四〜今年より 春知りそむる さくら花 散るといふ事は ならはざらなむ

 次の週から、葉太は土曜日の夕方の公園で桜子に古典を教えることになった。とても葉太の普段の授業教材では足りない。資料室で桜子の志望大学の赤本から古典の問題をコピーし、他の教員に助言を請いながら各予備校が出版している問題集も集めて、ここ数年の出題傾向を研究した。

 評判と同じく、設問はどれも非常に凝っていた。古典原文の口語訳や書き下しなどといった単純なものだけではなく、高校までに扱う他の古典作品との関連も解答させる。さらに数年分の試験問題を見ていると、同じ学科の受験科目に含まれる日本史の知識も一緒に量ろうという狙いがあるのが見えてきた。

 難度の高い過去問の解説は思うようにいかず、葉太はノートの上で単語と単語の間に不格好な線を引きながら、ベテランの塾講師を想像しては書いたものを鉛筆で塗りつぶしたい衝動に駆られた。

 しかし桜子は、どもりがちな説明に相槌を打ち、自分も色ペンで印をつけ、納得が行くまで質問を繰り返した。古語が持つ複数の意味や、和歌に含まれる言葉同士の関係を説明するのに、葉太は言葉を探し、図を書き、時にはスマートフォンで季語が表す風景の写真を探した。


「ああ、そうかぁわかったぁ!」


 理解した時の桜子は決まって睫毛をしばたたかせて笑い、それを見ると葉太は、ほぅ、と息がつけた。


「でも先生、『方違え』っていうけど、こういう方角の考え方っていつ頃からなの?」


 そして設問を解答し終えると、大抵の場合、桜子の興味は設問に使われた古典の背景に向けられた。まるで葉太が大学の国文専攻で調べたようなことを聞いてくる。分かる範囲で答えると、桜子は「面白い」と飽きる事なく質問を重ねていった。頼まれたわけでもないのに、土曜日の葉太の鞄には大学時代の講義ノートや専門書の占める割合が増えていった。

 中でも特に桜子が食いついたのは、日本古典の中でしばしば出てくる桜の話題だった。


「秋田先生、吉野の桜って見たことあります?」


 センター試験も終わり、出席日数の足りた外部受験生が、本試験に向けて高校には登校しなくなってくる一月の末。公園のベンチで葉太の作った問題を解き終えた桜子が尋ねた。


「吉野? そういえば奈良には旅行したことがあるけれど、桜の季節には行ったことないですね」


 ——越えぬ間は 吉野の山の 桜花 人づてにのみ 聞きわたるかな


 設問の出典は、古今和歌集の紀貫之の歌。まだ評判を聞くしかない吉野の桜と、直に会えない女性への想いをかけた歌だ。


「なんだか和歌とか見ていると、この辺りの時代の人たちって桜っていうと吉野が多いじゃないですか。でも吉野って昔は桜のイメージじゃなかったらしいんですよ」


 ペンを置いて、桜子は缶珈琲を手のひらで包んだ。


「その昔は吉野といえば雪だったみたいなんです。それが桜のイメージになったのって、いつ頃からなのかなぁって」

「春川さんは本当に、桜にまつわるあれこれが好きだよね」


 これまでも、和歌や古典に出てくる桜のほか、細川家などが家紋にした桜紋の由来など、桜子はその時代、その人物にとっての桜の意味や桜を巡る歴史的背景に興味を示した。そしてネットや何かで調べては、葉太にとくとくと語った。その度に葉太も自分が知らなかった知識に驚き、面白く思ったのだ。


「うーん、好きっていうか、興味あるっていうか。日本人って桜にすごく愛着があって、各地の桜に謂れとか歴史があるじゃないですか。この公園の桜の木もそうですし……それに桜の名所って日本だけじゃないんですよ」

「へぇ、そうなの?」

「はい、春子先生が言ってたんですけど、イギリスとか、ドイツとか……カナダなんかにも。そういう文化って日本からの影響なのか、現地で発祥したのか、どっちなんだろうって」


 そういえば英語担当教師の立川春子は、大学生になる時からロンドン在住だったと聞いた。面倒見の良い若手の教師で、桜子が英語研究室の前にいるのも良く見かけた。

 公園の澄んだ空気の中で、二人の吐く息と立ち上る珈琲の湯気が混じる。


「海外でも桜は日本のイメージが強くて、桜にかけた俳句コンクールとかもあるらしいけど。桜って日本と世界と、色んなところで繋がってるのも不思議で」

「もしかして春川さんが大学でやりたいのって、そういう桜を核にした文化交流とか、歴史研究?」

「あ、はい。そうなんです。どの国では桜と日本が結びつくのか、結びつかない国はどこかなとか。いつぐらいから日本が桜のイメージになったのか、そもそも桜が日本にきたのはどういう経緯なのか、みたいな、いろいろ」

