五〜春風は 花のあたりを よぎてふけ 心づからや うつろふと見む
「秋田先生」
坂道の途中、半開きになった公園の門の外から葉太が呼びかけると、桜子はベンチから立ち上がった。紅色に膨らんだいくつもの蕾の間にほんの二つ三つ、半分ほど開いた桜の花の下でふわりと一回転し、舞台上で見せたのと同じく、優雅にポーズをとって微笑む。
「春川さん、結……」
「サクラチル」
踏み込んだ葉太の右足の踵が、地面から離れたままで固まった。
「桜ばっかり気にしていたから怒られたのかな。日本史の時間、頭飛んじゃって……『北野天満宮』、思い出せなかった」
学問の神様は梅の名所ですもんね、と冗談めかして言うと、桜子はストンとベンチに腰を下ろした。制服の短いプリーツが、白い膝の上で軽く跳ねる。その上に肘をつき、並んだ三本の桜へ顔を向けて、桜子は軽く組んだ両手に顎を載せた。
「一次落ちたら、もう後がないなって、焦ったのかなぁ。頑張ったつもりだったんですけどねー。リスニングも二次の方が書けたと思ったんだけど……」
のろのろと近付いた葉太を見るでもなく、間延びした声が口から漏れていく。
「成績通知見たら、あと五人のところだったんです」
音を立てずに葉太が腰掛けると、桜子は吐息と一緒に呟いた。
恐らく浪人して再受験をする受験生が多いからだろう。桜子が受けた国立大学は、合格発表の後で成績を受験生に告知する。
あと五人。
一つ配点の高い問題が解けていれば。
記述式にあと一文、説明が足せていれば。
見直しがもう一度出来ていたら。
「ほんの少し」で、十二分に手の届いた距離だ。
他の同級生が遊びに部活に目一杯時間を使い、今しかない高校生活を満喫している中で、わずかばかりの
高校生にとって、引き換えにしたものがいかにかけがえなく、その期間がどれほど長いものか。
「……それは……」
葉太が言う前に、桜子が吐き出した。
「悔しかった。北野さん書けたら受かってたかもしれない。泣いたよ通知見て。ものすごい泣いた。めちゃくちゃ悔しくて、泣きまくってたら……」
視点を動かさず、上がり気味に小さく窄まった肩に、葉太は手を伸ばした。いまかけてやりたいと思った言葉に、口を開きかけた——
「『思い上がるな』、って」
公園に小さく響く声に、初めて嗚咽が混じった。
「『そんなに悔しいなら、高校三年間、部活じゃなくて勉強すればよかったじゃない』、『あんたより上はたくさんいる』」
葉太は、出しかけた言葉を喉の奥で飲み込む。
「比較文化はね、『医療と違ってなくても生きてける分野』で、『大学行けずに就職する子だっている』……『そんな甘い人間に育てた覚えはない』、だって」
全部、正論だよ、と小さく呟いて深呼吸し、元の姿勢のままで、矢継ぎ早に桜子は続ける。
「うちの親、厳しいんですよね。小学校の頃から、テストとかで九十八点とって頑張ったって思って見せても、褒めてなんてくれなくて。『どこケアレスミスしたの?』って」
桜子の母親には、保護者面談で会ったことがある。極めて礼儀正しいのと同時に、固い信念を持っていて、自分に厳しそうな人間という印象を受けた。
「進路は兄にも私にも自由に選ばせてくれて、兄は親と同じ方面に行ったけど、私は全然違う分野を選んだら……でも好きにしろって言った割には、ことあるごとに、それ何の役に立つの? って」
桜を見据えた眼は潤んでいたが、そこから頬へつたるものはない。時折かすれた音を混ざらせ、短く文を切りながら、言葉が継がれていく。
「兄は優秀で、いつも出来たお兄ちゃんだって、褒められて。歳が離れてる分、親も兄に頼ること多かったけど、それに比べて、私はいつも面倒かかるわねって」
両親が上の子と下の子で違う扱いをするのはよくあることで、それは上と下のどちらかを贔屓するのではなく、愛情の現れ方が違うという場合もある。第三者である葉太が口を挟むところではない。
「家の手伝いとか、お稽古とか、勉強とか、頑張ったら、って思ったけど、親の頭にない分野を選んだ時点でもう、どうでもよくなっちゃったのかな」
ただ、今の桜子を見れば、家族の中で知らず知らずのうちに圧迫されて、その息苦しさの中でも足掻いて保ってきたものが、粉々になってしまったのは確かだ。
「お兄ちゃんほど優秀でもなくて、お母さんの思う通りの道を行かなくなった子供なんて、いらないのかな。頑張っても、完璧じゃなくて弱い子は、必要ないのかな」
桜子の目は、桜の木を越えて、ここには無いものを見ているようだった。時たま睫毛が細かく
「『私』が『私』のままで、そのままの『私』を、無条件に必要だよって、そう言ってくれる人なんて、家族じゃなかったら……他に……誰がいるんだろう」
高校生の世界、しかも内部進学者が多くバイトも原則禁止という、外の空気に触れる機会の少ない私立高生の世界は、本人達が思う以上に小さい。学校と家庭の往復。その毎日で、家族の存在は良くも悪くも大きすぎる。さらにどんなに親しい友人がいても、外部進学者がごく少数の状況で、誰に理解を求められただろう。
唇をひき結んだ桜子は、前を向いたままもう一言も発さない。
ただ葉太のすぐ脇で、ギュッと力を入れて固まった肩からは、自分からは助けを言えずに、それでも何か言って欲しくて、少しも身動きがとれずにいるのがよく分かる。
もし、エスカレーター式の学校でなかったら。
女子校ではなく共学で、彼女を受け止めてくれる恋人がいたら。
高校ではなく、もっと個々が自由で、世界の広がる大学に進んだら。
高校までの時間は長い。葉太にとっても長かった。でもその時代のあとを曲がりなりにも生きてきたから、わかったこともある。彼女の未来は、まだ先にあるはずなのだ。
教師として言えることがあるはずだった。たくさんの「もし」の中に、口にすべき言葉に迷い、切り捨て、探した。
「……いまは、辛く思えるかもしれないけど……これから大学に行って、色んな人に出会ったら。そしたら、いつか、君にも——」
「そうやって秋田先生も、『いつか』、って言うんですね」
灰色のブレザーが、さっと葉太の視界を遮って通り過ぎた。
その背中に伸ばした手は、届かなかった。
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