第3話 夢を見られるのは一瞬

 もしかしたら、と思って立ち寄ってみたあの公園。金曜日の夜遅く。葉太の予想していた通り、桜子はそこにいた。薄暗い公園の隅で桜の木に凭れ、足先で地面をつついている。土の上には赤い萼が広がっており、枝を占めているのは葉桜ばかりだ。

「桜、完全に散っちゃったな」

 先週と同じように、金網を迂回して街灯の照らすところまで来た葉太は、俯く桜子に気安く声を掛けた。

「あ……秋田先生」

「塾帰りか? あんまり遅くなると、家の人が心配するんじゃないのか?」

「そう……ですね」

 そう応える桜子だったが、幹に身体を預けたまま、なかなか動く様子を見せない。まあ、葉太は悩みを聞きに来たのだ。自己都合だが、今ここで逃げられてしまってはこちらが困る。

「この前のことなんだけど」

 びくり、と桜子の肩が跳ねた。恐る恐るこちらを見上げる眼差しは、警戒の色に染まっている。予想通りとはいえ、これには苦笑いするしかない。別に獲って食いやしないのに。

「世界を回って写真を撮りたいっていう話。なんでそう思ったんだ?」

 う、と言葉に詰まった桜子は、視線をまた地面の上に戻してしまった。葉太はただじっと桜子を見つめて待つ。話すまで動く気はない。視線でそう訴える。

 逃げ場はないと悟った桜子は、観念して重い口を開いた。

「……わたし、写真部に入っているんですけど」

「知ってるよ。コンテストで賞を取ってただろう。宵の口のコスモス畑の写真だったよな」

 えっ、と桜子は目を丸くする。まさか自分の作品を見ているとは思わなかったのだろう。……まあ、本当の意味で興味関心があったわけではなく、桜子から話を聞くために調べただけではあるのだが。

 その写真は、今葉太が言ったように、コスモス畑を写したものだった。何処かの高原だったのか、遠くには雪を被った尾根が見え、空は夕焼けから夜までのグラデーション。その光景も素晴らしかったが、それ以上に見事だったのは、その空の色にコスモスが負けていないことだった。夕方のわずかな光を受けて浮かび上がる白とピンクと橙のコスモスの存在感。事務的に見ていたはずの葉太も、思わず魅せられるほどだった。

「……好きな写真家がいるんです」

 ぽつり、と桜子は改めて切り出した。

「世界の風景の写真を撮る人で。光と影の使い方がすごいんです」

 絵画で言えばレンブラントの作品のような、明暗がはっきりとした風景を映した写真に、桜子は魅せられた。その人の写真集をたくさん買って眺めているうちに写真を撮ることに憧れて、写真部に入ったのだという。

「はじめは、ただの趣味だったと思います。でも、いろんな写真を撮っていくうちに、もっともっと撮りたいって思うようになってしまって」

 あるとき、とんでもない自信作ができてしまった。先程のコスモスの写真だ。憧れの写真家に近づいたと思ってしまうような見事な光と影の演出。小さいものだったがコンテストに応募したら、優秀賞を取ってしまった。

 それが、桜子の欲求をさらに掻き立ててしまったらしい。もっとすごい写真を。そればかりが頭を占めるようになってしまった。

「写真家になりたいとまで言う気はないんです。ただ、もう少し写真を撮っていたい。どうせなら、日本だけじゃなくて海外にも行ってみたい。いろんな景色を、いろんな光で撮ってみたい。……でも、大学に入ったら勉強ばかりでそんな時間は取れなくなるんじゃないかって思うと……大学に行くのが、嫌になっちゃって」

 実際の大学生活は、二ヶ月に及ぶ夏休みと、同じく二ヶ月近い春休みがあるため、海外旅行するには十分な時間はある。けれど、桜子の欲求はそれに収まらないらしい。ただひたすら写真に打ち込める時間を渇望しているようだった。

「……馬鹿げてますよね、こんなこと。お金はどうするんだって話になりますし。大学蹴って撮影旅行なんて……現実的じゃない」

 ふふふ、と乾いた笑いが桜子の口から漏れる。葉太を見ていたはずの瞳はどこか虚ろで、表情を失った顔には自嘲の色が浮かんでいて。悩んで悩んで、諦めるしかないと結論付けて、悲しみに疲れてしまった表情だった。

 あまりにやりきれなくなって、葉太は桜子の顔から視線を逸らす。夢を諦めざるを得ない人間の表情は、あまりに痛々しすぎた。一度だけ、こんな表情を見たことがある。卒業論文の為の研究室を決める前の、透子の顔だ。もう無理かも、と嘆く彼女は、未来に何も可能性を見出せなかったらしい。