「ああ、だからあの志望学科選択だったんですねえ」


 ——比較文化学科、文学部、史学科——統一性がなく不思議だったが、桜子があまりに迷いなく見えたので、必要以上に深いところまで突っ込むという、教師の一線を超えることは避けていた。だが確かにこうした学科に進めば、なんらかの方法で文化形成や国際間の文化交流の歴史などを学び、研究することができる。ばらばらに見えた志望校が一つの穴にストンと落ちた気がした。

 級友を大きく引き離す才に恵まれながら、ふとすると謙遜ではなく自身を卑下するような諦めた眼差しを見せる割に、夢中になるものには止まらない。

 活き活きと語る顔や声は、記憶の中の懐かしいものと重なった。


「それじゃあ今日は最後に、春川さんに一ついいものを見せてあげます」


 腕時計を見ればもう塾の授業時間まで間もない。ベンチから立ち上がって空になった珈琲の缶をゴミ箱に投げ入れ、葉太は桜子を促して池の端へ向かった。鞄を抱えた桜子が怪訝な顔をしてついてくるのを背後に確かめながら、公園の奥の方、ベンチからは見えない池の反対側へ回る。


「わ……あっ」


 見上げると、小さな提灯のように丸みを帯びた濃いピンクの花が、山吹色の雌しべと雄しべをのぞかせ、より固まってこちらを向いている。開花した花はまだ少ないが、立派に伸びた枝のあちらもこちらもが、膨らんだ蕾の紅で飾られていた。



土肥とい桜、昨日、一昨日で咲き始めたみたいなのを見つけたんだ」

「土肥桜? 初めて聞きました」

「伊豆の方でしか咲かないらしいんだけど、その昔にうちの理事長が一本だけ、伊豆のご友人から譲り受けたらしい」

「先生、詳しいですね」

「春川さん見習って調べました」


 桜子はぷっと吹き出した。そして改めて、夕暮れに赤みを増した花弁を見上げる。


「知らなかったぁ。先生に先越されたなぁ」

「いいタイミングで咲いたでしょ。春川さんの験担ぎにちょうどいいんじゃない」


 大好きなものに、素直な笑顔を向ける。愛しい思いが、ほろ苦さと一緒に蘇る。

 冬の桜を見せたのは、激励したかったのも本心だが、懺悔もあったのかもしれない。


 ノートで口元を隠して笑う桜子を振り返り、葉太は声に力を込めた。


「サクラサク。大丈夫、今まで通りやってください」


 塾の講習も今日が最終日。つまり葉太の個人指導もこれで終わる。二月に入れば、受験本番の個人戦だ。


 ***


 受験の結果は、学校にも生徒から合否報告が寄せられた。教員の多くが予想した通り、桜子は順調に歩を進めていた。

 センター試験枠での出願校は悠々合格。二月頭に受けた滑り止めの大学は、授業料免除の特待生合格だった。その次の日が試験日だったという第三志望の私立大学は、リスニングに苦戦したとメールが来たが、合格発表日には桜マークが葉太のメールアプリのスレッドに入ってきた。それがバネになったのか、記述問題が難解な第二志望の大学も、電話口から明るい声が結果を知らせた。残るは、

 第一志望の国立のみ。

 難関中の難関である。センター試験はなんとか合格圏内に滑り込んだが、出題傾向からして、毎年どの教科でも必ず一癖も二癖もある難問が出るのだ。


 一次試験の結果が出て、受験を終えた外部進学の生徒が一人、二人、と再び登校してくる三月。桜子の姿はまだ無かった。

 だが遠方の大学だったため、旅疲れや場慣れしない緊張ということもある。二次では大学の様子も試験の雰囲気も経験済みだ。全国模試では合格圏内にいたのだ。落ち着いてやれば、十分可能性はある。


 三年生担当の教員席で、国立受験者を担当する担任達は、言葉少なに二次試験当日を過ごした。その後数日、各大学の合否発表日ごとに、職員室の窓越しに見える桜の蕾は段々と色付き、電話に応対した担任の表情が時に苦々しく、時に安堵の顔に変わっていく。


 そして、桜子の受験した国立大学の結果発表日の朝、坂道の公園の桜の蕾が、露に濡れて開いていた。

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