壱〜春霞 たなびく山の 桜花 見れどもあかぬ 君にもあるかな
見下ろすと、白と薄紅色の点描が視界一面に散りばめられた世界がずっと先まで続いている、そんな錯覚が起こる。まだ冷たく澄んだ朝の空気の中、点描の僅かな隙間から降る光は、合間に見える焦げ茶の線をくっきりと浮かび上がらせ、それがまた淡紅色を映えさせた。
足元から急な角度で降りていく道をうっすらと覆う花片は、気まぐれに通り過ぎる風に吹き上げられ、雪のように舞い落ちる花片と宙空で戯れる。
一年でほんの一時しか姿を現さない、公園の間の幻のような桜色のトンネル。真っ直ぐに伸びたその先に、彼女はいた。
見慣れた女子高校の制服。灰色のブレザーに白のブラウス。舞い散る花片に誘われるように、ポニーテールの髪をなびかせ片足を上げて軽やかに一回転すると、地についた爪先で踏み切り、そのまま学生鞄を振りながら駆けていく。
顔まではよく分からなかったが、一回りした胸元に揺れたリボンの色は、桜色。
葉太が受け持つ新三年生の学年カラーだった。
***
一学年十クラスの私立高校。生徒数が多すぎるために各科目につき二人の教員で学年半クラスずつを担当する。そのため、葉太がその生徒の顔を知らなかったのも無理はなかった。
しかし彼女が何者かは、その日のうちに判明した。大学までエスカレーター式の葉太の女子高校では、三年生でもクラス替えを行う。始業式に先んじて出欠をとる中で、彼女——春川桜子はポニーテールの頭をスッと上げ、快活に返事をした。
普段なら葉太も、新しいクラスを担当するとしばらくは名前を呼ぶのに逐一名簿を確認するのだが、桜子は例外だった。恐らく始業式の朝の一件がなくても、桜子という生徒は教師にとって嫌でもすぐに記憶されただろう。
率先してクラスのリーダーシップを取りに行ったり、逆に思春期にありがちな反抗的な態度をとるわけでもない。しかし驚くほどよくできたのだ。
葉太がそれに気がついたのは、担当する古典科目の新学期二回目の授業だった。次の時限に数学の小テストを控えた生徒達は、三十代で教師の中ではまだ若い葉太が授業を始めるや、口々にせがみ出した。
「秋田せんせーい、じしゅーにして自習!」
「古典、まだテスト先じゃーん」
「葉太くーん、すーがく、範囲広いのー」
次第にクラスの大半の声が「じーしゅーう! じーしゅーう!」と揃ってくる。数学の同僚教師は厳しいので有名だ。葉太は仕方がないか、と女子生徒たちに苦笑して、教科書から適当に選んだ和歌を黒板に書きつけた。
——吉野山 八重たつ峯の 白雲に かさねてみゆる 花桜かな
「それじゃ、この和歌の作者と口語訳を答えられたら残りは自習にしてあげる。ええと……」
教室を見廻し、おや、と思う。座っている生徒はわかっていない場合が多いが、教壇に立っている教師から授業中の内職の様子はよく見える。しかも大多数が顔を見上げて葉太に自習を要求している中で、俯いているとすれば尚更だ。
窓際に並んだ机の一番後ろの席に座り、白い表紙の古典の教科書で赤縁の数学の問題集を押さえ、ひたすらシャープペンを動かしている生徒。葉太の目が彼女——桜子のところで止まったのも、ごく自然なことだ。
その時はちょっとした小さな注意がわりのつもりだった。しかし、葉太が指名する前に生徒達が一斉に教室の斜め後ろへ振り返り、葉太の口の端まで出かかっていた名前を呼び始めた。
「桜子!」
「春ちゃん、やってー!」
「さくらー、自習ー!」
突然呼ばれた本人はと言えば、特に慌てた様子もない。「え」と呟いて顔を上げると、どうすべきかと問いたげに葉太を見る。
「じゃあ、春川さん」
「はい。えっと……後拾遺集で清家だから平安中期の作で、吉野の山に幾つにも重なっている白い雲に重ねて……」
別科目の問題を解きながら授業を聞いていたにしては淀みなく解答し、桜子は周囲からの賞賛に少しはにかんで、首をわずかに傾げて再び葉太を見た。文句をつけようがない。葉太は自習を許し、教室は女子高生の甲高い声の歓喜の渦に飲まれた。
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