第2話 夢追い人たち

 大学の旧友の冬木から久しぶりに連絡があった。メールに添付された三枚の画像データ。プレビューによると、一枚は科学雑誌のとある記事。一枚は研究発表用ポスターのPDF。どちらも英字で書かれている。

 もう一枚は、写真だった。数人が横に並んだ記念写真。真ん中の老人がトロフィーのようなものを持っている。その隣には見知った顔。

 何故このタイミングで、と葉太は六畳間のテーブルの上で頭を抱えた。否応なしに思い出される過去。あの夏の日に絶縁状を突きつけた恋人の顔が、脳裏に蘇る。

 それに公園で見かけた桜子の顔が重なった。恋人の顔に浮かんだ苦悩。もしあのとき、彼女が桜子と同じように葉太を見上げていたならば――などとまた想像しかけ、不毛であることに気づき、取り止める。

 ファイルは開かなかった。英語は読めるが、文系の自分にどうせ内容は分からない。


 ――――


 金曜の夜。春川桜子の告白を聞いた葉太は、さぞかし間抜けな面をしていたことだろう。写真? そういえば、桜子は写真部に所属していたか。コンテストの入賞の記録もあった気がする。だから、写真を撮りたいと言い出すことには、なんの不思議もない。

 が、しかし。

 ――写真を撮りに世界を回りたい、だと? 有名校への進学を蹴って? 成績優秀な高校生が?

 受験生のものとしては到底信じられない発言に、葉太は面食らった。そうか、といい加減な相槌の言葉も出てこない。ぽかん、とただ口を開けて、目の前の女生徒を見るばかり。

 それがいけなかった、と気づいたのは、桜子が焦ったように口走ったときだった。

「ごめんなさい、飛んだ世迷い言でしたよね。写真だなんて、馬鹿らしい」

 わたわたと胸の前に突き出した両手を振って、更なる暗がりの中へと後退する。慌てているのか、なんてことを、とか、もう嫌だなわたし、とか、後悔の独り言を止められない様子だった。

「今のこと、忘れてください。なんでもないですから」

 何か言わんと口をパクパクさせる葉太にそう念を押して、さようなら、と頭を下げると、桜子は足早に公園を出ていった。

 呼び止める暇もなかった。

 ぽつん、と街灯の下に一人取り残された葉太は、知らずのうちに、弁当の入ったポリエチレンの袋を地面の上に落としていた。

 まずったなぁ、と頭を抱えたのは、その後のことである。



 月曜になって授業が始まると、桜子に避けられていることに気がついた。葉太が受け持つ国語の授業。新しい教科書のはじめに掲載された春の詩の音読をクラスの誰かに求めると、さっと葉太から桜子の視線が外されたのだ。目立つのを嫌う現代の日本人。音読の指名を避けるのは、高校生にはよくあること。誰もが葉太から視線を逸らす中で桜子が特に印象に残ったのは、立候補を募る直前まで彼女の視線を感じていたからだ。

 授業を終えて捕まえようと試みれば、桜子は察したらしく足早に教室を出ていった。きっと葉太の反応が恐ろしいのだろう。就職も進学も希望しない高校生に向ける教師の言葉なんて、誰でも簡単に想像がつく。それを実際に聞くのが怖いのだろう、と葉太は見当をつけた。

 実際、葉太も桜子に掛ける言葉は見つかっていない。下らないことを言っていないで勉強をしなさい、がNGワードであることが、せいぜい分かっているくらいだ。

 どうしたことかな、と頭を悩ませる。同時に思い浮かぶのは、かつての恋人のことだった。この週末に冬木から送られた電子メールの添付ファイル。あれは、彼女の最近の功績について書かれたものであった。



 夏野透子。葉太のかつての恋人は、地元の大学の電気学科で半導体を学んでいた。透子は世間が思い浮かぶ典型的な理系女子リケジョ。興味があることに熱心で、一度夢中になると他の事が全く目に入らない。

 そんな透子と葉太が付き合うことになったのはどうしてだったか――なんてことは、今となってはもうどうでもいいだろう。

 問題は、どうして別れたか、だ。

 四年前。葉太と透子がまだ大学四年生だった夏。葉太は教員採用試験を無事終えて、地元での就職が決まっていた。透子はそのまま大学院へ。そうなる未来を信じきっていた葉太に、透子は突然告げたのだ。

「来年、アメリカに行くことになった」

 卒論の為に所属していた研究室からの帰り道。ひぐらしの声を聞きながら駅までの下り坂を歩いていたときだった。透子はまるで明日の天気について話すかのように、そんな重大なことを告げるのだった。

