参〜ことならば 咲かずやはあらぬ 桜花 見るわれさへに 静心なし

 目に見えるところは何事もそつなくこなす、絵に描いたような優等生。級友や下級生との関係も良好。そういう生徒なら葉太が過去に担当したクラスにもいたが、彼らと比べても桜子の存在はいささか異色に思えた。

 メディアに溢れる流行にのり、適当に規則を破り、教師にささやかな反抗をして、自由奔放に青春を謳歌する。そんな同級生に囲まれた桜子にしっくりくる言葉を探し、葉太がまず最初に辿り着いたのは、「ノリが悪い」だった。

 受験という枷がないせいか、葉太の高校は行事への取り組み方が異常ともいえるほど本格的だ。外部進学者であっても、一、二年に学内伝統の洗礼を受けたせいか、参加するとなれば少なくとも校内にいる時間は全力投球。それがこの学校の校風だった。

 だが桜子は、高校最後の体育祭や修学旅行の企画にクラス中が議論白熱させる中で、一人だけ温度が低いのだ。意見を求められれば発言するが、積極的に話に加わることはない。

 その反面、休み時間のダンス部の練習では、その姿を見つけることが多かった。もちろん放課後や朝練に参加することはない。その代わり、昼休みに図書室へ引きこもる前、早弁をすまして練習を始める部員たちの演技を前にした桜子の顔つきは、踊っている生徒達以上の真剣さだった。昼食を食べながらも、わずかな動きも見逃すまいと言わんばかりに部員たちの演技を目で追っている。そして曲が終わればよく通る声で駄目を出したり、立ち上がって拍手をしたり、教室にいる時とは別人のようにくるくると表情を変えた。


 ——ああ、そうか。


 事あるごとに一致団結を叫ぶ他の生徒たちの声を拒否するでもなく、その中に溶け込むでもない。周りとの間に線がある。その反面、好きなものには真正直すぎるほど夢中。


 ——麗花みたいだな……。


 部員に感想を述べる桜子の声は、吹き抜けの二階から練習風景を眺める葉太の耳にもよく聞こえた。


***


 クラスに一人だけの国立受験生であるせいか——それとも記憶にある顔と重なったからか——いつしか葉太の眼は、気が付くと桜子を追っていた。

 体育祭では優勝を逃して号泣する同級生を宥め、他の生徒がゲームに興じる修学旅行のバスでは早々に寝ており、クラストップを記録した一学期末考査のあと、夏休みには文化祭秋風祭に向けたダンス部の練習に、スタッフとして数回顔を出していた。

 そしてまだ蝉が鳴く中で夏休みが明け、放課後の教室に陽が斜めに射すようになり、冬服にカーディガンを重ねる姿が校内に増え始めた。秋の中間試験を終えると、日暮れが早くなるにつれて居残る生徒が増えはじめ、紅葉と楓の飾りで溢れた大ホールが校外客で溢れたその日、ダンス部に特別賞秋風大金賞が贈られて、桜子が唯一校内を必死に駆け回っていた文化祭が終わった。


 教室の外ではもう、木枯しに枯れ葉が舞う頃になっていた。


***


「春川さん、こんなところで勉強?」


 頭上に幾重にも交差する枝越しに、薄雲のかかる寒空を見上げて坂道を登っていた葉太は、半開きになった公園の入り口に見慣れた姿を見つけて声を掛けた。振り返った桜子は「先生」と返事をすると、葉太が近づいて来るのを見て、自分の脇に置いた鞄を地面に降ろした。


「六時から塾の授業なんだけど、自習室の空気悪いから。家と違って、ここなら休憩がてら踊れるし」

「春川さん、ダンス部だもんなー。踊ってよ」

「え、やですよ先生。一人でやるのは」


 桜子は隣に腰を下ろした葉太に、信じられないと言う目で拒否する。「冗談だよ」と笑いながら、葉太は四月の始業式の朝を思い出していた。


「そう言えば春川さん、春にも踊ってたよね」

「春?」

「ほら、始業式」

「え、あ、うそぉ、先生、見てたんですか!?」


 うっわ恥ずかしい、と、桜子は肘を膝に立てて背中を丸くし、持っていた参考書を顔に押し当てた。舞台系の部活の生徒によくある茶に染まった髪とは正反対の、真っ黒な黒髪を垂らして項垂うなだれるさまに、葉太はクラスの他の生徒たちとなんら変わらぬ打ち解けやすさを感じた。


