源氏車、燃ゆる。
田所米子
源氏車、燃ゆる。
明治天皇の御代には珍しかったという、亡き祖父ご自慢の硝子の窓は、細かく波打ち、ところどころ気泡が入っている。その嵌め殺しの窓から眺める庭では、菊桃が――源氏車との雅な異称でも呼ばれる樹の花が、赤々と咲き誇っていた。
歪んだ硝子越しに眺める源氏車は、淡く春霞に覆われていることも相まって、さながら
いや、燃えているのは源氏車だけではない。源氏車に囲まれた屋敷の家計もまた、燃えているのだ。もしかしたら源氏車よりもずっと。
――銭や土地は失ってしまったとはいえ、古くは名主を務めた先祖の誇り、ゆめ忘れてはならぬぞ。
と、事あるごとに口を酸っぱくして朝子に言い聞かせてきた父自らが、こそこそと貧農上がりの成金の屋敷に足を運び、融資と引きかえにという条件で娘を売る程度には。
明日の早朝。街を歩けば今小町と持てはやされた麗しい令嬢は、成金の後妻となるべく、ところどころ手入れが行き届かず痛みだした屋敷から発つ。この結婚が纏められた後、朝子は滂沱の涙を流して定めを拒絶していた。これでは身売りではないか、父上は私を遊女にされるおつもりなのか、と。だが、どうして娘が父の取り決めに逆らえよう。たとえ、生家が落ちぶれた原因が、色男で鳴らした父の、花街と賭博での度が過ぎた放蕩だとしても。
これまた祖父が西洋から取り寄せたという椅子に腰かけ、往時と比すれば荒れ果てた庭を見やる娘の様子に、一抹の危惧を抱いたのか。
「何を、考えている」
愛娘と最後の親子の時を過ごすという名目で、幸薄い娘の一挙一動を監視していたに違いない中年の男は、齢を重ねてもなお端整な面を蒼ざめさせた。
「朝子
すっきりと切れ上がった眦に、整った鼻梁。自分とよく似た瓜実顔が慌てふためく様はどこか滑稽で。汗の珠が浮かぶ秀いた額の、昨年よりもあからさまに後退した生え際を仰ぎながら、
「お前は、私を恨んでいるだろうな」
「いいえ、ちっとも。生まれてからずっと屋敷に置いていただき、こうして立派な殿方の下にお嫁にも出して下さるのです。どうしてお父さまをお怨み申し上げるでしょう」
これは、紛れもない夕子の心情だった。父は、賭博と女遊びで拵えた借金の形にして、先祖伝来の土地を瞬く間に失った、付ける薬のない愚か者である。だが、自分に美しい容貌を受け継がせてくれたのは、紛れもなく父なのだ。感謝しこそすれ、どうして憎んだりするだろう。
二つ年下の一家の
「……ならば、この役目、恙なく果たしてくれるか」
「ええ、もちろん。今まで衣食の世話をしていただいたご恩は、必ずやお返しいたします」
いい加減、夕子には逃亡の――この屋敷からという意味でも。はたまた花の盛りの美しさを成金の慰み者として、あたら朽ち果てさせなければならぬという運命からという意味でも――意図はないと納得したのだろう。
朝子の居室から出でんとした父の、めっきり寂しくなった背に、夕子は問いかけた。
「朝子さまは、朝子
私、ずっと朝子さまのことを案じておりましたの。そう涙声で呟くと父は振り返って、濡れた長い睫毛に白魚の指を押し当てる夕子の面をひたと見つめた。
「あれの捜索は、もう打ち切った」
「そんな……」
「同時に、あれとの縁も切った。万が一戻って来たところで、二度とこの屋敷には入れさせん」
血走った目と、握り締めた拳の様子からも、父の怒りが伝わってくる。
「あれのことはもう忘れろ。明日、いや今日のこの時から、お前こそが朝子なのだ」
「承知いたしました」
頭を垂れて父の背を見送った娘の口元には、変わらずに笑みが湛えらえていた。父のあの様子では、ことの真相に気づくどころか、夕子を疑ってすらいやしまい。
流石、お父さま。相変わらず、節穴でいらっしゃるのね。
父親ほどには魯鈍でない異母兄だけでなく、まだ十四の華子でさえも薄々感づいているだろうが、夕子は朝子と下男の仲を、知って知らぬ振りをしていた。どころか、朝子に自分の着物を着付け、変装の手伝いさえしたというのに。
