まぐろの刺身
泳がないと生きていけない生き物だと自負していた。
市民プールの狭いジャグジーにつかり、疲れの溜まった足をぶくぶくと茹でていく。この市民プールのいいところは、ジャグジーがあるのと、音楽が流れていること。ひと昔前、っていっても2年か3年前に流行った音楽がずっと流れていて、あたしは妙に懐かしくなる。ここが中学生のころのあの時間なんじゃないかと、幸せに思い込むことができる。
ざばりとジャグジーを後にすると、ぬるい空気がプールサイドに漂っていた。秋口のプールは温水なので、いつもこんな空気。あたしはよく知っている。数カ月前まで水泳部で毎週ここに来ていたから。
『もう受験勉強しとかないと。何のために部活やらせてたと思ってんの?』
うんざりした口調の、母の言葉。1か月近く言われ続けてノイローゼになった私は、憑りつかれたみたいに、無意識のうちに退部届を出していた。まだ高校3年の春のことだった。
確かにあたしは大会で賞をとるほどの実力もないし、部長や副部長みたいな役職もなかった。だけど、泳ぎに対しての熱は誰よりもあったと、そう思っていたんだ。
プールの塩素の匂いを久々に感じながら、指先からプールに浸かっていく。この感覚を久々だと思うほどに、あたしは泳いでいなかった。泳いでいなくとも、普通に生活ができた。できてしまった。
いっそまぐろならどれだけ良かっただろう。泳がないと生きていけないと思っていたはずなのに、母の嫌味ごときに負けて、のうのうと生きられてしまった。自分の水泳への熱量が、そこまでの矮小なものだったと知ってしまうのが一番歯痒かった。
あたしはきっとこれから受験勉強に浸かって生きていかなきゃいけない。けど、生きたい大学なんてどこにもない。母は授業料なんて一銭も出さないだろうから、あたしが借金して通わなくちゃいけない。
クロール。泳ぎの中で一番好き。自分で何も考えないまま、気づいたらクロールで泳ぎ始めていた。
これからもきっと試験勉強の合間にここにくる。まだ自由に泳いでいられる同級生に会わないよう祈りながら、またここに、足を運ぶ。
夕飯と海 区院 @rukar
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