「よく来るの? この公園」

「えぇー、まあ、何か落ち着くっていうか」


 参考書を鼻頭までずり下げて、桜子は公園の広場に目をやった。ならされた花壇の向こう側に、プレートを掛けた桜の大樹が等間隔で三つ立っている。


「先生、知ってます? あそこの桜の木、大正時代にうちの学校の卒業生が植えたんです」

「へぇ、そうなんですか」


 今は葉を落とした三本の桜を見つめながら、桜子はするすると話し出した。


「まだ戦前にね、この土地にはすごい大きな桜の大木があったんですよ。かなり見事で、この地域の花見の名所だったらしくて。蕾の頃から葉桜が全部葉っぱに変わるまで、人が絶えないくらい。だけど震災で倒れちゃったんだって」


 そういえば公園脇に立つ市の歴史についての看板にそんなことが書いてあった。近所に住むだけに、大抵の人が通り過ぎてしまう説明書きだ。


「地震の被害でこの辺りもひどい惨状だったって。だけど復興の中で、うちの学校の生徒がね、少しずつでも桜の名所として建て直そうって、コツコツ寄付金を集めて植えて……それがあの三本で、それから何代もかけて公園中の植樹を続けたんですって。この街に来る新入生を迎えるためにも」

「ああ、県外から通う人も多いですからね」


 大学の進学が保証される私立女子高校には、近所からではなく隣県から受験して入学する学生も半数以上いる。恐らく地震の前は見事な一本桜が春を告げており、その強い記憶が植樹活動を促したのだろう。


「何だかそういういわれを聞くと、嬉しいっていうか誇らしいっていうか。そんな地道な努力した人達の後輩なんだし……苦手なものも頑張ろうって気になるんですよね」

「苦手なものって、春川さんでもそう思うものあるの?」

「私なんて全然、まだまだですよ」


 全くぶれることのないトップの成績に対する正直な意見のつもりだったが、切るように冷ややかな声が返ってきた。

 決まりの悪さから意識を逸らすように、まだ桜子が口元を隠している参考書の表紙を覗き込んだ。装丁は十二単の絵の上に草書体を使った和風のものである。


「……古典ですか?」

「あ、はい。塾の授業が現代文中心だから、古典はほぼ自力なんですよ」


 桜子の第一志望の国立大学は、国語の問題、特に古典や漢文が特殊なことで昔から有名だった。頭を倒して表紙を見ていた葉太と目が合うと、桜子は「そうだ」と参考書を顔から離し、開いた頁を葉太の方に向ける。


「ちょっとここのとこ、どうしてもよく解らないんです。先生、教えてくれませんか?」


 参考書を手渡された葉太の手指が強張った。トップレベルの国立の受験問題。予備校教師でも毎年、傾向と対策に試行錯誤する領域だ。

 頁の中で指差された問題をゆっくりと熟読する。七言律詩の第四句に「香炉峰」の文字。白居易の有名な漢文だ。しかし問は、漢文そのものではなく日本古典と絡めたものだ。


「枕草子に繋がるのはわかるんですけど『もう一つの平安の古典』ていうのが解らなくて」


 問題文を全て読み終え、葉太はすぅ、と鼻で深呼吸をする。指関節の緊張が弛緩する——高校生になら難問だろうが、大学で古典を専攻した自分なら解ける範囲だ。


「多分、模範解答の一つは『源氏物語』かな。光源氏が『白氏文集』を愛読しているから」


 スマートフォンを取り出し、検索サイトから『源氏物語』の該当文を探して見せ、当時の平安貴族の間でいかに白楽天が高名だったか、そしてそれを愛読していることと教養人のステータスとの関係、白楽天と平安貴族の宗教観などを解説した。有名な『枕草子』の中宮の話で簡単に済まさない、という大学側の目論見が読み取れる凝った設問だ。


「なるほどー! それすごい面白いですね。塾じゃそこまで説明してくれない」


 ほうほう、と頷きながら説明に耳を傾けていた桜子は、葉太の話が一区切りすると心底感動したように書きとったメモを上から下へ見直す。そしてちらりと腕時計を見ると、地面においてあった鞄を取って立ち上がった。


「ああ、もう時間ですか」

「はい。……あの、先生、土曜日の帰りっていつもこの時間ですか」

「ん? まあ大体そうだけど」


 普段のはきはきとした物言いとは違って、桜子は遠慮がちに、座ったままの葉太を見下ろした。


「……古典、また、教えてくれませんか?」


 どくん、と葉太の胸の内が鳴る。桜子の真っ直ぐな視線が、じっと自分の瞳を覗き込んでいる。

 見上げた顔を動かさぬまま、葉太は生唾を飲み込んだ。


「わかりました」


 意識的にはっきりと発音し、胸をざわつかせる声をかき消した。

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