葉桜の君に

森陰五十鈴

第1話 既視感の少女

「裏切り者」

 飛び出した、地を這うような低い声。上目遣いに睨み上げた先には、高校時代から付き合っていた恋人がいた。長いこと眺めてきた化粧気のない顔に、これまでにないほどの憤りを覚える。――話が違う。そんな言葉ばかりが、感情と共に頭の中を巡っていた。

「ごめんね、ヨウくん」

 肩より少し長い髪をすっきりとポニーテールにまとめた彼女は、困り顔で葉太を見つめ返した。まるで子どもを諭すような眼差しに傷つく。まるで我が儘を言っているのは自分だと言われているようで。

 でも、我が儘を言っているのはあちらのほうではないか、と怒りの炎は増していく。

 そんな葉太の心情に気づいているのか、恋人はなおも残酷な言葉を吐き続けた。

「でも私、決めたんだ」

 眇めた瞳を決意で満たし、彼女は空の彼方に視線を飛ばす。

 そうして葉太は置き去りにされた。不貞腐れた男のレッテルを貼り付けられたまま、季節は三度と半分が巡って――。


 ――――


 ここのところ、やたらと天気が良い。暖かい日が続き、空には雲一つ存在していなかった。沈みかけた太陽が直接赤い光を送ってくる。一応、蛍光灯はつけているのだが、青白い光は赤色に負け、放課後の教室はすっかり夕焼けに染め上げられていた。

 燃えているみたいだ、なんて感想を抱きながら、葉太は対面に座った少女に向き直った。日本人形にブレザーを羽織らせたような彼女は、焼けた空を拒むかのように視線を自らの手元に向けている。

「それで、春川は、第一希望はM大でいいんだよな?」

 都会の有名大学の名を挙げた葉太に返ってくるのは沈黙。しばしの後に、はい、とだけのか細い応答。葉太は訝しむ。

 新学期。この学校に転勤してきたばかりの国語教師――秋田葉太は、早速三年生のクラスを請け負った。進級式の後のホームルームで進路面談の実施を宣言したのが、四日前。教師歴三年の経験を生かし、クラスの半数近くの生徒からあれやこれや話を聴き、順調にその為人ひととなりを掴んできた葉太だったが、今ここに来て言葉少なの少女を前に躓きつつあった。

 目の前の少女――春川桜子。成績の良い生徒を集めたこのクラスで、なお上位に位置する優等生。日本の大学で五指に入る有名校に入ることも可能だと思われる彼女は、自らの希望を――事前のアンケートに書かれている事でさえ、一言も話そうとしなかった。

「模試の成績からしても実力は十分。むしろ、もう少し上を狙っていいくらいだが……どうしてM大に?」

 都会に憧れがあるのか、それとも尊敬する教授でもいるのか。その辺りを聞き出せれば雑談くらいはできるか、とそう思って問いかけてみたものの、桜子は膝の上の両手を握りしめたまま、真っ直ぐな長い髪の下に表情を隠して、黙りを決め込んでいた。

 葉太は頭を掻いた。三十人超えのクラス。その中に人見知りの人間が紛れていてもおかしくはないが、それにしても言葉が少なすぎる。まして、彼女は優等生と聞かされていた生徒だ。面談はスムーズに行くものと、葉太は予想していたのだが。

 結果は沈黙に時間を費やすばかり。

「春川」

 そっと呼び掛けると、彼女はようやく顔を上げた。

 その泣き出しそうな表情を見て、葉太はどきり、とした。四年前の記憶にある顔と桜子の顔が重なる。そういえば、よく似ている。筆を引いたような柳眉も、眇めたような目の形も、少し低めの鼻も、小さめな口の形も。

 四年前に、酷い別れ方をした恋人に。

「……わたし」

 なにかを堪える表情の彼女に、葉太の胸はざわついた。既視感と同時に蘇る憤りと罪悪感。知らず葉太の顔が歪んだ。

 それを見てしまったのだろうか。

「……すみません。やっぱり良いです」

 桜子は言葉を引っ込めて、また俯いてしまった。

 それから面談は遅々として進まず。そろそろ塾の時間だから、という言葉で面談はお開きとなった。

 結局、春川桜子については、事前の進路志望確認用紙以上の情報を得ることができないままで。

 面談後に職員室に戻ってきたものの、彼女の思いつめた様子が酷く気にかかり、事務作業はなかなか手が付かなかった。しかし、来週にもなれば、授業は本格的にスタート。忙しくなる。どうにかすべきことを片付けて、ようやく帰宅となった頃には、すっかり夜も深くなっていた。

