第4話 葉桜の季節を迎えて

 大学時代の友人と何度かやり取りしながら週末を怠惰に過ごし、月曜日。

 朝のホームルームを終えて教室を出たばかりの葉太を、クラスの生徒が捕まえた。頬を上気させ声を弾ませて来たのは、桜子である。

「両親に、相談しました!」

 挨拶もそこそこに、開口一番桜子は葉太にそう告げた。そこにまばゆいばかりの笑顔を伴って。

「はじめは反対されたけど、休みの間にいろいろ話して、海外に行くの、許してくれるって!」

 葉太と公園で会った夜、家に帰ってすぐに両親に夢を話したのだそうだ。突然の話に呆れ顔だった両親も、桜子が本気だと知ると、真剣に耳を傾けてくれるようになったらしい。この週末の間、時間を掛けて両親とじっくり話したのだそうだ。

 そうして、ようやく理解してもらえた。応援する、と言ってくれたのだそうだ。

「やっぱりその……撮影旅行ってわけにはいかないそうです。でも、海外の大学の写真学科の留学って形なら許すって言ってくれたので、そうしようと思います」

 自由気ままな、という望んだ形のものではないようだが、異国の地で新しい景色に触れて、いくらでも写真を撮れるという点は変わらない。それに日本にいるよりは気軽に知らない土地に足を運ぶことができる。全てではないが桜子の希望に沿っていたし、両親もバックパック一つで異国を回られるよりは所在が分かって安心だということで、互いに折り合いを付けられたようである。

「ありがとうございます、先生。……話、聞いてもらえて良かったです」

「俺は……なにもしてないよ」

 ただ話を聴いて、無責任な言葉を送っただけである。写真学科への進学を進めることすらも思いつきもしなかった。自分のお陰だ、と胸を張るには、あまりにお粗末な行動だったと自らを振り返って思う。

「でも、先生がああ言ってくれなければ、わたしは前に進めませんでした」

 ありがとうございました、と一礼して踵を返して教室に戻っていく。その後ろ姿が弾んでいるようで、良かった、と思うのと同時に少しの羨ましさを感じた。葉太が教師になったのは半ば成り行きに近い。大学の学部は自分の学力に見合ったものを選んだ結果だし、教師になる目標はそれに伴って自然に発生したもので、夢とまで言えるものではなかった。熱意を持って取り組むようなものではなかったのだ。

 けれど、透子も桜子も、自身の夢に情熱を持って取り組んでいる。そのために困難にも立ち向かう勇気を持っている。彼女たちの見る景色は違って見えるのではないかと思ったら、自分もそこに行って見てみたいような、そんな衝動に駆られてしまった。

「まあ、もう過ぎた話だけれどな」

 葉太の花盛りはもう過ぎた。羨ましくはあるが、そのような情熱を持てる気はもうしない。きっと葉太自身も気が付かないうちに花は散ってしまったのだろう、とそう感じる。

 けれど、透子はまだ続いているようだった。桜子のほうはこれからだ。彼女たちはきっと華麗に咲くことだろう。

 ――それを見守ることがきっと、俺の役目だな。

 そんな風に思ってしまえば、この〝置いていかれた立場〟も悪くないように感じられる。

 職員室に戻る間、ぶるぶるとポケットの携帯電話が震える。着信画面に表示されていたのは、四年ぶりに見る名前。

 まだ電話帳から消していなかったのか、と自分の未練がましさを笑いながら、一瞬だけ廊下の隅で立ち止まり、ショートメールを開くボタンを押した。


 ――――


「桜、すっかり散っちゃったね」

 赤い咢だけを残し、すっかり新緑の葉に枝を覆われた桜の木を見上げた傍らのひとは、残念そうに呟いた。

 長かった髪を首元まで切り、化粧気のなかった唇に紅を引くようになった透子は、昨年の夏、葉太のところに戻ってきた。あちらでの大学の博士課程を終えて帰国したのだ。その後、再会した二人は復縁し、この春に入籍した。この夏には結婚式も予定している。

