最終話 ラストレター

 タケ爺は目をつむっていた。

 開けることができない。

 閉じた目尻をぎゅうっと狭ませ、「なんだか、恥ずかしいのう」とつぶやいた。


「おれは……は結局、相方にはかなわなかったってことか」


 くすりと、笑い声を漏らす。


「つづきの映像を見せてくれ」


 トミは、すぐに再生のボタンを押した。


                 *


 森の番人の仕事は……わたしにとって生きがいになってたわ。

 ここにいる、あのオオモミジの子とはうまくやれているわ。

 毎日話しかけたりしてね。

 この子は優秀だから、次の一年には、日本にいる悲しみの森の親父さんと協力して、想い人を日本まで感知してくれると思う。

 そうなったら、わたしもここから魔女みたいに、悲しみの森にいる武造さんやその近くにいる人を森の郵便屋に指名することだってできるはず。


 うん、そうね……でも、やっぱり日本の、悲しみの森で過ごした日々は、ずっとずっと胸に残っているわ。

 十年の間に一年だけっていうペースだったけど、あの人と一緒に色々な人に会って、色々な手紙を届けられたこと、忘れられないわ。


 人は一生のうち、何回の想いを伝え合えるんだろう。

 そのうちの何回くらいのことが、胸に届くのだろう。

 あの森に来た人たちからは、その大切さを学んだ気がするわ。


 でも、本当は……わたしたちは、そのことを最初から知っていたのかもしれないわね。

 あの森に住むオオモミジやおくにさんの力は特殊だけど、本当に特別なものは、わたしたちの胸に刻まれた記憶なんだと思う。

 悲しみの森に来た人たちは、確かにそれを持っていたわ。

 届けるっていうのは、当たり前でいて、とても大事なことなんだよね、きっと。


 おくにさんはね――ああいうことがあっても、源作さんのことが好きでたまらなかったのよ。

 彼女が一番届けたかったのは、きっと彼女自身の気持ちなんだと思う。

 でも、それを素直に表すには、色々なことがありすぎたわ。

 あの人の目、あの源作さんの背中を見る目が、わたしは忘れられない。

 源作さんは、どうしようもなく馬鹿な人ね。

 おまけに猪みたいにまっすぐな人だから、周りを見る目をなくしたまま、肉体が滅んでしまったのね。

 彼がふり返ることができたら……きっと、あの二人の長い物語も終わる気がするわ。

 そうなったら、あの二人はようやく、旅立つことができると思う。

 というか、そう信じてる。


 おくにさんや源作さんにオオモミジ、あの森に来たお客さん、保育園に通っていた園児やお父さんお母さん――みんな、一人でできないことを誰かに託し、伝えている。

 わたしたちが見られなかったこと、できなかったことだって、わたしたちがなにかの経験や誰かの話を伝えることで、それが受け継がれていくんだと思う。


 えっ、武造さんに言っておきたいこと?

 うーん、酔いがまわってるって怖いことね。

 きっと、わたしは、トミさんが今撮っているものが、いつかあの人に観られることを期待している。


 だから、つまりは――

 とりあえず、あの人ももういい年齢だから、無理はしないでほしいわね。

もし、あの人がを託せる人が現れたらいいのだけれど。


 ねえ、あなた。

 ありがとう。

 互いの歩調がうまくいかなくなったのと、わたしのわがままで別れてしまったけれど……。

 それでも、わたしはあなたにずっと、恋していました。

 どうか、お元気でいてくださいね。

 変わらず、わたしはあなたを応援していますから。


                 *


 ビデオが停止した。

 その画面がノイズになっても、タケ爺にはどんな風景も見えていなかった。

 ただ、喉から漏れる自分の嗚咽に戸惑っていた。

 もう、自分が涙を流すことなんか、ないと思っていた。

 だが、この年齢になって身につけた名誉な、あるいは不名誉なしわの溝に、灰色の雫がひとりでに流れてゆく。


「あのオオモミジ……。チベットに、いい息子を持っていたんだなあ」


 ひとり言のようにつぶやき、タケ爺は縁側に出た。


「女ってのは複雑な生きものだね。自分が行きたい道に行ったのに、後ろ髪は故郷に残ったままなんだ」


 そう言い置いて、トミはタケ爺から離れていった。

 夕食の準備にいったのだろう。

 タケ爺は廊下の奥の部屋へと入り、白檀の香りが静かにたゆたうその部屋の真ん中に座った。

 一通の茶色い便箋を懐から取り出す。

 彼女と別れたその夜に書いた、最後のラブレターだ。


 いざ彼女がいなくなってみると、耐えきれないほどの喪失感がタケ爺にのしかかった。

 何重にも重なった雲が心臓の周囲を支配し、視界を灰色へと変えた。


 別れた日の夜、少しでも気を紛らわすために、彼女のために手紙を書いたはずなのに、書き終わると、どうしていいのかわからなくなった。

 結局、ロッジの引き出しの奥に手紙をしまい、そのままにした。

 いなくなった彼女に語りかけるような行為は、危険だと思った。

 それからは、彼女のことを思い出すたびに酒をしこたま飲んで乗り切った。

 そうしているうちに、弱さという名の悪友が心の端にある部屋を支配した。

 そうやって、この何年かを過ごしてきたのだ。

 我ながら、ずっとずっと、情けない男だった。


(結局、源作もおれも、彼女たちに頼りきりだったな。ただ、源作の方は、を目にかけて、結果的に導いた)


 ――おれは、どうだったろう。


 タケ爺は首をふり、口端を上げた。


(ともあれ、奴なりに懸命に仕事をしてくれた日々は、悪くなかった)


 そのことに気づいた頃からだろうか。

 心に住み着き、自分をそそのかし、沈黙を愛した悪友は、いつの間にか部屋を出ていっていた。

 その後、その空き部屋には風が吹き渡った。

 ひどく懐かしく、青く澄んだ風だった。


 ――香苗、ありがとう。


 たしか、手紙の結びはそうだった。


 ――来年までに、保育園を再開させよう。本当に、そう思ってるんだ。いや、その前に……。


 廊下に戻ると、ネギを刻む音と共に、食欲を誘うにおいが漂いはじめていた。

 お茶とハンカチの置いてあるそばに、よいしょと腰を下ろし、顔を上げる。

 霞がかかったような仄かな黄金色が空に漂い、ふた筋の飛行機雲が天に向かって伸びていた。

 その下では、ジャガイモのように不器用な形をした雲がどっしりとかまえている。

 携帯電話が鳴った。

 やれやれ、こんなところにあったのかと、胸ポケットからそいつを取り出す。

 まだにじんでいる視界で、ディスプレイに目をやる。

 とたん、タケ爺の表情は賑やかなものになった。


「そうだった、明日は季節外れのバーベキューだ」


 タケ爺は携帯を耳に当て、口を開いた。


「よお、飛行機のチケットをとってくんないか。ちょいと、じじいと一緒に旅行しようぜ」


 電話口の向こうで若者が上げたすっとんきょうな声をタケ爺は無視し、顔を上げた。

 西に傾く陽を浴びた見慣れた庭が、黄金色に染まっていた。


                 おわり 

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届けて、それから 芳月啓真 @punkskei

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