七〜去年の春 逢へりし君に 恋ひにてし 桜の花は 迎へけらしも

「さて皆さん、これが最後のホームルームになるわけですが」


 ホールでの式典を終え、校舎前での集合写真撮影から帰った教室。教壇の葉太から見えるのは、晴れやかな笑顔だったり、頬を濡らした泣きっ面だったり、普段と同じ斜に構えた様子だったり、実にそれぞれの生徒らしく、そのどれもが愛らしい。


「これから皆さんは大学に進み、高校とは違って多くの自由を得て、それと同時に責任も増えて、不自由も増えます」


 ぷっと吹き出すのが真ん中の席から聞こえ、「ええー、先生何それぇ」というお調子者の体育祭委員の声が飛ぶ。ざわめき出した教室を、葉太はまぁまぁと宥めた。


「どこに行っても、何をしても、皆さん一人一人が自分で立って歩いていきます。たくさん悩んで、たくさん考えて、皆さんだけの道を作ってください」


 教室の一番後ろ、窓際の隅の席へ座った桜子は朝から一度も葉太と目を合わせようとしなかった。今も両手の指を絡ませて、机の上を見つめて俯いたままだ。


「先ほど皆さん一人一人に渡したのが、私からの高校最後のメッセージです。うまく書けたかは分かりませんが、皆さんへの気持ちを正直に書きました」


 教室内の端から、生徒一人一人の顔を確かめる。窓際の列まで顔を回すと、桜子は封筒を机の上に立てて見ていた。葉太と一瞬目が合い、さっと窓の方を向く。

 葉太は顔を正面に戻した。


「あとで開けて読んでくれたら嬉しいです。それでは皆さん」


 初めてクラスに挨拶をした時と同じように、目を閉じて、また開いた。


「卒業おめでとう」


 ***


 週末に気温が上がったせいだろう。坂の下から見上げると、あちらにもこちらにも、まだ開いていなかったはずの蕾がほころび、濃い枝のあちこちを白い花びらが飾っている。

 その間に青空を探しながら登っていく。近づいてくる公園の門はいつもと同じ半開き。その向こうに、灰色のブレザーが見えた、


「やっぱり、ちゃんと来てくれたね」

「だって先生、『公園ここで』ってだけで、他に何も書いてなかったですもん……」


 ベンチから立ち上がり、桜子は伏し目がちに呟いた。

 思った通り、桜子のような生徒は意地をはり続けることが苦手で、基本的に素直なのだ。


「春川さん、先週、カッコ悪く失敗した僕から君へ、贈る言葉を聞いてくれますか」


 そっと睫毛をあげて、桜子はぎこちなく頷いた。

 言おうとしていることが、今の桜子に対して正解かはわからない。正解なんてわからない。それでも桜子と正面で向かい合い、葉太は一つ一つ舌の上で確かめるようにして、選んだ言葉を音にした。


「一つ目は、君の担任教師としてのメッセージです。まず、ありがとう」


 桜子がきょとんと瞬きをする。葉太は十ヶ月前の面接で桜子と初めて二人で向き合った時を思い出した。


「実は僕は、国立大志望の生徒の担任は初めてだったんです。緊張したよ。センター試験と二段階で、試験も私立校とは違う一次と二次があるスケジュールで。しかも超難関。どんな対策をすればいいのか、全く解らなくて。担任なのに、サポートなんてできるのか、すごく自信がなかった」


 もしかしたら、葉太の方が怖がっていたのかもしれない。


「でも春川さんはここで、僕を頼ってくれました。僕の下手くそな解説でも、面白いと聞いてくれました。おかげで僕の方は救われる思いだった。春川さんがいてくれたおかげで、教師として、ここにいていいんだと思えました。本当にありがとう」


 下げた頭を上げると、丸く見開いた桜子の目と目が合った。


「さてここからは、もう卒業して君の担任でもなんでもない人間である僕からのメッセージ。僕もね、桜は好きで、春川さんが色々教えてくれた日本と世界の桜の文化、すごく気になるんだ」


 息が白くなる冬空の下で、頬を上気させて話した桜子。弾む声が、児童文学を語ったときの麗花と重なった。


「でも僕は基本的に怠け者なので、専門書を探したり解説読んだりするのは正直、音を上げる予想しかしない。でも我が儘なので、桜文化は知りたい。それも一番頭に入ってくる方法で。だから、春川さんのレクチャーしか受けません」


 古典の中に出てきた桜の話。どんな小さなことにも食いついて、調べたことを報告してくれた桜子。どの話もその時々の桜子の顔と一緒に、葉太の記憶に残っている。


「教えてください。春川さんがこれから見つけたこと。分かったこと。世界の色んなところで見た桜について。僕には春川さんの解説が必要なのを覚えておいて」


 聴きながら桜子が口元に手を当て、目元が次第に緊張を緩ませていくのがわかった。


「最後に。この街から出て色んなところへ、ひょっとしたらすごく遠いところまでやりたいことを目指していく君に、君の卒業校の教師として、この街に残る僕からのメッセージ」


 桜子の後ろには、等間隔で並ぶ三本の木。遠い昔の卒業生が植えた見事な桜の枝の先にも、薄紅色の花弁が開いている。


「無理してるなと思ったり、疲れて休みたくなったら、いつでも戻ってきなさい。一緒に社会からちょっと抜け出そう」


 外の世界を知らなくても、その日その日が全力投球の、女子高校。


「待ってますからね」


 最後の言葉を葉太が言い終えると、一呼吸の沈黙のあと、桜子の顔が笑いに崩れた。夕暮れの陽が当たって目元が光る。小さく震える笑い声が、はじめは途切れながら、次第に我慢できなくなったように、口元から溢れ出る。


「それじゃあ秋田先生、私も、お願いがあります」

「ん? 何かな」


 ようやく呼吸を整えて面をあげた桜子の目には、部活や桜に夢中な時と同じ、葉太が久しく見ていなかった曇りのない輝きがあった。


「私が世界の桜を先生に教える代わりに、先生はここに残る人として、私に毎年、この公園の桜の様子を知らせてください」

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