まだ祖父が辣腕を振るってこの屋敷に君臨していた時分。父は大勢いた奉公人の一人の、給金の前借を許す引きかえに、その奉公人の妻を夫の目の前で組み伏せた。そうして事実上の妾となった奉公人の妻の腹から、夕子は生まれたのである。正妻腹の朝子と同じ年、同じ月、同じ日の、ほとんど同じ刻に。
父は珠のように美しい朝子を、目に入れても痛くないほど可愛がった。が、夕子の方は役所に奉公人の娘として届けを出させただけで、我が子と認めようともしなかった。というのも、共に父親に似た夕子と朝子は、別々の腹から生まれたというのに、まるで鏡映しだった。ために父は、夕子と朝子が畜生腹と間違われるのを厭ったのである。
夫に売られたという悲哀を背負いかねたのか。母は夕子を生み落としてすぐに息絶えた。同時に、戸籍上の父は程なくして酒浸りになったため、夕子はやむなく屋敷の日の当たらない一画で飼い殺されることとなったのである。
下女が丹念に梳った髪に
放蕩ゆえに父祖伝来の土地を、ひいてはその上がりを失った父。まだ残っていた奉公人にはうつけと蔑まれていた父に救いの手を差し伸べたのは、世界大戦のために需要が高まった鋼鉄事業で著しい成功を治めた成金だった。無論、狙いは今小町と名高い朝子である。
質入れせずに残していた一張羅で着飾り、夫となる男と初めて引き合わされた後。朝子は、どうしてあのような男に抱かれねばならぬのかと、離れにすら届く声で泣き叫んでいた。下女であるかのごとく装って表に出た夕子が垣間見た朝子の未来の夫は、口が裂けても美男とは称せない容姿をしていたので、朝子の嘆きはもっともである。
二回目の顔合わせの際。細君となる朝子と多少なりとも関係を深めておきたいという、見え透いた口上を聞き入れた父は、成金と朝子を部屋に二人きりにした。
すると轟いたのは案の定、朝子のか細い悲鳴である。だが屋敷の誰もが、此度の輿入れを決めた父どころか、朝子の母親までもが聞いて聞かぬ振りをしていた。夕子以外は、皆。
継ぎだらけの襤褸姿であれば、朝子の妹とは見抜かれぬだろう。けれども夕子は念には念を入れて、手拭いで顔の半ばまでを隠した。そうして、同じ年頃であるため多少なりは親しくしていた下男と共に朝子の部屋に押し入ると、待っていたのは予想通りの光景である。成金は床に押し倒した朝子の帯を解き、朝子の瑞々しい素肌を弄っていた。
「お嬢様に、一体何をなさるおつもりなのです」
夕子と朝子は、顔立ちや背格好のみならず声すらも、実の親が紛うまでに似ている。狼藉の場を暴かれ慌てふためいていた助平爺が、その奇妙な類似に気づいたかどうかは定かではないが。
「此度のお嬢様への無礼は、旦那様の御耳に入れるつもりはございませぬ。ですが、どうか。せめて、嫁入りまでは辛抱してくださいませぬか」
当主たる父に報告するつもりはないという言葉と、深々と下げた頭に安堵したのだろう。成金は何食わぬ顔をして修羅場から去っていった。
「ああ、朝子さま。朝子お姉さま。なんておいたわしい。あと少し遅かったらと考えると、心底ぞっといたします」
「……夕子。お前、どうして、」
今まで散々お前を虐め抜いていたわたくしを、どうして助けてくれたの。
恐怖と屈辱のあまり白くなった唇を戦慄かせた朝子の労苦を知らぬ手を、夕子はひしと握り締めた。血の気が失せて冷え切った手に、己がぬくもりを分け与えるように。
「だって、姉妹ですもの。それに、同じ女として、あのような屈辱を強いられようとしていたお姉さまを、見捨ててはおけませぬ」
「……」
「そもそも我が家が困苦に陥ったのは、お父さまの放蕩がゆえ。なのにどうして、お姉さまお独りが辛酸を舐めなければならないのでしょう」
理不尽ではありませぬか。私には、到底納得できませぬ。
夕子が言い終わらぬうちに、朝子の瞳からは、大粒の涙が零れ落ちた。
細い肩を震わせ、幼子のごとく泣き叫ぶ姉の着物の乱れを直した夕子は、朝子が落ち着くやいなやひそやかに囁いた。
「実のところ、お姉さまの危機を最初に気づいたのは、私ではないのです。なんせ私は、普段は離れにおりますから」
