は
「『メープル』も、あれ全然ダメね。連絡船止まっちゃったら、すぐに売り物すっからかんじゃない。知ってる? コンビニって倉庫なんか何にもないのよ。うちなんか、あと半年分は在庫あるからね。賞味期限なんて、あんなのどうにでもなるんだし。まあ、元々あんまし売れてないからなんだけどね」
「テレビでもつける?」
マシンガンのような彼女の言葉を遮ろうと、僕はわざと提案してみた。
「えー、だってオリンピックやってないのよ、オリンピック。やってるの古いアニメとかよ、そんなの見てどうするのよ」
ちょっと怒ったような声で
競技の中継を毎日見るのだ、と彼女が楽しみにしていたのを知っていたから、これは当たり前の答えだった。本当なら、今日はマラソンが行われる日だったのではないか。意地悪を言ってしまったみたいで、僕は少し気まずい思いになった。
二人の間に落ちた沈黙を、潮の香りがする風が吹き流した。窓の向こう、海のどこからか、漁船のエンジン音が微かに聞こえる。
「あのさ……せっかくこうして、男女二人きりなわけでさ。そんな悪い感じでもないやん、俺らさ」
僕は、重い口を開く。この話を蒸し返すのも、何度目だろうか。
「ああ、だからそれダメって。だって、島に中学二年て、あんたとあたし二人だけだよ? それで、そのまんまくっついてってさ、あんまし馬鹿みたいじゃない? っていうか」
彼女は、不意に真剣な顔になった。
「ちゃんと好きになれる相手、見つけようよ。
ちゃんと君が、
しかし、それが本当のことなのか、僕自身にも分からなった。少なくとも、
同い年で、身長も同じくらいのはずなのに、悔しいことに。
「ちぇっ、しょうがないな」
平気そうな顔をして、僕は精一杯強がって見せる。
「そ、これも青春てやつ。残念!」
「じゃあさ、そろそろ陽も落ちる頃だし、
「それこそ、馬鹿馬鹿しいよ」
ぶつぶつ言いながらも、僕は結局彼女の言葉に従い、二人で校舎の裏山を登って行った。
元々、その先には島の山頂があったのだが、今では橋脚の巨大な柱に突き当たって、登山道はそこでおしまいになってしまう。
その代わりに、その柱の根っこには「観洋台」という展望台が設置されていた。新たな観光名所に、という名目だったようだが、こんな不便なところにやってくる人など、誰もいない。もちろん、今日も無人だ。
「お、絶好のタイミングじゃん」
丸太を模したコンクリートの手すりにつかまって、
でも、僕がこっそりと見ていたのは、夕陽に赤く染まる彼女の横顔だった。
頭上の高架道路に、トレーラーは一台も来なかった。潮風の音だけが、時折辺りを揺らした。静けさの中に太陽は沈み、入れ替わりに、すっかり弱々しくなった街の灯がぽつぽつと点り始めた。
「ロマンティック、ってやつよね。これは」
僕の顔を見ようとはせずに、真横の
「しょうがないな。……今日だけだからね」
肩に頭をもたせかけるように、彼女は僕にその体を預けた。
汗と、デオドラントと、何かの混じったような、つまりは彼女そのものとしか言いようのないものが、夕暮れの中で僕の心を強く締め付けた。
「今日だけ、なんだね」
「そう。2020年の今日、8月8日だけ」
特別な、静かな夏のその日。
その日付を、僕は決して忘れることはないだろう。
(了)
「こんな夏でも悪いことばかりじゃないよね」。僕は思った。彼女は? 天野橋立 @hashidateamano
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