 街灯がアスファルトやコンクリート塀を照らすだけで物寂しい住宅街を、コンビニの袋片手に歩く。残業した独り身の男の食事なんてこんなものなのだろうが、それでも虚しく思ってしまうのは抑えられない。

 ――もしも、あのとき。

 今更どうにもならないことを思い出しかけ、頭から振り払う。首の動きを止めた視線の先で、ふと気になるものが目に留まった。

 そこにあるのは公園だ。金網で仕切られて、土が踏み固められている子どもの遊び場。住宅街の中に確保されたにしては比較的広い土地の奥側に、ブランコと滑り台とジャングルジム。少し離れて砂場が作られていた。遊具の対角線上には藤棚を天井とした四阿が作られていて、コンクリートの流し込まれた台の上には、丸太を切り出したようなテーブルと木のベンチが一つ。

 そして手前側、葉太にほど近い四つ角の一つには、道路側に枝を迫り出した桜の木が植えられていた。といっても、花の時期はとうに終わった。半分ほど散ってしまい、薄紅の花の領地は薄い緑色の葉に侵食されつつある。

 その桜の木の根元に一人少女が佇んでいるのを見つけた。道路側に立つ街灯から身を隠すようにしているが、見覚えのある制服がはっきりと見えた。真っ直ぐに伸ばされた長い髪。何処かで会ったな、と暗がりの中でよく目を凝らしたら、他ならぬ春川桜子だった。夕暮れの教室と同じくなにか思いつめた様子で木の幹にもたれながら足元の土を蹴っている。

「――春川」

 フェンスを回って桜の木の傍に近づきながら、そっと声を掛ける。まさか人に呼ばれると思っていなかったのだろう、はっ、と桜子は顔を上げた。

「どうしたんだ。こんなところで、こんな時間に」

「……秋田先生」

 桜子は、くしゃり、と顔を歪めた。見つかってしまった、とばつの悪そうな。それでいながら救いを求めているような、複雑な表情。知った面影がまた重なる。

 昔、こんなふうに縋る瞳で見つめられたことが何度もあった。その度に葉太は話を聴き、慰めて、その背中を押してやった。そのときは頼られることが嬉しく、誇らしくもあったものだが、今となってはかえって苦い記憶である。

 また一つ夜陰に浮かび上がった記憶を、葉太は脳内から振り払った。目の前にいるのは恋人ではなく、一人の生徒。葉太は教師。ならば、することは決まっている。どうせ、面談のときも碌に話を訊きだせなかったことであるし。

「なにか悩みでもあるのか? さっきの面談のときも、なにか言いたそうだっただろう」

「いえ、別に……」

 ふい、と桜子は葉太から視線を逸らした。もじもじとまた爪先で、桜の花弁が踏み荒らされた地面を弄る。葉太はしばらく待つことにした。こういう場合、深く追及するのは逆効果。相手が口を開くのを待つのが得策である。

 じっと見つめるのもプレッシャーを与えるだけなので、葉太は空を仰ぎ見た。星空の半分を覆い隠すのは、桜の枝。散り残った花弁が五割ほど。残された赤い萼が三割で新緑の葉桜が二割といったところか。花の盛りを終えた桜の木は、三色入り混じって、お世辞にも綺麗とは言えなかった。

 相手は何も言いださない。けれど、葉太の前から去ることもない。沈黙を持て余している様子に、方針の転換が必要だ、と葉太は気付いた。きっと聞き出してもらわないと白状できないタイプだ。そして、それだけ悩みが深い証拠でもある。

「進路、悩んでいるのか?」

 強引にならないよう声音を柔らかくした葉太の問いかけに、桜子はもう一度俯く。もう一押しか、と葉太は続けた。

「ここ、学校じゃないんだしさ。保護者にも言わないから、言うだけ言ってみたらどうだ?」

 すっきりするぞ、という葉太の提案に心が動いたのか、躊躇いに躊躇った桜子は、こくり、と一つ頷いた。

「やりたいことが、あるんです」

「やりたいこと?」

「海外に、行ってみたくて」

 海外、という言葉が、ちくりと葉太の胸に刺さる。ここもかよ、と心の中で悪態を吐いた。思い出したくもないあの日を繰り返しているようで、金曜の夜なのに気が滅入る。

「どっかの大学に留学したいのか?」

 学生が海外に行く、と言ったときの大半の理由に、しかし桜子は頭を振った。

「大学に行くんじゃありません。その……」

 目を閉じ、胸の前で両手をぎゅっと握りしめて叫んだ。

「わたし、世界を回って、いろんな場所の写真を撮りに行きたいんです!」

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