 珍しいパターンのスピード婚に、周囲は仰天していた。ただ一人、葉太と透子の仲介をしてくれた冬木は除く。彼があのとき透子の成果発表を連絡してくれていなければ、葉太は今でも透子を許してはおらず、この幸せを握りしめることはなかったことだろう。あのときは余計なお世話だと思ったが、今はとても感謝している。

 三年前のあの日。春川桜子が夢を追うことを決意した春半ば。透子からのメールを受け取ったことをきっかけに、二人は頻繁に連絡を取り合うようになった。互いの絶縁時の謝罪から始まり、それから近況報告を重ねていくうちに、二人して想いを取り戻していったらしい。透子が帰国したあとは頻繁に逢瀬を重ねて、昨年の冬、プロポーズを受けたのだ。

 ――もう一人で勝手なことはしないから、傍にいて私を支えて欲しい。

 葉太にとっては殺し文句だった。仕方ないな、と先を越された恥ずかしさを隠して手を握り、今日に至るのだ。



 さて、葉太と透子の復縁のもう一人の立役者である桜子は、卒業したその春に欧州へと飛び立った。半年の間、現地で言語の勉強をして、秋には写真学科への入学を果たしたそうだ。それから一年間、思う存分に写真を学び、日本へ帰ってきてからは受験勉強。この春、かつての志望校に入学した。

 葉太がその知らせを受けたのは、つい先週のことである。住所変更する前の宛先で、葉太の新居に小包が届いた。中身は、桜子の夢の集積――フォトブック。陰影を生かした異国の景色がたくさん綴じられていた。

『先生のお陰で、わたしは目一杯咲くことができました』

 添えられた手紙には、流れるような字でそんな言葉が書かれていた。

『けれど、花の時期はもう終わり。わたしは普通の学生に戻ります。

 でも、わたし、満足しているんです。たった一年だけだったけど、思うがままに写真を撮ることができたから――』

 悔いなし、と書かれた文末に、大学に合格した事が書かれていた。これからは本当に普通の、写真とは関わりのない人生を歩いていくのだという。

「もったいないなぁ」

 桜子の手紙を覗き見た透子はそう言った。せっかく学んだ技術を生かす学部に進めば良いのに。知った仲でもないくせに、そう口を尖らせた。

「じゃあ、お前はどうなんだよ」

 問い返せば、曖昧に笑う。五年も異国で半導体の研究をしていた透子は、地元の電機会社に就職していた。半導体の製作とは関わりのない、小さな家電メーカーの設計職だ。留学の経験が活きない、とまでは言わないが、あれだけの熱意を注いだ行く末がそこなのは、些か寂しいものがある。

 けれど、透子に不満はないらしい。思う存分に研究できた、それだけで十分なのだ、と周囲がその経験を惜しむ中で、胸を張っていた。

 このときも、また。

「人生、そんなものなのです」

 苦笑しながら返したその顔には、やはり未練や後悔の色は見られなかった。



「帰ったら、返事しなきゃね」

 桜、で思い出したのか、透子は右手の小さな袋を示しながらそう言った。筆ペンと一緒に入っているのは、淡い緑色のレターセット。結婚式の招待状の宛名書きのついでに返事してしまいなさい、と透子が選んだものだった。

 可愛らしいその便箋を男の葉太が使うのは、些か気が引けるけれども。

 新生活をはじめた桜子を応援してやりたい、と心からそう思う。



 ――花盛りを終えて、葉の季節を迎えた君へ。

 かつての夢を糧にして、これからも楽しい日々を送ってください。


「なんだか詩的ね」

 写真のお礼に添えた葉太の文面を覗き込んだ透子は笑う。

「国語教師だからな」

 葉太は沸き上がる羞恥を押し隠して、透子に負けじとニヤリと笑った。

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葉桜の君に 森陰五十鈴 @morisuzu

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