それから夕子はもっともらしい顔を作って、貝のごとく黙していた若い下男を、姉に引き合わせたのだった。男らしく精悍に整った顔をした寅二だ。あの成金と対面した後の姉の目には、天下一の美男子にも映っただろう。
「この寅二こそ真っ先にお姉さまの危機に気づいて、お姉さま救ってくださったのです。寅二こそ、お姉さまの恩人ですわ」
一方、かつての驕慢さが鳴りを潜めた姉の、濡れた瞳で見つめられれば、寅二でなくとも大抵の男は恋に落ちただろう。
外来軽薄でお調子者な所のある寅二は、夕子の空言に驚いた顔をしたが、数瞬の後には再び泣き出した姉の肩を抱いていた。かくして、数か月の後には成金に売り渡される令嬢と下男の、秘密の恋が始まったのである。
自分は既に家族から見捨てられていると悟ったのだろう。朝子が我が身に課せられた定めと叶わぬ恋の哀しさを打ち明けるのは、夕子だけだった。
成金と朝子の婚儀があと一月後に迫った晩。常のごとくいっそ消えてしまいたいと涙にくれる姉の耳に、夕子はこう吹き込んだのである。いっそ、本当に消えてしまえばいい。寅二と一緒に、逃げてしまえばよいではありませんか、と。
甘やかされて育てられた朝子である。姉の頭には、自分が逃げればまだ十四の華子が犠牲になるやもとか、家族や残り少ない使用人が路頭に迷うやもという迷いは、欠片も浮かばなかったに違いない。
夕子が持つ唯一の継ぎのない着物を纏い、下女に扮した姉は、寅二とともに夜陰に紛れて屋敷から抜け出した。
無論、姉の失踪が明るみに出た翌朝は、上に下にの大騒動である。しかし、事情が事情だけにことを公にできない。何より屋敷の維持に回す人手にすら事欠く没落旧家の力では、姉と寅二の行方は杳として掴めなかった。
それで父は、姉が屋敷から消えて五日も経ってから、夕子を己が居室に呼び出し、こう告げてきたのである。かくなる上は、お前を朝子として嫁がせるしかあるまい、と。
すっかり面窶れした父の居室から、なんとはなしに眺めた菊桃は、まだ蕾だった。それが令嬢らしい言葉遣いや身のこなしを叩きこまれ、また輿入れの準備に追われているうちに、花は盛りを迎えていた。まるで、夕子を言祝いでいるかのように。
夕子と夫となる成金は親子ほども年が離れているし、成金には子どころか、五つにもならぬとはいえ初孫までいる。だが、それがどうしたというのだろう。
あれから更に幾度か、朝子を装って顔を合わせた成金は、何度見てもでっぷりと肥った、踏み潰された蝦蟇のような醜男だった。しかし、夕子はそれでもちっとも構わなかった。男には、銭さえあれば良いのだ。
これから三食事欠くことなく、人形のように着飾っていられるのなら。夕子はどんな男にだって股を開いて、愛の言葉を囁こう。ただしそれは、嫁いですぐにではない。
夫が金で買ったのは、旧家の誇り高く美しい娘。ひいては大輪の気高い花を蹂躙するという悦楽なのだ。一月も経たずして媚びを売られれば、たちまち興ざめだろう。だから夕子はこれからせいぜいじっくりと、夫が望む妻――繰り返し与えられる快楽に、ついに誇りを手放し、あさましくも下賤の男を求めるようになった令嬢を演じようではないか。
女学校を辞めざるを得ない事態に追い込まれてもなお、衣食には事欠かなかった朝子だ。あの姉には、逃亡生活の苦労は耐えられまい。
牡丹は園で丹精込めて育てられてこそ、鮮やかに咲き誇るのだ。一たび野に出てしまえば、たちまち醜く枯れ果てよう。
夕子は、姉が共に逃げた寅二の人となりを、姉よりも余程把握している。あの遊び好きの軽薄な男は、あでやかに咲き誇る名花にならばいざ知らず、その慣れの果てになど早々と飽いてしまうに違いない。
朝子はいずれ無残に凋落した上、恋人にも捨てられるだろう。姉の哀れな末路を思い描き、夕子は源氏車のごとく艶やかに微笑んだ。
源氏車、燃ゆる。 田所米子 @kome_yoneko
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