「は……?」

「先生の推薦を受けたんだ。今、共同研究を行っている先で、勉強する気があるなら面倒を見てくれるって。ありがたく受けることにした」

 日本人形のように、淡泊で整った顔に澄ました表情を浮かべて、淡々と彼女はそう告げる。一方、葉太は混乱していた。

「そんな……どうして、そんな急に」

「急じゃないよ。春にはもう、その話が出ていたの」

 愕然とした。その春がいつ頃なのかは知らないが、少なくとも三ヶ月は前のことである。

「知らないぞ。俺、なにも聞いていない」

 当時、葉太は大学の傍に独り暮らしで、透子はそれより少し離れた場所で独り暮らし。互いに教採や院試で忙しかったとはいえ、二人は頻繁に会っていたはずだ。葉太が本番を前にしているときでさえ、週に一度は会っていた。それなのに、葉太は透子から〝アメリカ〟のことなど何一つ聞いていなかった。

「そうだね。私、何も言わなかったから」

 記憶違いでないことも、はっきりした。しかし、それは葉太に安心ではなく、更なる絶望をもたらした。まだ口約束とはいえ、結婚して地元で暮らしていく未来を描いた仲なのに、その構図を破綻させる出来事を、透子は相談一つしないで勝手に決めてしまったのだ。

 どうして、と詰め寄っても、透子は何も応えてはくれない。これまでにこんなことは一度もなかった。一見さばさばしているように見えるが、不安にはめっぽう弱いのだ、透子は。三年の成績が思うように振るわず、希望する研究室に入れないかもしれないと目の端に涙を浮かべた彼女を励ましたのは、まだ記憶に新しい。他にも、苦手な教科のレポートがうまくいかなかったとき。バイト先の人間関係に苦悩したとき。それら全て、葉太が励ましサポートしてきたはずだった。

 なのに、こんな大事なことに限って、彼女は相談してくれなかったのである。腹が立つのも当然だ、と葉太は自分で自分を弁護した。その間、葉太は将来を語ったことだってあったのに、彼女は笑って頷いているだけだった。

「――裏切り者」

 何を訊いてもまともな応えを返してくれない透子に、痺れを切らした葉太が口にしたのは、そんな言葉だ。あんなに頼っておきながら。相談する機会はいくらでもあったのに。そんなことばかりが頭の中を巡ると、紡ぎ出されたのはそれ一つしかなかった。

「ごめんね、ヨウくん」

 しかし彼女は涙一つ溢すことなく――それどころか、悪びれた様子も見せることもなく、視線を何処か遠くへ飛ばした。

「でも私、決めたんだ」

 何を言われてももう、自分の意志を曲げる気はない。そう言う透子に激昂し、

「勝手にしろよ! 何処にでも行っちまえ!」

 癇癪を起こした子どものような台詞を叩きつけ、走って坂を下りたのが、透子との最後の記憶。

 それから葉太は透子に真意を問いただすことはなく。

 透子もまた葉太に弁明の機会を乞うこともなく。

 すれ違ったまま春を迎えて、透子は太平洋の向こう岸へと飛んでいった。

 今もまだ、あちらの大学院で楽しく過ごしていることだろう。友人が送ってきた透子の研究が受賞したことを伝えるメール。拡大する前の添付ファイルのプレビューが透子の笑顔を写していたから、まず間違いない。



「相談するだけまだ可愛いげがあるよな……」

 昔の事を思い出し、そこに桜子を重ね合わせた葉太は、人の少ない職員室でそう自嘲した。桜子のことを口にしているが、間違いなく自嘲である。頼ってくれない人間を容易く見限る己の非情。頼られたところでまともな言葉を返せない己の無能。四年の時間を隔ててようやくその事に気づかされた虚しさが、自尊心を擁護する台詞に置き換えられた。

 透子もそんな葉太の小ささを見抜いていたのかもしれない。だから葉太に相談もなく決めてしまった。そう思うと、ますますやりきれなくなる。

 それに、きっと彼女は家族には相談していただろうから、葉太までは必要なかったのだ。大学の補助があるとはいえ、留学の費用を出すのは両親だ。まさか親にも相談せずに決めたなんてことはないだろう。

 ――春川はどうなんだろう。

 金曜の夜。おそらく塾の帰り。暗い公園の中に一人で居たことを考えると、親にも相談できているとは思えない。友達はどうだろう? さすがの葉太も、一週間でクラスの生徒の交遊関係まで把握できていない。桜子が誰と話しているか、悩みを打ち明けられているかなんて、それこそ分かるはずもなかった。

 ――放っておいていいものだろうか。

 呆然とした葉太に失望していた桜子の表情。その答えは、告白した後の桜子の様子から明らかだ。

「どうにか話、聞いてみないとな……」

 ギシギシ鳴る椅子の背に凭れて、天井を仰ぎ見る。薄暗い蛍光灯の光を弾くトラバーチン模様の白天井。彼女の心が虫食いだらけになる前に、教師としてなにか手を打たなければならない。

 なにせ、彼女は葉太を頼ってくれたのだから。

 頼ってくれなかったことを不満に思うなら、せめて頼ってくれた人間は助けるべきだろう。

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