 ――あのとき、自分はなんて言って励ましたっけ……。

 霞がかった記憶を探せないかと空を仰げば、緑の天蓋がそこにある。街灯の光を受けた葉桜は、初々しい色を見せていた。

「桜ってさ、〝夢見草ゆめみぐさ〟って異名があるんだ」

 唐突にそんな言葉が漏れだした。授業の準備のために開いた資料集の中に有った単語が、ふと頭の中に過ぎったのだ。

「あれだけ綺麗で豪華に花を咲かせるのに、雨風一つで容易く散ってしまう。その儚さが夢のようだから、そんな異名が付けられたんだろうな。そのくせ、散って葉っぱになってしまうと他の木と一緒くたにされて、見向きもされない。花の時を夢みたいに思っているのは、実は桜のほうかもな」

 葉太の話の所為だろうか、桜子もまた枝を見上げた。緑ばかりが占める桜に表情を歪めさせる。花の時期を終え、顧みられなくなった桜に同情でもしたのだろうか。

「人間もさ、同じじゃないか? 花盛りは一瞬。それが終われば、他の人と同じような人生を送るだけ。だったらその一瞬、好きなように使わないと勿体ないんじゃないか?」

 葉太に視線を戻した桜子の眉根が寄る。何を馬鹿な、とでも言いたげだ。だが、その馬鹿げたことを諦めきれなかったのは、桜子のほうではなかったか。

 仕方のない奴だ、と肩を竦めた。まあ、人に認められなければ、自分の意志を通すのもなかなか難しいものだから。

「……昔、俺の傍にもそういう奴がいた。このまま地元で過ごしていくのだろうと思っていたら、突然海外に飛んでいっちまった。置いていかれた俺は、なんでだろう……ってずっと思ってた」

 桜子のことを考えている間、どうしても透子のことばかりが思い出されてしまった。顔だけではない、夢を追い求めている姿がどうしても、あの夏の日の透子の姿と重なった。

 どれほど拒んでも追想を止められなかった葉太は、観念して目を逸らしていたあの日を見つめ直すことにした。そこに、桜子に対する答えがあるような気がしたのだ。そして、葉太が望んだとおり、見えてきたものがあった。

「なんで急にそんなことを言いだしたのか、あのときはまるで分からなかった。けれど、たぶんあいつは『今しかできない』って思ったんだろうな」

 透子は桜子のように、苦悩した様子を見せなかった。でも、本当に何一つ悩むことなく渡米を決めたのだろうか。そんなはずはない、と今なら思う。何かある度に葉太に相談していた透子が、渡米の件に限って何も悩まなかったなんてことはあるはずがない。なら、そんな透子が決断した理由はなにか。それを想像して葉太が導き出した答えがそれだった。

 今しかない。チャンスはそうそう巡ってくるものではない。あちらからやってくるか、こちらから飛び込むか、その違いはあるけれど、やってみたいと思ったその瞬間が手を伸ばすそのときなのではないか。

「大学なんて、すぐに行く必要はないと思う。一年か二年、やりたいことに挑戦してみて、そのあとでも十分遅くないんじゃないかな」

 もし、透子の相談を受けていたら、葉太は彼女にいったい何を言っていたのだろう。それを思えば、桜子に掛ける言葉なんて、自ずと知れてくる。

 あの日言えなかった――言うべきだった言葉を、葉太は口にした。

「行ってくればいい。その夢、今じゃないときっと叶えられないぞ」

 さあ、と夜風が葉桜を揺らした。葉擦れの音に、二人して桜の木を見上げる。青々としたその木に、桜子は一体何を見たのか。

「……良いのかな。こんな夢、親に言っても」

 か細い声。だけど、これまでのような消えそうなものではなく、そこには張りが戻っていた。まだ不安そうな声に、葉太は優しく微笑みかける。

「言うだけ言ってみたらいいんじゃないか? それでも許してくれそうになかったら、また相談しに来いよ」

 葉太を見上げた目がすっと細められる。淡く浮かんだ微笑は、今吹いた風のように清々しいものだった。

「……帰ります。先生、ありがとうございました」

「おう。頑張れよ」

 ぺこり、と頭を下げて駆け足で公園を出ていく桜子を、葉太は街灯の下から見送った。

「……夢追い人も大変だな」

 悩んだり、認めてもらわなくてはいけなかったり。でも、まごまごしていると、せっかくの好機は手の届かないところへ行ってしまう。短い間で、重要な決断を迫られてしまうのだ。

 叶うにしろ、叶わないにしろ、桜子はきっとこれから大変な想いをすることだろう。せめてそれが報われるといい、と葉太は祈った。

 足音が聞こえなくなったところで、葉太も帰ることにした。今日もまた、コンビニの弁当だ。

 家で弁当を温めている間、パソコンを立ち上げる。開いたのは、冬木から来たあのメール。添付ファイルに目を通したあと、返信ボタンを押してキーボードを叩きはじめた。

 夕食を温め終えた電子レンジが葉太を呼ぶ。けれど今はそれを無視して、勢いのままに文章を書き連ねた。

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