六〜桜花 今ぞ盛りと 人は言へど 我は寂しも 君としあらねば
——葉太とは、いまも、ずっと、一緒にいたいんだよ。
顔に当てたジャケットの袖をずらし、瞼を半分開ける。蛍光灯の光がうるさい。
あの日のあと、卒業式の練習日と大掃除が続いた。桜子が葉太のところに来たのは第二志望の私立への進学報告を提出しに来た時だけで、それ以外は見るからに葉太を避け、当然、公園にも姿を見せなかった。
麗花の時と同じ過ちをしたと、言ってしまってから気がついた。
大学生の時、語学のクラスが一緒だった麗花は、誰が見ても明らかな才女で、文理多岐にわたる一般教養科目のどれもそつなくこなす、器用で優秀な学生だった。しかも才能を自認して傲ることはなく、温和で前向きで、誰からもよく好かれた。
けれども秀でた才能と性格は、他の学生には溶け込まず、麗花のいるところだけ、空間が切り取られて見えた。
付き合い始めたのは、麗花が持っていた本に葉太が興味を示したのがきっかけだった。児童文学の研究を志していた麗花は、穏やかで一歩引いてものを見る普段の様子とは打って変わって、顔を輝かせんばかりに自分の好きな文学世界を話した。まだ古典に専門を定めず、小学校教師も視野に入れていた葉太は、麗花の話に強く惹かれた。専門性が濃い内容では葉太が質問するばかりになってしまったが、そんな時麗花は、「聞いてくれるのが嬉しい」と喜んだ。
しかし、話を聞くたびにその知識や思考の深さ、目指すものの高さに気づいていき、怖くなった。自分よりもはるかに上にいる麗花に対して、一体、なにをしてやれるのかと思った。さらなる専門性を求めた麗花とともに、高校教師を志望して院に進めば、その差はもっと歴然と感じられた。
麗花は自分とは違う世界にいる気がした。一緒にいるのが苦しかった。
——麗花のことはいつか、俺よりできるやつが支えてくれるよ。
指導教授から麗花に留学の勧めが来たときだった。就職するか、このまま日本の博士課程に行くか、それとも遠い海外へ渡って、何年かかるかわからない向こうの研究員として受け入れてもらうか。選択肢の中で、麗花はそれまでにないほど昼夜顔を暗くしていた。
一方葉太の方はと言えば、修論の内容にすら頭を悩ませている有様で、難題に挑む麗花になんの打開策も示せず、そもそも自分が抱える問題とのあまりの次元の違いに苛つき、口をついて出た一言だった。
その日から、互いの関係が変わった。分野違いでゼミが別々なのが幸運だと思った。間も無く佳境に入った教員採用試験の勉強を理由に距離を取るようになり、女子高校の採用が決まった後は、麗花の留学準備を邪魔しないという理由で避け続けた。そうして喧嘩とも言えない状況でまともな話し合いもしないまま、麗花は留学した。
しかし、その後から記憶を辿って、気づいたことがあった。
あの日、葉太を見た麗花の瞳が、他の学生たちの間にいる時と同じだったということに。
そして麗花が葉太に、「一緒にいたい」と自分の希望を強く口にしたのも、あの時だけだったことに。
麗花が自分から、周りに溶け込まなかったのではない。語学クラスの学生たちが、つるんでいた仲間たちが、葉太が、自分とは違うと勝手に線引きをして、麗花を「優等生」に仕立てたのではないか。
自分ではない他者の中に、作られた自分の像を見つけて、それが麗花を踏み込ませなかったのではないか。
麗花の瞳に浮かんでいた感情は、「寂しさ」だったのではないか。
そして歳をとり、年長者として、教師として生徒の前に立つようになって思った。
生徒の前で教師は、常に手本でなければならない。
教え子に向かって、求められるレベルを保ち続けるのが無理などとは言えない。力不足だと泣き言を口にもできない。
教師として校内にいるときに、不安も疲れも曝け出し、身を傾けて休めるところはない。
比べられるものかは分からないが、それでもなんとなく、麗花の気持ちがわかり始めた気がした。
いつも努力し続け気張っていた麗花は、力を抜いた自分を受け止めてくれるところが欲しかったのではないか。
「優等生」という、同じ名前で呼ばれる大多数の一人ではなく、「麗花」としての自分がいる場所が必要だったのではないか。
——このまま、また
卒業式は、週明けの月曜日。
葉太はベッドから身を起こし、スタンドのライトを点けた。
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