弐〜久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ

「じゃあ外部受験ってことで聞いてるけど、内部進学は選択外でいいんですね」


 面談用の調査シートをファイルから引き出しながら葉太は切り出した。放課後四時を過ぎたのに初夏の日はまだ高く、電気を点けなくても教室は十分に明るい。中央に進路希望表を置いた机を挟んで真向かいに座った桜子は、葉太を真っ直ぐ見て頷いた。


「はい。内部にこれといって行きたい学部がないですし」


 桜子の出来の良さは、二年時の進路希望を見ればある程度、納得がいった。受験生だったのだ。普段の成績と面談だけの内部試験で八割がた希望学科に行けるエスカレーター制の私立女子高校の中で、一握りしかいない外部受験者は学内の授業などあてにせず、塾や通信教育を利用して受験戦争の準備をする。彼女達が学年成績でおしなべて上位を占めるというのは毎年のことだった。

 背筋をすっと伸ばして、桜子はきっぱりと言った。


「うやむや適当な学部選んで大学行くのもったいないし、イヤなので」

「はは、そっか。最初内部進学かと思いましたよ。春川さん、新歓出てるんだもんな」


 葉太は正直な感想を述べた。他の受験生の多くが新学期早々から図書室に引き籠る中、ダンス部所属の桜子は新入生歓迎会の舞台に立ち、入部期間には教室前の吹き抜けスペースで、他の三年生とともに新入部員の指導に声を張り上げていたのだ。さすがに文化祭の出演は諦めていたが、これまで葉太が受け持ったことのある三年生から考えると驚きの余裕である。

 しかし、桜子は学年に数人しかいない——葉太のクラスではただ一人の——受験生の中でも群を抜いていた。


「まあ面談だから連休前の実力テストの結果について何か言わなきゃいけないところなんでしょうけど……どれも見事だし、何も言うことはないんだよね」


 各科目の教員からもらったコメントのメモをめくる。成績判定はどれも八十点以上。大抵の受験生は、内部進学者と比べて上位にいたとしても、志望進路が文理のどちらかによって成績にばらつきが出る。だが桜子の成績はどの教科も軒並み学年順位十位以内だ。

 お世辞ではなく感心を表した葉太に対し、桜子の反応は意外なものだった。


「成績だけ良くたっていいことなんてありませんよ」


 吐き捨てたとも言えそうな声音に、葉太の唇が固まった。ところが桜子の方は、それに気がついたのかそうではないのか、すぐに年相応の笑い顔に戻る。


「受験、厳しいですから。校内で良くても」

「……確かに、そうだね……えっと志望は、文系でしたね。第一志望は、国立か」


 ——国立こくりつ。その四音を口にして、葉太は意図せず生唾を飲み込んだ。

 目の前の生徒に気取られないように、急いで続ける。


「ちょっと意外だったな。化学の鈴木先生が実験の手際とか成績もかなり褒めてたから、春川さん興味あるのかと思ってた」


 毛嫌いされる理科系科目の教師が、桜子の進路について葉太に残念がりながら愚痴をこぼしたのを思い出す。家庭調査票によれば、桜子の両親はともに理化学研究所の治療薬の開発研究員だという。場合によっては医者より頭が良くないと出来ないと言われるアカデミック・エリートだ。葉太も志望調査票を見る前は、てっきり桜子も両親の後を継ぐのかと思っていた。

 教師という立場上、葉太の方から家庭の話を簡単に聞くことは出来ない。そのためオブラートに包んだつもりだったが、桜子の方から直球で答えが返ってきた。


「いや、それは普段から家で化学式とか食卓で飛び交ってるからだと。おに……兄は薬学部行きましたけど、私は治験とかのプレッシャー耐えられないから薬学系は向かないって言われたし」


 女子高生の口から出るとは思えない「治験」などという単語をさらりと混ぜて、桜子は桜の花が散りばめられた和装のスケジュール帳の頁に指を遊ばせながら続けた。


「やりたいことができそうなの文系学部なので」

「そうですか。志望校はこの順でいい? 割とバラバラだけど。成績の変化と合わせて、進路希望順位を戦略的に変えるのもありですよ。それともやりたいことがここしか出来ないってふうに、けっこう明確なのかな」


 桜子の第一志望の学科は比較文化学科。第二志望と第三志望の私立はそれぞれ、二年次に細かい専攻に分かれる文学部と史学科だった。このばらけ方でどう対策を取るのか。受験に全く寄り添わず、要点以外は比較的自由に行う私立高校教員の授業が役に立つことなどあるのだろうか。

 桜子ほどしっかりした生徒が無計画に志望校を選んだとは考えにくい。担任として言うべきことを探し、結局葉太は、マニュアル通りの受験生指導を口にする。すると桜子は、一瞬前とは打って変わって、居心地悪そうに口を閉じた。

 下を向いたままの桜子を見つめたまま、葉太は数秒間、沈黙が破られるのを待った。


「ねぇ先生、吉野の桜って……」

「ん?」


 小さな呟きが聞き取れずに問い返すと、桜子は「なんでもないです」とぱっと顔を上げる。


「その学部でいいの。興味あることができるところで絞ったから、大丈夫です」


 桜子が第一志望に記入したのは、国立の中でも国内トップの超難関大学だった。


「……まあ、この大学基準に勉強していれば、他の大抵の大学は心配ないだろうけど。春川さんなら大抵の大学ところは大丈夫だと思うから、今のうちはまだ学校行事とかも楽しんだら」

「んー、はーい」


 若者らしい覇気もなく、桜子は曖昧な笑いを浮かべた。しかしすぐ、その気の抜けた口調から一転してきっぱりと言った。


「きっと第一志望は変わらないです。それ目指していきます」


 その眼には少しの感情のぶれも感じられず、真っ直ぐで、強すぎた。葉太は志望票に手を伸ばすと、桜子の視線と自分の顔の間で、目の高さまでそれを上げた。


 二人だけで音の少ない教室に、窓から校庭で練習に励む陸上部の威勢の良い掛け声が入ってくる。ふっと首を回した桜子につられて、葉太も窓の方を見た。

 濃い緑の葉の先に伸び始めた若葉が西陽を透かし、その薄い影が教室の机の上で微かに揺れ動く。女子高校は五月の体育祭を皮切りに、そろそろ年中行事に湧き立ってくる頃だった。

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